第2話 断罪の夜、帳簿は嘘をつかない
王宮の廊下は、舞踏会の熱気から切り離された別世界のように静かだった。
つい先ほどまで楽の音と囁きで満ちていた空気が、扉一枚隔てただけで冷えている。磨き上げられた床に靴音が小さく反響し、そのたびに侍女たちが気配だけで頭を下げた。
誰も、レティシアに何も言わない。
言わないが、その沈黙が雄弁だった。
婚約破棄された侯爵令嬢。王都から退くことが決まった女。今夜限りで、社交界の席次も意味を失う人間。
そういう目だ。
レティシアは気にしなかった。
正確には、気にしている余裕がなかった。
頭の中ではまだ、舞踏会の卓上に並んだ瓶の数と皿の配置が、数字として残り続けていた。人数、酒量、食材、仕入れ額。どこをどう切っても釣り合わない。
しかも、あの青鹿の紋章。
指先がうずくような、いやな違和感があった。
「お嬢様」
部屋の前で待っていたマルガレーテが、いつもの隙のない一礼をした。彼女は広間まで付き従っていなかったが、すでに大方の事情は把握しているらしい。
「お湯をお持ちいたしますか」
「いいえ、まだ結構よ」
レティシアは扉の前で立ち止まり、少しだけ考えてから言った。
「誰も通さないでちょうだい。今夜は、おそらく少し騒がしくなるわ」
「かしこまりました」
短い返答に、余計な驚きも同情もない。
それがありがたかった。
扉を閉めた途端、ようやくひとりになった実感が来る。
王宮に与えられていたこの私室は、侯爵令嬢としての格式にふさわしく整えられていた。薄青の壁布、白木の机、金彩の鏡台、花の香りを含んだ燭台。けれど今のレティシアには、それらはすべて背景でしかない。
彼女は手袋を外すのもそこそこに、机の一番下の引き出しへ向かった。
鍵はかけていない。だが中身は、普通の令嬢ならわざわざ覗き込もうともしないものばかりだ。
茶会の費用控え。慈善会の献納一覧。宴席の納品メモ。厨房への追加発注記録。飾り花の請求書。楽団への支払額。馬車の手配料。
いずれも正式な台帳ではない。
表向きには必要のない、レティシア個人の走り書きだった。
社交界の令嬢がどうしてそんなものを持っているのか、と問われれば、答えは簡単だ。
気になったからである。
豪奢な茶会で予算を超えた花代。慈善を謳いながら妙に高い菓子代。学園行事のたびに増えていく雑費。誰も気にしないのに、レティシアだけが気にした。
可愛げがない、と言われた理由のひとつでもあった。
けれど今夜に限っては、その可愛げのなさが役に立つ。
レティシアは細い指で束をより分け、最後に控えていた宴席関係の紙片を取り出した。
正式な書類ではないため、筆致も乱れている。日付、品目、ざっくりした数量、給仕長や会計補佐が口にした数字を記憶の新しいうちに書き留めたもの。習慣のように続けてきたそれらが、今は思った以上に大きな意味を持って見えた。
「……やはり」
誰に聞かせるでもなく、声が漏れる。
卒業記念舞踏会。出席者概算、前年より減。追加発注、高級酒三箱。海魚、香辛料、砂糖菓子、季節外れの果実。
記録が粗くても、不自然さは隠しきれない。
レティシアは一枚を燭台の下へ置き、別の紙を隣に並べた。
半月前の王妃主催茶会の控え。
そのさらに横には、先月の慈善晩餐会の費用メモ。
数字だけを見れば、それぞれ単体でもやや高い。だが並べるともっと妙だった。
同じ種類の酒なのに、茶会と晩餐会とで単価が違う。
飾り花の納入数が会場規模の割に多い。
楽団の手配料が、なぜか急に上がった月がある。
そして――。
「商会印」
レティシアは控え帳の端に自分で書き写しておいた小さな印を指先でなぞった。
青鹿の紋章。
枝のように伸びた角。円を描くような細い蔦飾り。見た瞬間に、どこかで見覚えがある気がしたそれ。
引き出しの奥から、さらに古い紙片を取り出す。
こちらは王宮のものではない。侯爵家から届いた、領地産品の献上目録の写しだ。正式文書ではなく、父の執務室にあった目録を以前ちらりと見た際、気になって控えておいた程度のものだが、いくつかの商会名と印は記憶していた。
並べる。
見比べる。
燭の明かりに紙を傾け、線の癖まで追う。
沈黙の中で、心臓が一拍だけ重く打った。
「同じ……」
青鹿の角の曲線。
外周の細い飾り。
印の右下がわずかに欠けたように見える癖まで、一致している。
王宮の宴席へ高級酒と食材を納めた商会と、ローゼンベルク領の献上・仕入れに関わっていた商会が、同じ。
偶然かもしれない。
いや、同じ商会が王宮と有力領地の双方に出入りしていても不自然ではない。むしろ、大きな商いをするなら当然とも言える。
問題は、そこではない。
問題は、今夜の不自然な水増しめいた豪華さと、その商会印が結びついたことだ。
レティシアは椅子に腰を下ろし、紙の上に新たな走り書きを始めた。
王宮宴席。高級酒。人数減。単価増。
ローゼンベルク領。献上品。仕入れ。輸送。
矢印を引く。横に疑問符を書く。さらに小さく、別の品目を書き足す。
葡萄酒、小麦、保存肉、布地、香辛料。
指が止まらなかった。
昔からこうだった気がする。数字の綻びを見つけると、そのほころびの先を辿らずにはいられない。ほんのわずかな差額や本数のズレが、紙の向こう側で誰かの怠慢や私欲に変わる瞬間があると、知っている。
どうして知っているのかは、今さら言葉にしなくてもよかった。
蛍光灯の白さも、硬い事務椅子の冷たさも、深夜の小さな電卓の感触も、説明しようとすれば夢物語になるだけだ。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
帳簿はときに嘘を書く。
だが、嘘を書いた跡まで消すことはできない。
「おかしいのは、宴席だけではないわね」
独り言のように呟く。
王宮の茶会、慈善晩餐会、卒業記念舞踏会。もしこの商会が継続的に関わっているなら、そこにはただの豪奢ではない"癖"が出る。単価の上げ方。品目の混ぜ方。人目を引く部分だけ派手にし、その陰で数字を膨らませる手口。
そして、もし同じ癖がローゼンベルク領の納品や仕入れにもあるのなら。
喉の奥が冷たくなる。
乙女ゲームの記憶の中で、ローゼンベルク家は後に失脚する。表向きの理由は、悪役令嬢の失態と、領地経営の混乱。細かな過程までは思い出せないが、少なくとも"自然に傾いた"わけではなかったのかもしれない。
破綻は、起きるものではなく作られることがある。
売れない店、足りない倉庫、膨らむ経費、減っていく現金。
誰もが「景気が悪いから」「時勢が悪いから」で片づけた隙に、静かに首を絞めるように。
レティシアは無意識に、机の端を強く押さえていた。
婚約破棄の屈辱は、まだ胸のどこかに熱を残している。だがそれすら今は優先順位が低い。あの場で自分を裁いた人間たちへの反論より、先に確かめるべきことがある。
ローゼンベルク領は、どこまで食われているのか。
父は知っているのか。
伯父ゲオルクは。
財務を預かる者たちは。
アルノルトは――いや、王太子はそこまで見ていたのか。あるいは、見えていなかったのか。
「……見えていないのでしょうね」
そうでなければ、あの場であれほど見事に"断罪劇"を成立させた直後、宴席の帳尻について一度も問い返さなかったはずがない。
人を守るだの、正しさだの。
立派な言葉はいくらでも口にするくせに、数字の裏にいる人間には目が届かない。
今さら腹を立てても仕方がなかった。
レティシアは深く息をつき、紙束の中から今夜の控えをもう一度引き抜いた。乱雑に見える自分の筆跡の端へ、小さく新しい文字を書き添える。
青鹿の商会印――領地資料と照合要。
さらにその下へ。
王都追放は好機。領地帳簿の確認を最優先。
書いてから、少しだけ口元が引き締まる。
追放。謹慎。失脚のはじまり。
普通ならそう受け取るべき状況だ。けれど、帳簿を見るために自分の足で領地へ戻れるのなら、それはまだ完全な詰みではない。
盤上から追い出されたのではない。別の盤面へ移されただけだ。
しかも今度は、社交の顔色ではなく現物と帳簿が相手になる。
その方が、よほど戦いやすい。
こん、こん。
控えめなノックが響いた。
「お嬢様、失礼いたします」
マルガレーテの声だ。
「何かしら」
「侯爵家より急ぎの使いが参りました。明朝にはご出立のご準備を、とのことです」
予想より早い。
だが、むしろ都合がよかった。
「わかったわ。入ってちょうだい」
扉が静かに開き、マルガレーテが一歩入る。その目はまずレティシアではなく、机の上へ向いた。紙片の山、並べられた控え、燭台の下で重しのように置かれた走り書き。
何をしていたのか、一目で察したらしい。
「……お休みになる前に、帳面でございますか」
「ええ」
レティシアは紙を隠さなかった。
「今夜の宴席、少し気になることがあったの」
マルガレーテは近づきすぎず、だが確かめるように視線を落とす。青鹿の印を見た瞬間、ほんのわずかに瞳が細められた。
「その紋、どこかでご覧になったのですか」
「領地の献上目録で見た記憶があるわ。確証はないけれど」
「……そうでございますか」
たったそれだけの返答だったが、妙に含みがあった。
レティシアは顔を上げる。
「マルガレーテ、何か知っていて?」
「知っている、と申せるほどではございません」
侍女頭はいつもの端正な口調のまま答えた。
「ただ、旦那様のご不在が続いてからというもの、領地から届く品や請求の書式が、いくらか変わった覚えがございます。わたくしは数字に明るくはございませんが、書き手が変われば紙の空気も変わりますので」
紙の空気。
いかにもマルガレーテらしい表現だが、レティシアには十分だった。
少なくとも、自分の違和感は独りよがりではない。
「もっと早く見ておくべきでした」
思わず漏れた言葉に、マルガレーテは首を横に振る。
「今お気づきになったのでしたら、今がその時なのでございましょう」
慰めではない。
事実としての言葉だ。
レティシアはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「そうね。では、明朝の支度をお願い」
「かしこまりました」
マルガレーテは一礼し、扉の方へ戻りかけて、ふと足を止めた。
「お嬢様」
「何かしら」
「今夜のことを、悔やんでおいでですか」
静かな問いだった。
婚約破棄そのものを指しているのだと、すぐにわかる。
レティシアは机上の紙束へ視線を落とした。控え帳、商会印、走り書きの矢印。そこに残るのは失恋の跡ではなく、もっと冷たいものばかりだ。
「いいえ」
答えは驚くほどすんなり出た。
「少なくとも、今はそれどころではないわ」
マルガレーテの口元が、ごくわずかに和らぐ。
「ようございました」
そう言って彼女は今度こそ静かに部屋を出ていった。
ひとりきりになった室内で、燭の火が小さく揺れる。
レティシアはしばらく動かず、机上の紙を見つめ続けた。
婚約は失った。
王都で積み上げてきた立場も、ほとんど失うだろう。
けれど、失ったからこそ見えるものもある。
人の視線から外された時、金の流れはむしろ追いやすくなる。断罪の裏で、人は安心して気を緩める。レティシアが泣き暮らすと思っているのなら、なおさらだ。
だったら好都合だった。
彼女は控え帳の束を丁寧に整え、必要な紙だけを革表紙の薄い手帖へ挟み込む。最後に、青鹿の印を書き写した紙片を一番上に置いた。
明日、領地へ戻る。
帰郷ではない。確認に行くのだ。
あの紋が王宮と領地を繋いでいるなら、破滅の入口はずっと前から足元に口を開けていたことになる。
ならば踏み抜く前に、こちらから覗き込んでやればいい。
燭台の火を落とす直前、レティシアは手帖の端に最後の一文を書き加えた。
婚約破棄の件より先に、ローゼンベルク領の帳簿を確認すること。
それは覚え書きであると同時に、ほとんど決意に近かった。
帳簿は嘘をつかない。
正確には、嘘を書かれても、必ずどこかに綻びを残す。
そしてレティシアは、その綻びを見つけるのが得意だった。




