第4話 領民に嫌われた令嬢
ローゼンベルク領へ入ったのは、日が傾き始めた頃だった。
王都を発ってから二日。街道沿いの景色は少しずつ華やかさを失い、代わりに痩せた畑と、風にくすんだ村々が目につくようになっていた。夏の終わりだというのに、道端の麦束は思ったより少ない。干し草を積んだ荷車も、どこか中身が軽そうだった。
馬車の小窓から外を見ていたレティシアは、三つ目の村を通り過ぎたあたりで、ようやくその違和感に名前を与えた。
「人の顔が、暗いわね」
向かいに座るマルガレーテが、わずかに目を上げる。
「左様でございますね」
短い返答だったが、否定はしない。
村の入口で遊んでいた子どもたちは、侯爵家の紋章を見つけると道端へ退いた。大人たちも立ち止まり、一応は礼を取る。だがその視線に歓迎の色はない。恐れと疲労と、そして諦めに近いものが混じっていた。
立派な馬車を見上げる目だ。
自分たちの暮らしとは別世界のものを見る目でもある。
レティシアはそっと手帖の表紙を撫でた。王都を出てからの道中でも、気になったことはいくつか書き留めている。畑の実り具合、村ごとの人通り、荷車の少なさ、家屋の傷み。帳簿を見る前に、現物の空気を知っておきたかった。
数字は正直だ。
けれど、数字だけが正しいわけでもない。
人の疲れた顔は、ときに帳簿より先に破綻を語る。
「お嬢様」
マルガレーテが静かに声をかけた。
「間もなく屋敷でございます」
窓の外に、見慣れた石造りの門が見えてくる。ローゼンベルク侯爵家の本邸は、領都を見下ろす小高い丘の上にあった。重厚で、威厳があり、外から見ればいかにも揺るがぬ名家の屋敷だ。
けれど近づくにつれ、細かな綻びが見えてくる。
門柱の一角が少し欠けている。前庭の刈り込みが甘い。噴水は水量が弱く、花壇の花もまばらだ。表面だけなら整っているが、手入れの密度が明らかに落ちていた。
金がないのだ、とレティシアは思う。
あるいは、金をかける場所が歪んでいる。
馬車が正面玄関前で止まると、使用人たちが一斉に並んで頭を下げた。執事のヨアヒム・フェルナーを先頭に、侍女、下男、従僕。形式は整っている。だが空気は冷えていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
ヨアヒムの声は落ち着いている。
だがその後ろに並ぶ顔ぶれには、戸惑いと緊張が浮かんでいた。久しぶりに帰ってきた令嬢を迎える空気ではない。厄介事そのものが戻ってきた、とでも言いたげな固さだ。
レティシアは馬車を降り、淡々と一礼を返した。
「ただいま戻りました」
誰も顔を上げない。
その沈黙に、かえって色々なものが滲んでいた。
歓迎されていない。
それだけははっきりしている。
とはいえ、いきなり問い質しても意味はない。今はまず、屋敷の空気を見極めるべきだろう。
「お父様は?」
「旦那様はまだ視察先よりお戻りではございません」
ヨアヒムが答える。
「本日はお疲れでしょうから、まずはお部屋へ」
「ええ」
頷き、屋敷へ足を踏み入れる。
玄関ホールには懐かしい香りがあった。磨かれた木床、古い蝋燭、花瓶の水。幼い頃から知っているはずの空間なのに、どこかよそよそしい。
使用人たちの視線が背に刺さる。
値踏みするような、警戒するような、怯えるような目。
その理由がわからないほど、レティシアは鈍くなかった。
自分の評判だ。
王都で積み上がった悪評が、ここまで届いているのだろう。むしろ、侯爵家の屋敷である以上、王都の噂ほど早く広まる場所もない。
問題は、どこまで、どんな形で伝わっているかだった。
階段を上がり、二階の応接室前を通りかかった時だった。
中から小さな物音がしたかと思うと、扉の隙間から若い侍女が顔を出した。まだ十代半ばほどの、小柄な娘だ。盆を抱え、こちらへ気づいた途端に目を見開く。
その顔には、はっきりとした怯えがあった。
「ひっ……」
声にならない息が漏れ、次の瞬間、手元の盆が大きく傾いた。
白いティーカップが滑り落ちる。
甲高い音を立てて床へぶつかり、受け皿ごと砕け散った。琥珀色の茶が木床に広がり、湯気を立てる。
娘――アンナは真っ青になって膝をついた。
「も、申し訳ございませんっ……! わ、わたし、その、あの……!」
あまりにも露骨な怯え方に、レティシアは一瞬言葉を失った。
そこまでか、と内心で思う。
自分は、使用人が皿を落としただけで悲鳴を上げるほど叱りつける女だと信じられているらしい。
背後からすぐにマルガレーテが進み出た。
「アンナ」
厳しいが、よく通る声だった。
「まず火傷がないかお確かめなさい」
「は、はい……っ」
震える手で自分の袖を見下ろすアンナに、マルガレーテはさらに続けた。
「お嬢様はその程度で怒鳴る方ではございません」
ぴたり、と場が止まる。
アンナだけでなく、廊下の端で様子を窺っていた別の侍女たちまで息を止めたのがわかった。
レティシアは割れたカップを見下ろし、それから膝をついたままのアンナへ視線を向けた。
恐怖で肩が強張っている。
目を上げることもできず、唇まで青い。
これが演技でないことくらい、見ればわかる。
「怪我は」
レティシアが問うと、アンナはびくりと震えた。
「な、ござ、いません……っ」
「なら結構です」
できるだけ平坦に言う。
「破片は危ないわ。布と箒を持っていらっしゃい」
「は、はいっ」
アンナは逃げるように立ち上がり、慌てて駆けていった。その足音が遠ざかっていくまで、廊下には妙な静寂が残る。
レティシアは散った破片を見つめた。
薄い磁器。縁取りは金彩だが、少し古い型だ。昔から客用に使っていた組の一つだろう。こういうものまで買い替えず使い続けているあたりにも、屋敷の懐事情が滲む。
「……ずいぶんな歓迎ね」
独り言のように漏らすと、マルガレーテがわずかに目を伏せた。
「王都のお噂は、早うございますから」
「そう」
それだけ返し、レティシアは歩き出した。
だが数歩進んだところで、足が止まる。
「マルガレーテ」
「はい」
「わたくし、ここまで嫌われるような何かをしたかしら」
思ったより静かな声で出た問いだった。
責めるつもりではない。ただ、事実として知りたかった。
王都での社交が不得手だった自覚はある。柔らかく立ち回れなかった覚えもある。だが、屋敷の若い侍女が姿を見ただけで手を滑らせるほど怯える記憶はない。
マルガレーテは少しだけ考えるように間を置き、やがて口を開いた。
「お嬢様は、厳しい方ではございました」
率直な言い方だった。
「けれど、不当な方ではございませんでした」
「では、なぜ」
「恐れられることと、嫌われることは、少々別でございます」
レティシアは黙って先を促す。
「お嬢様は幼い頃より、できぬことを"できぬまま"にはなさいませんでした。礼儀が足りなければ指摘なさる。怠慢があれば正される。間違いを見過ごされない。下の者からすれば、それだけで十分に怖いものでございます」
「……優しくはなかった、ということね」
「甘くはございませんでした」
訂正の仕方が、いかにもマルガレーテらしい。
「ですが今のは、それだけではございますまい」
「王都の噂?」
「はい。加えて、旦那様が長くご不在がちで、奥様も亡くなられ、屋敷の者たちが"誰の顔色を見て動くべきか"を探っておりました時期がございました」
そこでマルガレーテは言葉を選ぶように一度口を閉じる。
「そういう時、人は一番わかりやすい噂に縋るものでございます。王都から届く"傲慢な令嬢"というお話は、皆にとって理解しやすかったのでしょう」
傲慢な令嬢。
その一言が、妙に胸の内へ落ちた。
わかりやすい札だ。
冷たい。厳しい。高慢。人を見下す。王太子に捨てられたのも当然。
そういう物語の方が、よほど扱いやすい。真実である必要すらない。
「便利ね」
レティシアは小さく笑った。
「静養と同じくらい」
「……お嬢様」
マルガレーテの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
昔からその調子だった。レティシアが痛いところへ触れた時だけ、侍女頭は必要以上に踏み込まず、だが放ってもおかない。
「札は、張られたままではございません」
「剥がせると?」
「剥がすのではなく、上から別のものを重ねるのでございます」
それは慰めというより、処世術のような言葉だった。
レティシアは少しだけ息を吐く。
昔から、マルガレーテはこういう時に変な希望を持たせない。大丈夫です、と安易に言わない代わりに、立つ方法だけを示す。
「そうね」
呟いた時、ちょうど部屋の前に着いた。
レティシアにあてがわれている私室は、王都のものほど華美ではないが、広さは十分だった。窓からは領都の一部と、その向こうの麦畑が見える。けれど近くで見ると、カーテンの裾にはほつれがあり、机の艶も少し鈍い。手入れはされているが、余裕はない。
それが屋敷全体の現状なのだろう。
部屋へ入り、椅子へ腰を下ろす。マルガレーテが手早く茶の用意を始めたが、その動きの間にも、先ほどのアンナの顔が浮かんだ。
怯えた視線。
落ちたティーカップ。
あれは一人の若い侍女の不注意ではなく、屋敷全体の空気だ。
自分はこの家ですら、歓迎される令嬢ではない。
「町の様子も、あまり良くなさそうだったわ」
ぼそりと言うと、マルガレーテが湯を注ぎながら答えた。
「税が重い、という声は耳にしております」
「耳に、ね」
「使用人たちも、家族を町に持つ者が多うございますので」
つまり屋敷の空気の冷たさは、単にレティシアの悪評だけではない。領民の疲弊が、そのまま使用人たちの暮らしにも食い込んでいるのだ。
重税に苦しむ領民。
余裕のない屋敷。
そして、"傲慢な令嬢"の帰還。
なるほど、歓迎される要素が見当たらない。
「お嬢様、お茶でございます」
差し出されたカップを受け取り、レティシアは一口だけ口をつけた。温かいが、葉の香りが少し薄い。これも節約の結果かもしれない。
「アンナというのね、あの侍女」
「はい。春に入ったばかりの若い者でございます」
「わたくしのことを、よほど恐れていたわ」
「王都の話を真に受けていたのでしょう」
「他の者も?」
「おそらくは」
レティシアはカップを置いた。
音が小さく響く。
感傷に浸っている場合ではなかった。嫌われているなら、その前提で動けばいい。むしろ、好意的に迎えられるより、観察には都合がいい面すらある。人は心を開かなくても、冷えた空気の中で本音をこぼすことがある。
ただし、注意は必要だ。
この屋敷では自分の一挙手一投足がすぐ噂になるだろう。下手に動けば「やはり傲慢な令嬢だ」と補強するだけになる。
「マルガレーテ」
「はい」
「しばらくは大人しくしていろ、と皆が思っているのでしょうね」
「左様かと」
「残念だけれど、その期待には沿えそうにないわ」
マルガレーテが、ごくわずかに口元を和らげる。
「存じております」
その一言に、レティシアもほんの少しだけ笑った。
窓の外では、領都の家々に夕暮れが落ち始めている。遠くの煙突から上がる煙は細く、どこか頼りない。あの下で暮らす人々が、侯爵家の令嬢へ向ける目は冷たい。重税に疲れ、噂に染まり、最初からこちらを敵だと思っている者もいるだろう。
それでも、構わなかった。
好かれなくていい。
ただ、見誤るわけにはいかない。
この屋敷の冷たさも、落ちたティーカップも、領民の暗い顔も、全部が同じ帳簿のどこかへ繋がっている気がした。
まずは、家の中を見なくてはならない。
誰が何を恐れ、誰が何を諦め、誰が何を隠しているのか。
そうしてレティシアは、自分が帰ってきたのが故郷ではなく、すでに見知らぬ場所になりかけた領地なのだと、ようやくはっきり理解した。




