第1話 婚約破棄より気になる赤字
本日より開始となります。
社交界では嫌われ者だった悪役令嬢が、今度は帳簿を武器に逆転する――全50話前後で完結予定の短編連載です。最後まで駆け抜けますので、ぜひお付き合いください。
婚約破棄を告げられている最中、レティシアは泣かなかった。
怒りもしない。
ただ、王宮大広間を巡る給仕の足取りと、銀盆の上で減っていくワイングラスの数を見ていた。
今夜の卒業記念舞踏会は、例年より招待客が少ない。
壁際に控える椅子の数。空いた卓の間隔。給仕が余らせている前菜皿。入場時にざっと見ただけでも、去年より三割は少なかったはずだ。にもかかわらず、先ほどから運び出される空瓶の本数は、どう考えても多い。
赤の封蝋、金の首紐、深緑のラベル。
あれは高級酒だ。しかも、王都で最近値の上がった銘柄だったはずである。
「――聞いているのか、レティシア」
名を呼ばれて、レティシアはようやく正面を見た。
王太子アルノルト・レオンハルトが、数段高い壇の上から彼女を見下ろしている。金の髪、碧の瞳、誰もが見惚れる整った容貌。柔らかな物腰と、人を守ろうとする正義感で慕われる王国の至宝。
少なくとも、そう見えている。
その隣には、蜂蜜色の髪を結い上げた少女――セシル・マーレンがいた。白い手袋をはめた両手を胸元できつく重ね、祝福とも同情ともつかぬ視線に晒されている。
広間じゅうの注目が、レティシアひとりへ注がれていた。
「聞いております、アルノルト殿下」
静かに答えると、周囲で小さなどよめきが起きた。
その反応の意味を、レティシアはよく知っている。
やはり可愛げがない。こういう場でも動じないのか。少しはしおらしくすればいいものを。
社交界のご令嬢方が、扇の陰でそう囁く顔まで想像できた。
実際、広間の一角では伯爵令嬢アーデルハイトが、隣の令嬢へ何事か耳打ちしている。薄く笑う唇の形だけで、だいたいの内容は察せた。
冷たい女。高慢な侯爵令嬢。王太子妃候補の座に執着する、嫌われ者の悪役令嬢。
それがレティシア・フォン・ローゼンベルクに貼られた札だった。
「ならば、もう一度はっきり言おう」
アルノルトの声が、楽の音も止んだ広間に澄んで響く。
「私は今日をもって、君との婚約を破棄する」
息を呑む気配が、幾重にも重なった。
けれどレティシアの耳には、その宣言よりも、給仕のひとりが奥で落としかけた銀器の触れ合う小さな音の方が鮮明に届いていた。視界の端を横切る盆には、抜栓済みの瓶がさらに二本。まだメインも出ていないというのに、どういう消費量だろう。
しかも、客の半数以上はまだ踊っている。飲食より談笑の時間だ。
計算が合わない。
「理由は、君にもわかっているはずだ」
アルノルトは続ける。
「君はこれまで何度も、セシルに辛く当たった。学園での侮辱、茶会での圧力、慈善会での排斥。身分と立場を笠に着た振る舞いを、私は見過ごせない」
壇の下から、同意のざわめきが広がる。
レティシアはセシルを見た。
少女は俯いていた。勝ち誇るでもなく、安堵するでもなく、白い手袋の指先を潰すほど強く握りしめている。
喜んでいない。
そのことだけは、ひどくはっきりとわかった。
「君はいつも正しい顔をして、人を追い詰める」
アルノルトの言葉は、どこまでも立派だった。
「正しさを振りかざし、思いやりを忘れ、弱い者を傷つける。そんな者を、次代の王妃に据えることはできない」
正しさ、思いやり、弱い者。
聞こえのよい言葉が並ぶたび、レティシアの頭の奥で、別の数字が組み上がっていく。
招待客、およそ七十。
王族主催ゆえ警備と従者込みでも百を少し超える程度。
それに対して、さきほど壁際の副卓に並んでいた高級酒は少なく見積もっても二十七本。加えて今、空瓶が八。開封準備中のものがさらに数本。例年より人数が少ないのなら、そこまで要るはずがない。
料理の格も上がっていた。川魚ではなく海魚。季節外れの果物。南方の香辛料。
見栄えは豪華だが、予算配分が不自然だ。
いや――不自然というより、雑である。
誰かが水増しをした帳簿を、そのまま通した時の豪華さだ。
その瞬間、頭の内側で何かが弾けた。
数字の並び。仕入れ。原価。欠品率。廃棄。売価。棚卸。締め日。
知らないはずの言葉が、知っている感覚を伴って押し寄せる。
狭い事務机。蛍光灯。レジ締め後の売上表。生活費の計算。赤字店舗の見直し資料。褒められもしないくせに、数字の綻びだけは見逃せなかった、遠い遠い前の人生。
そして同時に、もうひとつの記憶が浮かび上がった。
これは乙女ゲームの断罪場面だ。
王太子の婚約者たる悪役令嬢が、平民寄りの男爵令嬢を虐げた咎で公衆の面前から退場させられる、物語の大きな転換点。
悪役令嬢の名は、レティシア・フォン・ローゼンベルク。
そしてその末路は、婚約破棄だけでは終わらない。
社交界からの追放、実家の失脚、領地経営の破綻。破滅。
――冗談ではない。
婚約ひとつなら、どうとでもなる。
だが実家の領地まで巻き込んで沈むとなれば話は別だ。しかも今この場で見えてしまった数字の歪みは、単なる舞踏会の贅沢ではない。構造の匂いがする。
水増しされた仕入れは、いつだってどこか別の帳簿へ繋がっている。
「レティシア」
アルノルトが、やや苛立ちを含んだ声で呼んだ。
「何か言うことはないのか」
ある。
ありすぎるほどある。
だが、その大半は婚約についてではなかった。
レティシアは背筋を伸ばしたまま、ゆっくりと一礼した。
「殿下のご意思、承りました」
ざわり、と空気が動く。
泣き崩れも、言い訳も、取り縋りもない。
その淡々とした受け入れが、かえって人々の好奇心を煽っているのがわかった。
アルノルトも一瞬だけ言葉を失う。
彼はおそらく、もう少し別の反応を予想していたのだろう。感情的な否認か、せめて動揺を。
レティシアは構わず続けた。
「その上で、ひとつだけ確認させてくださいませ」
「……確認?」
「はい」
広間じゅうの視線が細く尖る。
こんな場面で何を言い出すのかと、誰もが息を潜めた。
レティシアは壇の上ではなく、やや後方、給仕長の脇に控える書記見習いの青年へ視線を向けた。彼の手元には、納品確認用らしき薄い帳面が挟まれている。ページの端から覗く印章の色まで見えた。
「今夜の宴席の納品書は、どなたが最終確認をなさったのですか」
沈黙が落ちた。
それは、さきほどまでの断罪のざわめきとは質の違う、ぽっかりとした無音だった。
「……は?」
間の抜けた声を漏らしたのは、誰だったか。
少なくとも王太子ではない。アルノルトは眉を寄せ、レティシアを見つめていた。困惑と苛立ちと、理解できないものを見る色が混ざっている。
「殿下」
レティシアはあくまで丁寧に言った。
「招待客数に対して、今夜の酒量と食材の格が合っておりません。もし王家主催の宴で不自然な水増しがあるなら、看過すべきではないかと存じます」
どよめきが、今度こそはっきり広がった。
「な、何を言い出すの」「この場で会計の話?」「やはり正気では――」
扇の陰、袖口の向こう、小さな囁きが幾重にも走る。
アーデルハイトなどは、半ば呆れたように肩を竦めていた。
だがレティシアは視線を逸らさない。
「感情は理解いたします。ですが、問題はそこではありません」
「そこでは、ない……だと?」
アルノルトの声音が、かすかに揺れた。
「わたくしへの処断は、殿下のご判断として受けましょう」
レティシアは静かに言う。
「ですが、王家の宴席で帳簿の辻褄が合わないのであれば、それは別件です。確認なさるべきではございませんか」
アルノルトの喉が動いた。
彼は善人だ。少なくとも、自分がそうあろうとしている人間である。
だからこそ、こういう言葉には弱い。
「君はいつも……」
低くこぼれた声は、そこで止まった。
いつも、何だというのだろう。
正しいのか。冷たいのか。面倒なのか。あるいは、自分に見たくない現実を突きつけるのか。
アルノルトは結局、その先を言わなかった。
代わりにセシルが、ぎゅっと手袋を握りしめたまま、ほんの少しだけ顔を上げる。茶色の瞳が揺れていた。怯えと、戸惑いと、何か言いたげな色。
それでも彼女は何も言わない。
言えないのだろう、とレティシアは思った。
「……本件は後で確認させる」
アルノルトはようやく、王太子らしい体面を取り戻した声で言った。
「だが今は、君との婚約解消が先だ。レティシア・フォン・ローゼンベルク。君には王都を離れ、しばらくローゼンベルク領で謹慎してもらう」
「かしこまりました」
再び一礼する。
周囲から見れば、その姿はいよいよ可愛げのない令嬢に映ったことだろう。
だがレティシアの胸中にあったのは、失恋の痛みでも屈辱でもなく、切迫した計算だった。
王都を離れる。
領地へ戻る。
それは追放であると同時に、確認の機会でもある。
ローゼンベルク領の帳簿さえ押さえられれば、まだ間に合うかもしれない。
もし破滅の根がすでに家の財政へ回っているなら、まず切るべきは婚約ではなく赤字だ。
楽団が、ぎこちなく演奏を再開した。
ざわめきは戻ったが、その中心からレティシアだけが静かに外れていく。
人々は道を開けた。嫌悪か、同情か、面白がりか。そのどれでもよかった。
広間を去る間際、彼女はもう一度だけ、給仕長の脇にある納品帳へ目を向けた。
ページの端に押された商会印。
見覚えのないはずのそれを、指先の感覚だけが覚えている。
青鹿の紋章。
妙に整いすぎた曲線。
前の人生の経験が、警鐘のように告げていた。
あの印は、あとで必ず確かめるべきだと。
婚約は失った。
けれど、まだ帳簿は残っている。
そしてレティシアには、自分の破滅より先に片づけるべきものが、はっきり見えてしまっていた。




