第5話_侯爵家の金庫は空だった
翌朝、レティシアは朝食を半分ほどで切り上げた。
焼きたてではないパンは少し硬く、スープも薄い。病人食というほどではないが、侯爵家の朝食としては明らかに質が落ちていた。王都の華やかな食卓と比べる気はない。けれど、領主の屋敷がまず自分の食卓を削り始めているのだとすれば、それは決して良い兆候ではない。
「ヨアヒム」
食後の茶が下げられる前に、レティシアは執事へ声をかけた。
「昨日、お父様から"何か小さな仕事なら"とお許しをいただいたわ」
「はい、伺っております」
ヨアヒムは一分の隙もない礼を取る。
その表情は穏やかだが、どこか探るようでもあった。屋敷の者たちは皆、今のレティシアがどこまで本気なのか測りかねているのだろう。
「でしたら、まず屋敷内の出納を見せてちょうだい」
「屋敷内、でございますか」
「ええ。家全体の大きな帳簿でなくて構わないわ。現金の出入りと、使用人の給金、冬に向けた備蓄の一覧。静養中の退屈しのぎにはちょうどよいでしょう?」
わずかに皮肉を含めた言い方だったが、ヨアヒムは反応を変えなかった。
「……かしこまりました。差し支えのない範囲のものをお持ちいたします」
「ありがとう」
断られなかっただけで上出来だ。
レティシアは内心でそう判断する。家全体の総勘定元帳をいきなり差し出されるとは思っていない。けれど、屋敷の現金出納と使用人の給金表、それに冬備蓄の一覧だけでも十分入口になる。
金の流れは、たいてい末端に先に出る。
大きな不正を疑うなら、まずは小さな苦しさの形を見るべきだ。
午前のうちに、帳面は応接間へ運び込まれた。
大机の上に並べられたのは三冊と数枚の紙束。革張りの薄い金庫帳、月ごとに綴じられた給金支払表、そして冬備蓄一覧。加えて、屋敷維持費の簡易なまとめまでついている。
思ったより素直に出してきた。
それは好都合でもあり、少しだけ気味が悪くもあった。
「必要であれば、私がご説明いたします」
ヨアヒムが控えめに言う。
「まずは結構よ。わからないところだけ伺うわ」
「承知いたしました」
彼が下がると、部屋にはレティシアとマルガレーテだけが残った。
窓から入る午前の光が、古びた革表紙の上へ落ちる。レティシアは最初に、最も薄い金庫帳へ手を伸ばした。
現金残高、入出金、月末繰越。
形式としては整っている。文字も読みやすい。訂正跡も少なく、欄外の書き込みもほとんどない。あまりにも"きれい"な帳面だった。
「……整いすぎているわね」
思わず呟く。
「何かございましたか」
「まだ断言はしないけれど」
レティシアはページをめくりながら答えた。
「金庫帳というのは、普通、もう少し人間の手の跡が出るものよ。慌てて直した数字、端数の調整、言い訳のような欄外メモ。けれどこれは、出来すぎている」
月ごとの収支は赤字と黒字をぎりぎりで行き来していた。
屋敷維持費は削られている。修繕費も最低限。被服費、嗜好品費、来客接待費も以前より落ちている。だから一見すれば、懸命にやりくりしているように見える。
だが、帳面の上の"懸命さ"と、昨日見た屋敷の空気が噛み合わない。
前庭の手入れ不足、薄い茶、古いカップ、擦り切れたカーテン。ここまで切り詰めているなら、残るはずの現金が少なすぎた。
レティシアは指先で月末残高を追う。
一か月前。二か月前。三か月前。
そして先月末。
「……これだけ?」
残高を見た瞬間、声が低くなる。
侯爵家の屋敷金庫としては、あまりにも心許ない額だった。小さな商家ならともかく、使用人を大勢抱え、領主家としての体面も維持しなければならない侯爵家の現金としては薄すぎる。
次に給金支払表を開く。
使用人の名、役職、支給額、支給日。
こちらも一見きれいにまとまっていたが、見れば見るほど嫌な気配が濃くなる。
「支給日がずれている」
当月五日払いのはずが、七日、八日、と少しずつ後ろへずれている。全員一斉ではなく、下の者ほど遅い。侍女頭や執事、古参の役職者は予定どおりに近いが、洗濯係や下働き、厨房補助、若い侍女ほど遅配気味だ。
給金そのものは"支払済"になっている。
だが、遅れているという事実は消えない。
「マルガレーテ」
「はい」
「先月、実際の支払いはいつだったの」
問うと、マルガレーテはわずかに間を置いた。
「遅くとも十日までには、という形でございました」
「……十日」
予定より五日も遅い。
それは帳面上の誤差では済まない。生活にとっては致命的だ。特に、家族へ仕送りする者や、日々の薪代と食費を切り詰めている者にとっては。
昨日のベルタたちの冷えた目が、脳裏をよぎる。
なるほど、これでは信じられなくて当然だ。
レティシアはもう一度金庫帳へ戻り、給金総額をざっと合算した。次月支払い分、最低限の食糧購入費、蝋燭や薪、馬の飼葉代。そこへ冬支度が重なる。
頭の中で数字が組み上がる。
足りない。
今の残高では、給金を予定どおり払い、なおかつ冬の備えまで整えるのは無理だ。
「お嬢様」
マルガレーテが静かに呼ぶ。
「お顔の色が」
「平気よ」
即答してから、レティシアは冬備蓄一覧を引き寄せた。
紙に書かれているのは、穀物、塩漬け肉、干し豆、薪、蝋燭、薬草、毛布、灯油代替の油。冬越しに必要なものが一通り並んでいる。数量も、書面の上では"必要量の八割五分まで確保済み"とあった。
だがそれを見た瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
八割五分。
この時期に、その数字は遅い。
しかも金庫残高から見て、残り一割五分を埋める余裕があるようには思えない。
まして天候次第で輸送が滞れば、八割五分はそのまま"足りない"に変わる。
足りない。
その言葉だけで、なぜか喉の奥が詰まるような感覚がした。
白く曇った冬の空。冷えた石床。空になった籠。幼い頃、誰かが「今年は仕方がない」と言った声。足りるはずのものが足りないまま、笑って済まされようとした記憶の残滓が、ほんの一瞬だけ胸を掠める。
「お嬢様」
今度のマルガレーテの声は、少しだけ深かった。
レティシアははっとして、紙面へ視線を戻す。
「……ごめんなさい。少し考え事を」
「冬備蓄でございますか」
「ええ」
指先で一覧を押さえる。
「この数字では危ういわ。しかも帳面通りに現物がある保証もない」
「現物、でございますか」
「帳簿は整っているのに、屋敷の様子と合わないもの」
レティシアは低く言った。
「茶葉は薄い。食卓の質も落ちている。修繕も後回し。そこまで削ってなお金庫が空に近いのなら、どこかで説明のつかない穴がある」
そしてその穴は、非常に上手く隠されている。
帳面が汚いなら、まだ救いがある。焦りや杜撰さが露出しているからだ。だが、こうもきれいに作られた数字は厄介だった。見栄えの良い整合性ほど、人の目を眠らせる。
レティシアは金庫帳の後ろを確認した。
そこに綴じられていた簡易の入金記録には、"領地本会計より補填"の文字が何度か現れている。屋敷単体で回らず、領地側の金で何度も穴埋めしているのだ。
つまり問題は屋敷だけではない。
屋敷が苦しいのではなく、屋敷にまで苦しさが回ってきている。
「領地の赤字が、もう屋敷の体面で隠せる段階ではないのね」
その一言は、ほとんど確認に近かった。
以前なら、侯爵家の屋敷は最後の砦だったはずだ。領地が多少苦しくとも、屋敷の見栄えと使用人の給金だけは守る。そうして"まだ大丈夫"という顔を保つ。
けれど今は、その砦が崩れかけている。
使用人の給金すら遅れ始め、冬備蓄も危うい。
もう、体面だけでは覆えない。
「ヨアヒムをお呼びしましょうか」
マルガレーテが問う。
レティシアは少し考えてから頷いた。
「ええ。まずは事実を確認したいわ」
ほどなくして執事が戻ってくる。
レティシアは金庫帳を閉じず、そのまま机上へ開いて見せた。
「確認したいことがあります」
「はい」
「給金の支払い、予定より遅れているのね」
ヨアヒムの顔色は変わらなかった。さすがに古参の執事だけある。
「……ご覧のとおりでございます」
「理由は」
「領地本会計からの送金のタイミングが、ここ数か月、やや不安定になっております」
ずいぶん上品な言い方だ、とレティシアは思う。
不安定。つまり足りないのだ。
「次の支払いは予定どおりできそう?」
少しの沈黙。
それがすべてだった。
「現時点では、断言いたしかねます」
「冬備蓄一覧は八割五分確保済みとなっているけれど、現物は?」
「……一部は発注済み、未納でございます」
やはり。
帳面の上では"確保済み"に近く見せていても、実際にはまだ納入されていない。発注と在庫を曖昧に混ぜているのだ。
「それを誰が記したの」
「財務方より届いた一覧を、屋敷用に書き改めたものかと」
「財務方」
レティシアはその語を静かに繰り返した。
父が自らこうした細部を見るとは思えない。となれば、実務を流しているのは家宰代理か財務官だ。まだ名前を出す段階ではないが、少なくとも"帳面をきれいに整える手"が屋敷の外にあることだけは見えた。
「ヨアヒム」
「はい」
「ありがとう。もうひとつだけ。使用人たちは、給金の遅れをどこまで不安に思っているのかしら」
執事はほんのわずかに目を伏せた。
「……不安に思わぬ者はおりません」
「そう」
「ですが、皆、侯爵家に仕える身として口を慎んでおります」
口を慎む。
つまり、腹の中では限界に近いのだろう。
レティシアは頷いた。
「もう下がって結構よ」
ヨアヒムが去ると、部屋に重い沈黙が落ちた。
机の上には、金庫帳、給金支払表、冬備蓄一覧。
どれも形式だけ見れば整っている。破綻の悲鳴を上げるような数字ではない。だが、生活と照らせば明らかに危うい。
そこが一番厄介だった。
派手に崩れていれば誰でも気づく。けれど、ぎりぎりの見栄えを保った赤字は、気づいた時には深く食い込んでいる。
「お嬢様」
マルガレーテがそっと呼ぶ。
「いかがなさいますか」
レティシアは給金支払表の上へ指を置いた。
下働きの名、若い侍女の名、厨房補助の名。昨日ティーカップを落としたアンナの名もあった。支給日が、他の古参より少し遅い。
それを見た瞬間、妙に腹の底が冷えた。
足りるはずのものが、足りない。
守るべき順番を誤れば、最初に痛むのはいつだって下の者だ。
「まずは給金よ」
レティシアははっきり言った。
「使用人の支払いが崩れ始めた家は、屋敷の中から壊れるわ」
「ですが、今の残高では――」
「わかっているわ」
わかっている。だからこそ、見過ごせない。
領地の赤字は、もう数字の話だけではない。人の暮らしに食い込んでいる。使用人の不信、領民の疲弊、薄い茶、古いカップ、荒れた前庭。その全部が、同じ金の流れの先にある。
そして、その流れはあまりにも整いすぎていた。
自然な困窮ではない。
少なくとも、自然な困窮だけではない。
レティシアは静かに帳面を閉じた。
「好かれなくても結構」
誰にともなく漏れた声は、自分でも驚くほど冷えていた。
「けれど、給金も冬支度も足りないままにはさせない」
マルガレーテは何も言わなかった。ただ、その沈黙が否定ではないことだけはわかった。
金庫は空に近い。
帳簿はきれいすぎる。
そして屋敷は、もう体面では隠しきれないところまで来ている。
レティシアは手元の革手帖を開き、短く書きつけた。
金庫残高、危険。給金遅配あり。冬備蓄は帳面上のみの可能性。帳簿が整いすぎている。
その下へ、もう一行。
まずは小さくても、確実に金の流れを掴める仕事が必要。
父が言っていた。
余っている小さな店か、赤字続きの事業の整理程度なら――と。
あれはおそらく、厄介払いのつもりだったのだろう。
けれど今のレティシアには、それで十分だった。
小さな穴からでいい。
この家の赤字が、どこで、誰に、どう食われているのか。
帳簿の綻びは、必ずそこへ続いている。




