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婚約破棄で破滅予定の悪役令嬢ですが、赤字領地を黒字にしてみせます  作者: gachapin2223


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第7話 潰れかけのパン屋を任される

翌朝、レティシアはゲオルクに連れられて領都の町へ下りた。


侯爵家の馬車はさすがに目立つため、今日は紋章の入っていない小ぶりのものが用意されている。もっとも、それで完全に人目を避けられるほど甘くはない。町へ入った途端、露店の女や荷を担ぐ男たちがこちらを見た。侯爵家の人間が下りてきた、それだけで空気がわずかに強張る。


重税に疲れた領民の視線。


昨日屋敷で感じたものと、同じ冷えがあった。


「そう気を張らなくてもいいんだよ、レティシア」


向かいの席で、ゲオルクがいかにも穏やかな口調で言った。


「最初は見て回るだけでも構わない。急いで結果を出す必要はないんだから」


「ええ」


レティシアは短く答えた。


優しい伯父。


気遣い深く、失意の姪に無理をさせまいとする大人。


言葉だけを取れば、その通りに聞こえるだろう。だが、その"優しさ"があまりに都合よく働いていることを、レティシアはもう見落とさない。


急いで結果を出す必要はない。


つまり、出なくても困らない仕事だということだ。


しばらくして馬車が止まる。


案内された先は、町の中心街から少し外れた通りだった。表通りの賑わいは届くが、わざわざ足を向けるには半歩遠い。人通りはあるが、立ち止まる理由に乏しい。商売には、あまり良い場所とは言えなかった。


「こちらだよ」


ゲオルクが先に降りる。


レティシアも続いて石畳へ足を下ろし、目の前の店を見上げた。


木の看板には、薄れかけた麦穂の絵。窓枠の塗料はところどころ剥げ、入口脇の花箱は空だ。建物そのものが崩れているわけではないが、手入れの手が減って久しい顔をしていた。


パン屋。


だが、通りに漂う香ばしい匂いは薄い。


朝の焼き上がりの時間を過ぎたからだとしても、店先に残る気配が乏しすぎた。


「町外れとはいえ、昔はもう少し賑わっていたんだけどね」


ゲオルクが残念そうに肩をすくめる。


「親方の腕は悪くないんだ。ただ、どうにも商売気がなくて」


その言い方も、実にわかりやすかった。


腕はあるが、商売が下手な職人。


だから赤字なのだという物語。


レティシアは何も言わず、店の戸口へ視線を向けた。


中から顔を出したのは、五十前後の男だった。大柄で、腕も肩もがっしりしている。粉の染みついた前掛けに、深く刻まれた眉間の皺。いかにも頑固な職人という風情である。


オットー・ブレンナー。


パン屋の親方の名は、昨日の資料で確認していた。


「親方」


ゲオルクがにこやかに声をかける。


「急ですまないね。前に話した件で、うちの姪を連れてきたよ」


オットーの視線がレティシアへ向く。


歓迎の色は、一片もなかった。


「……そのお嬢様が?」


「そう。しばらく店を見てもらうことになってね。困っている店を立て直す経験は、若い娘には良い勉強になるだろう?」


良い勉強。


また便利な言葉だ、とレティシアは思う。


失敗しても"勉強になった"で済む仕事。成功しても"良い経験"で片づけられる仕事。どちらへ転んでも、本筋には響かない位置へ押し込むための。


オットーは露骨に顔をしかめた。


「今度は貴族様の道楽ですか」


空気がひやりと冷える。


だがゲオルクは笑みを崩さない。


「道楽だなんて、そんな。侯爵家としても本気で立て直したいと思っているんだよ」


「本気で、ねえ」


オットーの視線は依然として厳しい。


「本気なら、粉代をどうにかしてもらいたいところですが」


その一言に、レティシアは内心で留めた。


資料では真っ先に"売れ残り"が赤字理由として並んでいた。だが現場の親方の口から最初に出たのは、粉代だ。


売上より先に、仕入れの負担を言う。


数字の置き方と現場の実感が、すでに少しずれている。


「そのあたりも含めてだよ」


ゲオルクは軽く受け流し、従者から受け取ったものを差し出した。


金属の触れ合う、しゃらりという小さな音。


鍵束だった。


「レティシア。しばらくのあいだ、この店の帳場と倉の鍵を預かりなさい」


伯父の掌の上で、三本の鍵が鈍く光る。店の裏口、帳場の引き出し、小さな倉庫。そんなところだろう。


一見すれば信頼の証だ。


だが、レティシアには別の意味にも見えた。


――ほら、好きにしていいよ。


――ただし、この狭い箱の中だけでね。


そんな線引きの音だ。


「ありがとうございます」


レティシアは素直に受け取った。


鍵は冷たく、思ったより軽かった。


「親方、しばらくよろしくお願いします」


「……こちらが言う台詞でもなさそうですがね」


オットーは不機嫌を隠さない。


その背後、店の奥から若い娘が顔を覗かせた。栗色の髪を後ろで束ねた、活発そうな娘だ。帳場補助のエルザだろう。彼女もまた、露骨に警戒していた。


「お父さん」


「引っ込んでろ、エルザ」


「でも――」


言いかけて、エルザはレティシアと目が合い、すぐに口を閉ざした。


その反応にも、既視感があった。屋敷の若い侍女アンナと同じだ。怯えと警戒。傲慢な令嬢が現場を引っかき回しに来た、とでも思っているのだろう。


ゲオルクは場を和ませるように朗らかに笑った。


「まあまあ、最初からそう身構えなくても。レティシアも、無理に口を出す必要はないよ。まずは見て、覚えて、少し手伝うくらいでいい」


無理に口を出す必要はない。


つまり、口を出されては困るところがあるのかもしれない。


レティシアは鍵束を指先で静かに握り、店内へ視線を巡らせた。


表の陳列棚には、パンが思った以上に少ない。


昼を回って売れた後、というには偏りがあった。大ぶりのパンばかりが残り、小さな食事用のものはほとんどない。値札も擦り切れて読みにくく、焼き菓子の籠は半分空だ。


空いた棚。


その寂しさは、単純な盛況とも違って見えた。


売れたのか、最初から並べる数が少ないのか、あるいは作れないのか。


資料の数字だけではわからない"店の顔"が、そこにある。


「中を見ても?」


レティシアが問うと、オットーは一瞬ためらい、それからぶっきらぼうに顎をしゃくった。


「好きにすればいいでしょう。もうそういう話なんですから」


「ありがとう」


店の奥は思ったより狭い。


焼き窯、捏ね台、粉袋、木箱。必要なものは揃っているが、余裕はない。壁際の棚には、帳面や納品札が雑多に積まれていた。


その中に、一冊だけ背表紙の擦り切れた帳面がある。


「それは?」


レティシアが指した途端、オットーの眉が寄る。


「古い売上帳です。どうせ見ても面白いもんじゃない」


「見せていただけますか」


「……お飾りのお嬢様に、何がわかるんです」


今度ははっきりと言われた。


職人たちの反発は、想像以上に露骨だった。


店の隅で作業していた若い職人見習いが、小さく鼻を鳴らす。エルザも唇を引き結んだまま、父とレティシアを見比べている。


ここではレティシアは侯爵令嬢である以前に、現場を知らない余所者なのだ。


わかっていたことではある。


むしろ、正直で助かるとも言える。


「わからないから見るのです」


レティシアは平坦に答えた。


「最初からわかると思っているなら、ここへは参りません」


オットーは返す言葉を探すように黙った。


気の強い返しだと思われたかもしれない。だが媚びる気はなかったし、必要以上に威圧するつもりもない。ただ事実を言っただけだ。


しばしの沈黙の後、オットーは乱暴な手つきで古い売上帳を取り上げ、机の上へ置いた。


「ほら」


「ありがとうございます」


レティシアは頁を開いた。


紙は油と粉で少し波打ち、記帳は几帳面とは言い難い。それでも昨日見た"整えられすぎた報告用資料"より、よほど信用できそうだった。


日ごとの売上。品目。おおまかな数量。たまに書き漏れ。時折入る、親方らしい短い走り書き。


雨で客足悪し。


小麦届かず、焼き数減。


朝に黒パン完売、昼の大きい丸パン余る。


レティシアの指が、そこで止まる。


黒パンは完売するのに、大きい丸パンは余る。


棚に残っていた品揃えと合う。


つまりこの店は、"売れないものばかり作っている"可能性がある。少なくとも、売れ筋と焼き数が噛み合っていない。


だが、それだけなら単純な経営不振だ。


問題は、そのすぐ次の頁にあった。


売上が極端に落ちた週なのに、仕入れ量の印が前後とほとんど変わらない。しかも、粉不足の書き込みがある月と、資料上の仕入れ総量がうまく噛み合っていない。


「……」


レティシアは何も言わず、数頁戻ってまた見る。


古い売上帳と、昨日もらった単独資料の数字は、大枠では合っている。だが、現場の書き込みから受ける印象が違いすぎた。


単に親方が頑固で、売れ残りを出しているだけ。


そういう赤字の顔ではない。


「面白いかい?」


後ろから、ゲオルクが穏やかに声をかけてきた。


レティシアは顔を上げる。


「ええ。とても」


「それはよかった。失敗しても経験になるさ」


その言葉に、レティシアはほとんど確信した。


伯父はこの店を、本当に"どうでもいい小さな赤字"として差し出している。失敗しても構わない。むしろ失敗した方が、姪が本筋へ近づかずに済むと考えているのだろう。


だが残念ながら、このパン屋は伯父の思うほど単純ではなさそうだった。


「伯父様」


「何かな」


「しばらく、毎日こちらへ通わせていただきます」


ゲオルクは一瞬だけ目を細め、それから柔らかく微笑んだ。


「もちろん。好きにするといい」


「ありがとうございます」


礼を言いながら、レティシアは古い売上帳をそっと閉じた。


手にした鍵束が、かすかに鳴る。


空いた棚。古い売上帳。親方の最初の一言は粉代。


どれも小さいが、無視してはいけない違和感だった。


潰れかけのパン屋。


お飾り令嬢に押しつけるには、たしかにちょうどいい。


けれどレティシアにとっては、ここがただの厄介払いの場で終わる気は、もうまったくしなかった。


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