第6話 赤字事業の洗い出し
その日の午後、レティシアは父の執務室ではなく、旧来客室を仮の作業部屋として使わせてもらうことにした。
父の執務室は、今もクラウスと家宰代理であるゲオルクが主に使っている。そこへ出入りするだけで余計な警戒を招くだろうし、何より、落ち着いて帳面を広げるには向かない。
幸い、旧来客室の大机は広かった。窓からの光も入り、紙の色を見誤りにくい。何より、人の出入りが少ない。
午前中にヨアヒムへ頼んでおいた資料は、すでに机の上へ積み上げられていた。
事業別損益表。
赤字一覧。
領内倉庫の維持費まとめ。
輸送費の推移。
徴税記録の抜粋。
そして、他より一回り薄い一綴りの紙束――町のパン屋に関する単独資料。
レティシアはその量を見て、無意識に目を細めた。
「ずいぶん丁寧に揃っているのね」
背後で帳面の紐を解いていたマルガレーテが、ちらりと机上を見やる。
「何か不自然でございますか」
「ええ」
レティシアはまず、全体の事業別損益表を開いた。
製粉所、織布工房、パン屋、薬草園、木工所、倉庫管理、領内輸送補助、街道維持、徴税補助費。
侯爵家が直接または半ば直接的に関与している事業が、簡潔に並べられている。全体として、黒字の事業は少ない。赤字か、かろうじて均衡か、そのどちらかばかりだった。
景気の悪化、天候不順、流通停滞――表向きの言い訳はいくらでも立つだろう。
だが数字を追えば、もっと別のものが見えてくる。
「まず大きいところから潰していきましょう」
誰に言うでもなく呟き、レティシアは羽根ペンを取った。
紙の端に、事業名を順番に書き出す。
製粉所。パン屋。倉庫。輸送。徴税。
その横へ、赤字額、近三期の推移、関連費目、そして"不自然さ"の欄を作る。
こういう整理の仕方も、今の世界では少し異質なのかもしれない。だが、頭の中だけで考えても限界がある。構造は紙に落として初めて見える。
最初に見たのは製粉所だった。
赤字額はそこそこ大きい。だが、推移自体は急激ではない。設備維持費の増加、輸送遅延による納品不安定、原料の歩留まり悪化。苦しい理由は並んでいるが、少なくともこの帳面だけを見る限り、製粉所自身が"おかしな膨らみ方"をしているわけではなかった。
「設備が古いのね」
数字を追いながら、レティシアは言う。
「修繕費を削って、さらに生産効率が落ちている。悪循環ではあるけれど、これは表に出ている赤字だわ」
「隠されてはいない、と」
「ええ。苦しいけれど、苦しい理由が一応見えるもの」
帳面の端に、重いが自然寄りと書きつける。
次に倉庫管理費を見る。
こちらは維持費の増減がやや読みにくかった。人件費は一定に近いのに、補修費と雑損費が月ごとにぶれている。だが、今の時点ではまだ断定しにくい。倉庫は中身の実査と合わせないと、紙だけでは見えないことが多い。
レティシアは欄外に、現物確認要と小さく記した。
輸送費は、さらに嫌な気配があった。
荷運びの回数と総額がぴたりと噛み合っていない。回数は減っているのに、補填名目の費用が増えている月がある。だがこれも、単独で見ると"街道事情"や"馬の消耗"で逃げられる範囲だった。
「輸送はあとで現場の話を聞かないと駄目ね」
「馬丁頭あたりでございましょうか」
「そうね。紙だけでは言い逃れできる余地が多いわ」
次に徴税記録へ手を伸ばす。
これも嫌だった。
数字だけなら、税収は大きく落ち込んではいない。むしろ一部では微増している月すらある。けれど、徴税補助費や収納手数料の名目で差し引かれる額がじわじわ増えていた。領民の負担が増えているのに、家へ残る金が増えていない構図だ。
イーダのような領民が疲弊している理由は、ここに一端があるのだろう。
「取る額は増えて、残る額は増えない……」
レティシアは紙の上へペン先を止めた。
「一番性質が悪いわね」
「領民の不満が募るばかりでございます」
「ええ。でも、今すぐここへ手をつけるのは難しい」
徴税は領政そのものだ。触れれば必ず大きな反発を招く。しかも証拠を揃えずに動けば、"婚約破棄で感情的になった令嬢が、領地経営へ口を出した"と片づけられるだけだ。
ここはまだ早い。
レティシアは徴税の欄へ、本丸候補。だが後回しと書いた。
そうして一通り全体を見た後、視線は自然と机の端へ置かれた薄い紙束へ向かった。
パン屋。
他の事業に比べて、資料が妙に丁寧だった。
売上、原価、廃棄数、仕入れ先、週ごとのまとめ、従業員数まで、驚くほど細かく整理されている。製粉所や輸送の資料がどこか曖昧さを残しているのに対して、パン屋だけは"見やすい赤字"として差し出されているように感じた。
レティシアはその紙束を手に取った。
「これだけ親切なのは、どうしてかしら」
マルガレーテが少し首を傾げる。
「小さい店ゆえ、把握しやすいのでございましょうか」
「それもあるでしょうけれど」
レティシアは売上の推移を追った。
確かに赤字だ。利益率は低く、廃棄も出ている。仕入れ高に対して売上が伸びていない月も目立つ。
だが、それ以上に目についたのは、"説明しやすさ"だった。
材料費が高い。
売れ残りが多い。
職人が頑固で改善が進まない。
立地が微妙。
こう言えば誰にでもわかる赤字である。
しかも規模が小さい。もし誰かがレティシアへ「ではお嬢様、静養ついでに何かなさるなら、まずはこちらを」と差し出すなら、最も都合がいい。
失敗しても大した傷にならず、成功しても本流には触れない。
それでいて、"働いている気"にはなれる。
見せしめにも、厄介払いにも、ちょうどいい。
「……なるほど」
「お嬢様?」
「これ、最初からわたくしに渡すつもりだったのかもしれないわ」
紙束を軽く持ち上げる。
「他の資料より揃いすぎているもの。まるで"ここを見てください"と言わんばかり」
ちょうどその時、扉が控えめに叩かれた。
ヨアヒムかと思ったが、入ってきたのはゲオルク本人だった。
「やあ、レティシア」
いつもの柔らかな笑みをたたえ、伯父は部屋へ足を踏み入れる。明るい茶髪を綺麗に撫でつけ、旅塵ひとつない上着を着こなしている。いかにも、人当たりのいい上流貴族という風情だ。
「もう仕事を始めているなんて、ずいぶん熱心じゃないか」
「ごきげんよう、伯父様」
レティシアは立ち上がらず、椅子に座ったまま一礼だけ返した。
「静養は性に合いませんので」
「はは、クラウス兄上も困っただろうね」
ゲオルクは机上の資料へ目をやり、しかし深くは覗き込まない絶妙な距離で立ち止まる。
「それで、どうだい。何か面白いものは見つかったかな」
面白いもの。
まるで子どもの遊び道具でも探しているかのような言い方だった。
レティシアは事業別損益表をそっと閉じる。
「面白いというより、厳しい現実なら」
「厳しい、か」
ゲオルクは肩をすくめた。
「まあ、景気が良くないからね。どこの領地も似たようなものだよ」
便利な言葉だった。景気が悪い。時勢が悪い。仕方がない。そう言ってしまえば、数字の歪みはすべて空気へ溶ける。
「そうかもしれません」
レティシアは平坦に答えた。
「ただ、どこがどう苦しいのかくらいは、把握しておきませんと」
「立派な心がけだ」
ゲオルクは微笑んだまま、さりげなくパン屋の資料へ手を伸ばす。
「もし最初に何か任せるなら、私はこのあたりがいいと思っていたんだ」
やはり、と思う。
「町のパン屋?」
「うん。小さいし、わかりやすい。赤字続きではあるけれど、失敗しても領地全体に響くほどではないし、成功すればお前にも自信がつくだろう?」
優しい口調だった。
若い娘を気遣う伯父の言葉として聞けば、どこもおかしくない。むしろ親切ですらある。
だが、その親切さがあまりにも都合よく整っていた。
大きな事業ではなく、小さな店へ。
本流ではなく、枝葉へ。
失敗しても困らない範囲で、"働いた気"だけ得られる仕事へ。
王都から戻された厄介な姪を遠ざけるには、たしかに理想的だ。
「パン屋だけ、ずいぶん資料が揃っておりますのね」
レティシアが言うと、ゲオルクは一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに笑みを崩さなかった。
「小規模事業だからだよ。数字も追いやすいし、初めて手をつけるにはちょうどいいと思ってね」
「伯父様がご用意くださったのですか」
「半分はね。あとは財務方にまとめさせた」
やはり。
この紙束は、偶然ここにあるのではない。
最初から差し出されるために整えられている。
レティシアは資料を受け取るふりをしながら、細かな点を見た。綴じ紐が新しい。まとめ直された時期も最近だろう。各週の数字まで細かいのに、備考欄だけは妙に薄い。現場の生っぽさがなく、"報告用"に整えた紙の顔をしている。
「どうかな」
ゲオルクは柔らかく促した。
「しばらくのあいだ、そちらを見てみる気はないかい? お前の気晴らしにもなるだろうし、上手くいけば屋敷の皆も安心する」
気晴らし。
また、便利な言葉だ。
静養。気晴らし。経験。
どれも柔らかい布で包んでいるが、中身は同じである。お前は本筋へ来るな、と。
レティシアは心中で小さく息を吐いた。
腹は立つ。だが、だからといって感情で拒めば相手の思う壺だ。
むしろ、ここで乗るべきだろう。
パン屋はたしかに小さい。だが小さいからこそ、現場と数字の差を掴みやすい。原価、在庫、廃棄、客足。どこに無駄があり、誰がどんな理屈で赤字を積み上げているのか、早く見える可能性がある。
そして何より、もし"見せしめ向き"に用意された資料の中にすら妙な点があるなら、それは他でも同じ手が使われている証拠になる。
「ええ、ちょうどそう考えておりました」
レティシアが頷くと、ゲオルクはあからさまに安堵した顔はしなかったが、声の調子がわずかに軽くなった。
「そうか。よかった」
「規模が小さく、改善の効果も見えやすい」
パン屋の資料を指で押さえながら言う。
「最初の一手としては悪くありません」
「だろう?」
「ええ。ただし」
レティシアは視線を上げた。
「数字だけではなく、現場も拝見いたします」
ゲオルクの笑みが、ほんの一拍だけ止まる。
「現場、かい?」
「帳面が正しくても、現場が正しくなければ意味がありませんもの」
「もちろん、それは……そうだね」
伯父はすぐに笑みを戻した。
「なら、好きに見るといい。親方は少し頑固だが、職人というのはたいていそういうものだから」
頑固な親方。
それもまた、失敗の理由として使いやすい札だ。
レティシアは内心でその言葉を控えた。
「承知いたしました」
「必要なら人もつけよう。だが、あまり無理はしないでおくれよ」
言い残して、ゲオルクは軽く手を振るようにして部屋を出ていった。
扉が閉まると同時に、室内の空気が少しだけ変わる。
マルガレーテが静かに口を開いた。
「いかがご覧になりますか」
「伯父様は、わたくしを遠ざけたいのでしょうね」
レティシアはあっさり言った。
「少なくとも、領地全体の本筋からは」
「左様でございますか」
「ええ。でも」
机上のパン屋資料を開く。
売上推移、仕入れ、小麦使用量、廃棄数。数字の並びだけなら、改善の余地はいくらでもありそうに見えた。
「都合がいいわ」
「と、申しますと」
「向こうが"ここなら触ってもよい"と差し出してきた場所は、こちらにとっては"最初に爪を立てやすい場所"でもあるから」
レティシアは赤字一覧の中から、パン屋の行をもう一度確認した。
赤字額は、全体から見れば小さい。
だが、月ごとのぶれが大きい。売れ残りだけでは説明しきれない箇所もある。しかも単独資料がここまで揃っているということは、下手をすれば現場を見なくても"無能な職人のせいで赤字です"という結論に誘導できる。
それなら逆に、現場へ行って本当にそうか確かめればいい。
「製粉所は重い。徴税は本丸すぎる。輸送と倉庫は、まだ証拠が散っている」
ひとつずつ指を折る。
「でもパン屋なら、小さいぶん数字と現物の差が見えやすい」
「成功の手応えも、出しやすうございます」
「ええ」
それに、とレティシアは思う。
もし本当に改善できれば、使用人や領民の見る目も少しは変わるかもしれない。
傲慢なだけの令嬢ではないと証明するには、口で正しさを説くより、一つでも目に見える結果を出す方が早い。
もちろん、それだけが目的ではない。
本当の目的は、金の流れだ。
どこで削られ、どこで膨らまされ、どこで"仕方のない赤字"に見せかけられているのか。その癖を掴むこと。
パン屋は、小さいが、入り口にはちょうどいい。
「明日、町へ出るわ」
レティシアは決めた。
「パン屋を見に行きましょう」
「かしこまりました。先触れは」
「いらないわ」
即答すると、マルガレーテがほんの少し眉を上げる。
「驚かれるのでは」
「その方がいいの。整えられた後の顔より、普段の顔が見たいもの」
レティシアはパン屋の単独資料を手に取り、最後の頁までざっと繰った。
売上は低い。廃棄は多い。利益率は薄い。
だが、この紙束そのものが何より雄弁だった。
――ここを見ていればいい。
そう言われている気がする。
ならば見よう。けれど、言われた通りにではなく、自分の目で。
レティシアは革手帖を開き、新たに書きつけた。
最初の対象は町のパン屋。小規模・改善効果大。資料が揃いすぎている点に注意。伯父が意図的に誘導している可能性あり。
その下へ、もう一行。
"小さい赤字"の顔を見れば、"大きい赤字"の癖も見える。
窓の外では、領都の空に午後の光が傾き始めていた。
侯爵家の赤字は深い。
だが、どれほど深くても、いきなり底を掴む必要はない。
まずは小さな店ひとつ。
そこからでも、崩れ方の癖は必ず見える。
そしてレティシアは、差し出された"気晴らし"の仕事を、そのまま相手の思惑どおりには終わらせる気など、初めからなかった。




