第3話 追放代わりの帰郷命令
翌朝、王都は薄曇りだった。
窓の外に広がる空は白く、夏の名残をわずかに含みながらも、どこか冷えた色をしている。舞踏会の夜が明けたというのに、王宮の空気は妙に静かだった。昨日までなら朝の回廊にいたはずの令嬢たちの笑い声も、侍女たちのさざめきも、今日はレティシアの耳に届かない。
いや、正確には届いている。
ただ、聞こえないふりをしているだけだ。
「……本当に早いのね」
荷造りの済んだ革鞄を見下ろして、レティシアは小さく呟いた。
衣装は最低限。私物も少ない。王宮に置いていくものの方が多かった。侯爵令嬢として与えられた私室、王太子妃候補として使っていた茶器、学園の課題書、季節ごとの装身具。それらの大半は、ここに置いていっても支障がない。
どうせ、もう必要ないのだから。
「王都の方々は、お別れがお上手でございます」
背後で荷紐を締めていたマルガレーテが、淡々とした口調で言った。
皮肉はいつも通り上品で、だからこそよく刺さる。
「昨夜のうちにお部屋の整理まで進めておかれるとは、なんと手際のよろしいことでしょう」
「そうね。感心するほどだわ」
レティシアは鏡台の前に座り、侍女に髪を整えられながら答えた。
婚約破棄された侯爵令嬢を、一刻も早く王都の景色から消したい――そんな意図が透けて見える段取りだった。今朝一番で届けられたのは、王宮からの形式的な謹慎通達。そしてその直後、侯爵家からも使者が来た。
父クラウス・フォン・ローゼンベルクの名で、帰郷命令書が届いたのである。
蝋封はすでに切ってある。白い紙には簡潔な文面だけが並んでいた。
レティシア・フォン・ローゼンベルクは、速やかに領地へ帰還すること。王都における一切の対外的活動を慎み、当面は静養に専念せよ。
静養。
便利な言葉ですこと、と昨夜のうちに何度思ったかわからない。
外聞を整え、追い払う理由を柔らかく包み、本人の意思を奪う時にこれほど使い勝手のよい言葉はない。
病でもない娘を王都から遠ざける。
社交界の視界から外す。
面倒ごとを領地へ押し戻す。
それをすべて"静養"の二文字で済ませられるのだから、実に都合がいい。
「馬車の準備は整っております」
マルガレーテが言う。
「侯爵家の使いの方も、玄関でお待ちです」
「ええ。先に執務棟へ寄るわ」
髪を結い終えたレティシアは、鏡の中の自分を見た。
銀灰色の髪はいつも通りきっちりとまとめられ、顔色も悪くない。昨夜ほとんど眠っていないわりには、目の下の影も目立たない。こういう時だけ、自分の表情の乏しさが役に立つ。
傷ついていないわけではない。
悔しくないわけでもない。
だが、それ以上に頭が冷えているのだ。
帰郷命令書の文面。昨夜の帳面。青鹿の商会印。父がどこまで把握しているのか。領地へ戻って最初に見るべき帳簿は何か。
考えることはいくらでもある。
「お嬢様」
マルガレーテが、わずかに声を和らげた。
「お気をつけて」
「ええ。あなたも来るのでしょう?」
「もちろんでございます」
その返答に、ほんの少しだけ胸の奥が緩む。
少なくとも、完全な孤立ではない。
レティシアは立ち上がり、机の上に置いていた薄い革手帖を袖の内に収めた。昨夜まとめた控えと走り書きは、すべてそこに挟み込んである。
証拠とは言えない。
だが、違和感を辿るための糸にはなる。
王宮の長い回廊を執務棟へ向かって歩くあいだ、すれ違う者たちは皆、丁寧に頭を下げた。礼を欠く者はいない。けれどその視線の奥にあるものは、昨日までとは明らかに違っていた。
同情、警戒、好奇心、安堵。
誰もが、すでに"終わった人間"を見る目をしている。
レティシアは前だけを見て歩いた。
やがて、重厚な扉の前で足を止める。王宮の一角に設けられた来客用の執務室。王都滞在中の有力貴族が、家の使者と話をするために使う小部屋だ。
扉の前には侯爵家の家紋をつけた従僕が控えていた。レティシアの姿を見ると、緊張したように深く一礼する。
「お嬢様、旦那様がお待ちです」
「通して」
扉が開く。
室内にはすでに、父クラウスがいた。
大きな体格に濃紺の外套をまとい、窓際に立っている。その背中は広く、武人らしい威圧感があった。黒髪には白いものが混じり始めているが、姿勢は少しも衰えていない。剣を取れば今でも前線に立てるだろうと思わせる人だ。
ただ、その背が今はひどく遠く見えた。
クラウスはレティシアが入る気配で振り返り、しばし無言で娘を見つめた。
「……来たか」
「お呼びと伺いました、お父様」
形式どおりに礼を取る。
父はそれに短く頷き、机上の書状へ視線を落とした。自分が出した帰郷命令書だ。
「書状は読んだな」
「はい」
「なら話は早い。お前はしばらく領地で静養していろ」
静養。
やはりその言葉だった。
便利な言葉ですこと、とレティシアは胸中で繰り返す。
娘の意志も、昨日の断罪劇も、王都で築いてきた立場も、すべてひとまとめにして棚へ上げる響きだ。
だが表には出さず、レティシアは父を見つめ返した。
「承知いたしました」
ひとまず、そこで逆らう気はない。
クラウスの眉間に、ごくわずかな皺が寄る。もっと取り乱すと思っていたのかもしれない。あるいは抗弁か、怒りか、涙か。父もまた、広間の観衆と同じように、娘がここまで淡々としているのを予想していなかったのだろう。
「……王都では色々と言われるだろう」
クラウスは低い声で言った。
「今は余計な火種を増やす時ではない。家名を守るためにも、お前は表へ出るな」
家名を守るため。
その言葉に嘘はないのだろう。父なりの判断であり、父なりの保護でもある。だが同時に、それはレティシアを"守るべき娘"として処理する声音でもあった。
家の当事者ではなく、家の外へ出すことで整えるべき存在。
レティシアはそこに、昨日からの違和感の延長を見た。
誰も彼もが、自分に感情の役割しか求めていない。
泣く娘、恥じる令嬢、謹慎する婚約破棄者。
だが、ローゼンベルク領が本当に沈みかけているのなら、そんな役割を演じている場合ではない。
「では、お言葉に甘えて領地へ戻ります」
静かに言ってから、レティシアは一呼吸置いた。
「その代わり、お願いがございます」
クラウスの目が細まる。
「何だ」
「領地経営の一部を、わたくしにお任せください」
部屋の空気が止まった。
窓の外を通る風の音だけが、妙に大きく聞こえる。
従僕が扉の外で息を呑んだ気配すら、伝わってきそうだった。
「……何を言っている」
クラウスの声は低い。怒鳴ってはいない。だが、理解の外にあるものを正面から拒む時の声だった。
「静養のために戻れと言っているのだぞ」
「存じております」
「ならば休め。王都で疲れたのだろう」
「いいえ」
レティシアは首を振った。
「疲れているからこそ、確認しなければなりません」
「確認?」
「はい」
父の視線を受け止めたまま、言葉を選ぶ。
昨夜の帳簿の話をここですべて明かすには、まだ証拠が弱い。青鹿の商会印ひとつで領地の不正を断じることはできない。だが、何も告げずに帰れば、領地へ着いた時点で帳簿に触る権限を失う可能性がある。
それは避けたかった。
「領地の収支を拝見したいのです」
クラウスの眉がぴくりと動く。
「今、何と」
「家の帳簿と、主だった事業の収支です。全体でなくても構いません。まずは一部で結構ですので、確認をお許しいただきたいのです」
しばし沈黙が落ちる。
父は驚いていた。いや、戸惑っている。
それはレティシアが父の言葉に逆らったからではない。娘の口から"収支"だの"事業"だのという単語が、こんな場面でまっすぐ出てくること自体が予想外なのだ。
「なぜ、そんなものをお前が見る必要がある」
「必要があると考えたからです」
「理由になっていない」
「では、申し上げます」
レティシアは袖の内の革手帖へそっと触れた。
「昨夜の宴席には、不自然な点がございました」
「宴席?」
「招待客数に対して酒量が多すぎます。食材の格も高すぎる。単なる見栄ならそれでもよろしいのですが、仕入れの癖に気になる点がありました」
クラウスの顔に、わずかな警戒が走る。
父は数字に強い人ではない。だが、戦場で生きてきた人間らしく、"報告の仕方"には敏い。レティシアが感情ではなく観察事項から話し始めたことで、完全には切り捨てにくくなっている。
「気になる点とは何だ」
「まだ確証はございません」
ここは断定しない。
「けれど王宮に出入りする商会のひとつが、以前、領地の献上目録でも見かけた印と一致いたしました」
「……商会印か」
「はい」
「それだけで領地経営に口を出す気か」
冷たい言い方だった。
しかしレティシアは怯まない。
「口を出すのではなく、確認したいのです」
「確認してどうする」
「異常がなければ、それで安心できます」
そして、異常があれば。
その先を口にはしなかった。今ここで父に"領地が不正に食われているかもしれない"とまで言えば、さすがに飛躍だと切って捨てられる可能性が高い。
クラウスはしばらく考え込むように黙っていた。
その顔には、武人が慣れない盤上戦を前にした時のような固さがある。
「レティシア」
やがて彼は言った。
「お前は今、平静ではない」
予想していた返答だった。
「婚約を解消された直後だ。傷ついていないはずがない。その勢いで家の実務に首を突っ込むのは感心しない」
まっすぐな言葉だ。
父なりに娘を案じてもいるのだろう。
だが、やはり見えていない。
レティシアにとって今優先すべきものが、婚約の傷ではないことを。
「わたくしは平静です」
「無理をするな」
「無理はしておりません」
「している」
低く断じられ、レティシアは一瞬だけ息を止めた。
ああ、と妙に冷めた気持ちで思う。
父はずっとこうだった。
娘が何を感じ、何を考えているかよりも、"こうであるはずだ"という枠で先に判断する。守ろうとしているのはわかる。けれど、その守り方はいつも一方的だ。
王都へ上げた時もそうだった。
王太子妃候補として必要な教育を受けさせ、恥のないよう整え、やがて王家へ送り出す。そこに、レティシア自身が家の中で何を担うかという視点はほとんどなかった。
自分は最初から、いずれ外へ出す娘として扱われていたのだろう。
だから今も、領地に戻るのは"休ませるため"であって、"任せるため"ではない。
「お父様」
レティシアは声を落とした。
「もし領地が万全なら、わたくしが帳簿を見ても何の問題もないはずです」
「……」
「反対に、もし何かあるのなら、なおさら確認は必要です」
「何かあると、お前は思っているのか」
「思っております」
はっきり言うと、クラウスの眼差しが鋭くなった。
「根拠は」
「まだ違和感の段階です」
「違和感で家を騒がせるつもりか」
「違和感を放置した結果、取り返しがつかなくなることもございます」
ぴたり、と空気が張り詰める。
この言い方は父の癇に障るかもしれないと思ったが、引く気はなかった。今ここで黙れば、おそらく二度と"家の帳簿を見たい"とは言えなくなる。
クラウスは机に置いた片手をゆっくり握りしめ、やがて短く息をついた。
「お前は昔から、そういう顔をするな」
「……そういう顔、ですか」
「何かを決めた時の顔だ。誰の言葉も聞かない」
意外な言葉だった。
父がそんなふうに自分を見ていたことを、レティシアは知らなかった。
だが次に続いた言葉は、やはり父らしかった。
「だからこそ余計に、今は休めと言っている」
ほんのわずかに期待した自分を、内心で叱る。
結局そこへ戻るのか。
「家の実務は、お前が心配することではない」
クラウスは言った。
「領地には家宰も財務官もいる。お前はしばらく表へ出ず、頭を冷やせ」
その一文で、レティシアの中の何かがすっと冷えた。
家の実務は、お前が心配することではない。
それはつまり、やはり自分を家の当事者として見ていないということだ。
侯爵令嬢として政略には使う。だが家の金や土地や暮らしを支える側には入れない。娘だからか、若いからか、それともただ"そういう役ではない"と思っているからか。
どれでも同じだった。
レティシアは視線を伏せ、胸の内を整える。
感情で返すのは簡単だ。けれど、それでは何も取れない。
必要なのは許可だ。全面でなくていい。入口だけでもこじ開ければいい。
「承知いたしました」
ひとまず、レティシアはそう言った。
クラウスの顔がわずかに緩む。説得が通ったと思ったのだろう。
「ですが、静養の間、何もせず過ごすのは性に合いません」
「……」
「わたくしにできる範囲で構いません。小さな事業でも、帳面の整理でも、何かひとつお任せくださいませ」
クラウスが黙る。
「家全体の実務に口を出すなというお言葉には従います。けれど、役に立たないまま領地で日を過ごすのは、わたくしには難しゅうございます」
これは半分本音で、半分は交渉だ。
全面拒否されるより、小さな仕事を与えられる方がよい。帳簿を見る入口になるし、現場へ出る理由にもなる。
クラウスはしばらく考え込んでいたが、やがて机上の命令書へ目を落としたまま言った。
「……ゲオルクと相談しよう」
伯父の名が出た瞬間、レティシアは胸中で警戒を強めた。
ゲオルク。
家宰代理として領地の実務を取りまとめる、父の弟。社交に強く、物腰が柔らかく、誰にでも親しげな伯父だ。だが昨夜の控え帳を見た今、その"実務を預かる者"という立場がひどく引っかかる。
とはいえ、ここで顔に出すわけにはいかない。
「ありがとうございます」
「期待はするな」
クラウスはあくまでぶっきらぼうだった。
「お前に任せられるとしても、せいぜい余っている小さな店か、赤字続きの事業の整理程度だ」
その言葉に、レティシアの内側で逆に思考が速くなる。
余っている小さな店。
赤字続きの事業。
それで十分だった。むしろ好都合ですらある。規模が小さければ数字は追いやすいし、赤字事業なら仕入れと売上の関係を洗う口実になる。
「構いません」
答える声は、思った以上に落ち着いていた。
「まずは一つで十分です」
クラウスは少しだけ怪訝そうに娘を見た。
「本気か」
「はい」
「……そうか」
短い返答。納得ではなく、保留の響きだった。
それでも、最初の一歩としては悪くない。
完全な追放ではなく、仕事の余地を残した帰郷になったのだから。
「馬車は昼前に出す」
クラウスは話を切り上げるように言った。
「領地へ着いたら、まずは屋敷で休め。実務の件は、その後だ」
「承知いたしました」
礼を取り、レティシアは一歩下がる。
これ以上押せば、かえって心証を損ねる。父は一度決めた後に追い立てられるのを好まない。今日はここまででいい。
扉へ向かいかけたところで、背後から低い声が追ってきた。
「レティシア」
振り返る。
クラウスは窓際に立ったまま、少し言いにくそうに眉を寄せていた。
「……昨夜のことは、その……」
珍しく言葉に詰まっている。
慰めたいのか、謝りたいのか、それともただ何か言うべきだと思ったのか。父自身もわかっていないのだろう。
レティシアは小さく首を振った。
「お気遣いなく」
それ以上言わせる前に、静かに微笑む。
「領地へ戻りましたら、やるべきことをいたします」
その答えが期待されたものではなかったのか、クラウスはほんの少しだけ目を伏せた。
だが結局、何も言わなかった。
部屋を出ると、回廊の空気がひやりと頬を撫でた。外で待っていたマルガレーテが、何も問わず横へ並ぶ。
「いかがでございましたか」
「完全には退けられなかったわ」
歩き出しながらレティシアは答えた。
「ただし、完全には認められてもいない」
「それでも前進でございますね」
「ええ」
革手帖の感触を袖の中で確かめる。
帰郷命令書は追放の体裁をしていた。だが、領地で何かひとつでも任されるなら、ただ退場させられるだけでは終わらない。
小さな店でもいい。赤字事業でもいい。
帳簿に触れられるなら、そこから辿れる。
青鹿の商会印。
王宮宴席の不自然な収支。
父が"心配するな"と切って捨てた領地の実務。
それらはきっと、どこかで繋がっている。
王宮の玄関を出る頃には、空の白さが少しだけ薄れていた。馬車の脇には侯爵家の従者たちが控え、荷はすでに積み込まれている。
王都を去るのだと、ようやく実感が湧いた。
本来なら屈辱的なはずの帰郷だった。婚約を解かれ、社交界から外され、休めとだけ言われて追い返される。
けれどレティシアの胸にあるのは、敗北感よりも先に、確かめなければならないという焦りだった。
静養。
便利な言葉ですこと。
ならば、その"静養"の名の下で、徹底的に見せてもらおうではないか。
ローゼンベルク領の赤字が、ただの不運なのか。
それとも誰かが作った綻びなのか。
馬車へ乗り込む直前、レティシアは王宮の尖塔を一度だけ振り返った。
昨日まで自分が立っていた場所。
今日から、自分を追い出した場所。
だがもう、未練はない。
彼女が次に見るべきは、華やかな王都の広間ではなく、領地の帳簿なのだから。




