第7話 潰れかけのパン屋を任される
翌朝、レティシアはゲオルクに連れられて領都の町へ下りた。
侯爵家の馬車はさすがに目立つため、今日は紋章の入っていない小ぶりのものが用意されている。もっとも、それで完全に人目を避けられるほど甘くはない。町へ入った途端、露店の女や荷を担ぐ男たちがこちらを見た。侯爵家の人間が下りてきた、それだけで空気がわずかに強張る。
重税に疲れた領民の視線。
昨日屋敷で感じたものと、同じ冷えがあった。
「そう気を張らなくてもいいんだよ、レティシア」
向かいの席で、ゲオルクがいかにも穏やかな口調で言った。
「最初は見て回るだけでも構わない。急いで結果を出す必要はないんだから」
「ええ」
レティシアは短く答えた。
優しい伯父。
気遣い深く、失意の姪に無理をさせまいとする大人。
言葉だけを取れば、その通りに聞こえるだろう。だが、その"優しさ"があまりに都合よく働いていることを、レティシアはもう見落とさない。
急いで結果を出す必要はない。
つまり、出なくても困らない仕事だということだ。
しばらくして馬車が止まる。
案内された先は、町の中心街から少し外れた通りだった。表通りの賑わいは届くが、わざわざ足を向けるには半歩遠い。人通りはあるが、立ち止まる理由に乏しい。商売には、あまり良い場所とは言えなかった。
「こちらだよ」
ゲオルクが先に降りる。
レティシアも続いて石畳へ足を下ろし、目の前の店を見上げた。
木の看板には、薄れかけた麦穂の絵。窓枠の塗料はところどころ剥げ、入口脇の花箱は空だ。建物そのものが崩れているわけではないが、手入れの手が減って久しい顔をしていた。
パン屋。
だが、通りに漂う香ばしい匂いは薄い。
朝の焼き上がりの時間を過ぎたからだとしても、店先に残る気配が乏しすぎた。
「町外れとはいえ、昔はもう少し賑わっていたんだけどね」
ゲオルクが残念そうに肩をすくめる。
「親方の腕は悪くないんだ。ただ、どうにも商売気がなくて」
その言い方も、実にわかりやすかった。
腕はあるが、商売が下手な職人。
だから赤字なのだという物語。
レティシアは何も言わず、店の戸口へ視線を向けた。
中から顔を出したのは、五十前後の男だった。大柄で、腕も肩もがっしりしている。粉の染みついた前掛けに、深く刻まれた眉間の皺。いかにも頑固な職人という風情である。
オットー・ブレンナー。
パン屋の親方の名は、昨日の資料で確認していた。
「親方」
ゲオルクがにこやかに声をかける。
「急ですまないね。前に話した件で、うちの姪を連れてきたよ」
オットーの視線がレティシアへ向く。
歓迎の色は、一片もなかった。
「……そのお嬢様が?」
「そう。しばらく店を見てもらうことになってね。困っている店を立て直す経験は、若い娘には良い勉強になるだろう?」
良い勉強。
また便利な言葉だ、とレティシアは思う。
失敗しても"勉強になった"で済む仕事。成功しても"良い経験"で片づけられる仕事。どちらへ転んでも、本筋には響かない位置へ押し込むための。
オットーは露骨に顔をしかめた。
「今度は貴族様の道楽ですか」
空気がひやりと冷える。
だがゲオルクは笑みを崩さない。
「道楽だなんて、そんな。侯爵家としても本気で立て直したいと思っているんだよ」
「本気で、ねえ」
オットーの視線は依然として厳しい。
「本気なら、粉代をどうにかしてもらいたいところですが」
その一言に、レティシアは内心で留めた。
資料では真っ先に"売れ残り"が赤字理由として並んでいた。だが現場の親方の口から最初に出たのは、粉代だ。
売上より先に、仕入れの負担を言う。
数字の置き方と現場の実感が、すでに少しずれている。
「そのあたりも含めてだよ」
ゲオルクは軽く受け流し、従者から受け取ったものを差し出した。
金属の触れ合う、しゃらりという小さな音。
鍵束だった。
「レティシア。しばらくのあいだ、この店の帳場と倉の鍵を預かりなさい」
伯父の掌の上で、三本の鍵が鈍く光る。店の裏口、帳場の引き出し、小さな倉庫。そんなところだろう。
一見すれば信頼の証だ。
だが、レティシアには別の意味にも見えた。
――ほら、好きにしていいよ。
――ただし、この狭い箱の中だけでね。
そんな線引きの音だ。
「ありがとうございます」
レティシアは素直に受け取った。
鍵は冷たく、思ったより軽かった。
「親方、しばらくよろしくお願いします」
「……こちらが言う台詞でもなさそうですがね」
オットーは不機嫌を隠さない。
その背後、店の奥から若い娘が顔を覗かせた。栗色の髪を後ろで束ねた、活発そうな娘だ。帳場補助のエルザだろう。彼女もまた、露骨に警戒していた。
「お父さん」
「引っ込んでろ、エルザ」
「でも――」
言いかけて、エルザはレティシアと目が合い、すぐに口を閉ざした。
その反応にも、既視感があった。屋敷の若い侍女アンナと同じだ。怯えと警戒。傲慢な令嬢が現場を引っかき回しに来た、とでも思っているのだろう。
ゲオルクは場を和ませるように朗らかに笑った。
「まあまあ、最初からそう身構えなくても。レティシアも、無理に口を出す必要はないよ。まずは見て、覚えて、少し手伝うくらいでいい」
無理に口を出す必要はない。
つまり、口を出されては困るところがあるのかもしれない。
レティシアは鍵束を指先で静かに握り、店内へ視線を巡らせた。
表の陳列棚には、パンが思った以上に少ない。
昼を回って売れた後、というには偏りがあった。大ぶりのパンばかりが残り、小さな食事用のものはほとんどない。値札も擦り切れて読みにくく、焼き菓子の籠は半分空だ。
空いた棚。
その寂しさは、単純な盛況とも違って見えた。
売れたのか、最初から並べる数が少ないのか、あるいは作れないのか。
資料の数字だけではわからない"店の顔"が、そこにある。
「中を見ても?」
レティシアが問うと、オットーは一瞬ためらい、それからぶっきらぼうに顎をしゃくった。
「好きにすればいいでしょう。もうそういう話なんですから」
「ありがとう」
店の奥は思ったより狭い。
焼き窯、捏ね台、粉袋、木箱。必要なものは揃っているが、余裕はない。壁際の棚には、帳面や納品札が雑多に積まれていた。
その中に、一冊だけ背表紙の擦り切れた帳面がある。
「それは?」
レティシアが指した途端、オットーの眉が寄る。
「古い売上帳です。どうせ見ても面白いもんじゃない」
「見せていただけますか」
「……お飾りのお嬢様に、何がわかるんです」
今度ははっきりと言われた。
職人たちの反発は、想像以上に露骨だった。
店の隅で作業していた若い職人見習いが、小さく鼻を鳴らす。エルザも唇を引き結んだまま、父とレティシアを見比べている。
ここではレティシアは侯爵令嬢である以前に、現場を知らない余所者なのだ。
わかっていたことではある。
むしろ、正直で助かるとも言える。
「わからないから見るのです」
レティシアは平坦に答えた。
「最初からわかると思っているなら、ここへは参りません」
オットーは返す言葉を探すように黙った。
気の強い返しだと思われたかもしれない。だが媚びる気はなかったし、必要以上に威圧するつもりもない。ただ事実を言っただけだ。
しばしの沈黙の後、オットーは乱暴な手つきで古い売上帳を取り上げ、机の上へ置いた。
「ほら」
「ありがとうございます」
レティシアは頁を開いた。
紙は油と粉で少し波打ち、記帳は几帳面とは言い難い。それでも昨日見た"整えられすぎた報告用資料"より、よほど信用できそうだった。
日ごとの売上。品目。おおまかな数量。たまに書き漏れ。時折入る、親方らしい短い走り書き。
雨で客足悪し。
小麦届かず、焼き数減。
朝に黒パン完売、昼の大きい丸パン余る。
レティシアの指が、そこで止まる。
黒パンは完売するのに、大きい丸パンは余る。
棚に残っていた品揃えと合う。
つまりこの店は、"売れないものばかり作っている"可能性がある。少なくとも、売れ筋と焼き数が噛み合っていない。
だが、それだけなら単純な経営不振だ。
問題は、そのすぐ次の頁にあった。
売上が極端に落ちた週なのに、仕入れ量の印が前後とほとんど変わらない。しかも、粉不足の書き込みがある月と、資料上の仕入れ総量がうまく噛み合っていない。
「……」
レティシアは何も言わず、数頁戻ってまた見る。
古い売上帳と、昨日もらった単独資料の数字は、大枠では合っている。だが、現場の書き込みから受ける印象が違いすぎた。
単に親方が頑固で、売れ残りを出しているだけ。
そういう赤字の顔ではない。
「面白いかい?」
後ろから、ゲオルクが穏やかに声をかけてきた。
レティシアは顔を上げる。
「ええ。とても」
「それはよかった。失敗しても経験になるさ」
その言葉に、レティシアはほとんど確信した。
伯父はこの店を、本当に"どうでもいい小さな赤字"として差し出している。失敗しても構わない。むしろ失敗した方が、姪が本筋へ近づかずに済むと考えているのだろう。
だが残念ながら、このパン屋は伯父の思うほど単純ではなさそうだった。
「伯父様」
「何かな」
「しばらく、毎日こちらへ通わせていただきます」
ゲオルクは一瞬だけ目を細め、それから柔らかく微笑んだ。
「もちろん。好きにするといい」
「ありがとうございます」
礼を言いながら、レティシアは古い売上帳をそっと閉じた。
手にした鍵束が、かすかに鳴る。
空いた棚。古い売上帳。親方の最初の一言は粉代。
どれも小さいが、無視してはいけない違和感だった。
潰れかけのパン屋。
お飾り令嬢に押しつけるには、たしかにちょうどいい。
けれどレティシアにとっては、ここがただの厄介払いの場で終わる気は、もうまったくしなかった。




