第50話 黒字の春、悪役令嬢の新しい帳簿
春は、帳簿の上にもやってきた。
冬のあいだ何度も書き直され、追記され、切り詰められ、時には泥のついた指でめくられた頁の先に、ようやく新しい年度の帳面が開かれる。
ローゼンベルク領の執務室は、以前とは別の明るさを持っていた。
窓が開いている。
風が入る。
机の上にはまだ紙束があるし、解決していない細かな問題はいくらでも残っている。けれど、もうそれらは“崩壊を先送りするための紙”ではなかった。次に何を育て、何を直し、どこへ回すかを考えるための紙だ。
レティシアは新年度の帳簿の第一頁を開いた。
厚みのある紙。まっさらな欄。ここへ書き込まれる数字は、もう破滅回避のためだけではない。未来を作るための数字だ。
「どうです」
横からルカが覗き込む。
彼は以前より少しだけ陽に焼けた気がする。冬のあいだ、帳場と倉と製粉所と監査の間を走り回っていたのだから当然だろう。けれど、その疲れは今はどこか誇らしさに近いものへ変わっている。
「確認します」
レティシアは帳面へ視線を戻した。
収入欄。支出欄。繰越。冬を越えるための臨時支出は重かった。それでも、いくつかの事業は持ち直した。パン屋は安定して小さな黒を積んでいる。製粉所は完全復旧には至らぬまでも、止まらず回っている。過重徴税の是正で一時的な落ち込みはあるが、その分、領民の手元の動きが少しずつ戻ってきている。
そして。
指先が、その数字へ止まる。
黒字。
物語が始まって以来、初めて、確かな意味を持ってそこへ刻まれた数字だった。
派手ではない。余裕が潤沢にあるわけでもない。小さく、慎ましく、それでも疑いなく黒だとわかる数字。
それを見た瞬間、レティシアの胸の内に広がったのは歓声ではなかった。
静かな達成感。
やっとここまで来た、という実感だけが、深く確かに沈んでいく。
「……ありますね」
ルカが言った。
「ええ」
「黒字」
「ええ」
そこで初めて、レティシアはほんの少しだけ笑った。
大げさな喜びではない。笑ってもよいと、自分へ許した程度の、ごく薄い微笑み。
「見落としはまだある」
心の中でそう呟く。
来年も天候が味方するとは限らない。商会の再編も必要だ。徴税の仕組みはもっと整えなければならない。監査後の信頼回復だって、まだ道半ば。帳簿を開けば、次の問題はいくらでも見つかるだろう。
それでも。
もう帳簿を開く手は震えない。
それが何より大きかった。
扉が叩かれ、マルガレーテが入ってきた。
「お嬢様、パン屋の方から今月の記録が届いております」
差し出された束には、以前より整った字で数字が並んでいる。エルザがまとめ、オットーが確認し、最後にルカの方式を真似て記録板の写しを添えたものだ。
「自主的に、でございますよ」
侍女頭が少しだけ誇らしげに言う。
「よろしいことです」
レティシアはそれを受け取り、頁をめくった。
焼き上がり数。売れ残り。朝市限定の変遷。試食の反応。すべてが、もう誰かに命じられた記録ではなく、店が自分を守るためにつける記録になっている。
「オットーが“窯の前でも書ける板を増やした”そうです」
マルガレーテが報告する。
「ベルタは洗濯場の燃料管理帳を勝手に作り、イーダは冬布の補修残数を村ごとに記しておりました」
「勝手に、ではありません」
レティシアは帳面を閉じた。
「必要だからです」
その一言に、ルカが小さく笑う。
「お嬢様の病気がうつったんですね」
「病気ではありません」
「数字の綻びを放っておけないやつ」
その言い方に、レティシアは少しだけ目を上げた。
どこかで聞いたような、と思ってから、自分自身が何度も胸の内でそう呟いてきたことに気づく。
昔から、数字の綻びを見つけると放っておけなかった。前の人生でも、この人生でも。誰に褒められなくても、華やかでなくても、帳簿の端の妙な数字だけは無視できなかった。
それは才能と呼ぶほど立派なものではないかもしれない。ただの癖。あるいは性分。
けれど、その性分で救えるものがあるのなら、もう悪くはないと思える。
「昔から、数字の綻びを放っておけないだけよ」
レティシアがそう言うと、ルカは「知ってます」とでも言いたげに肩をすくめた。
窓の外では、春の陽光が領地をやわらかく照らしていた。
冬を越えた畑。補修された水路。製粉所の回る音。パン屋の前を行き交う人影。すべてが劇的に変わったわけではない。まだ貧しい場所もある。傷跡も、失ったものも、消えはしない。
けれど、未来へ向かう帳簿は、もう開ける。
破滅を避けるためではなく、何を積み上げるかを考えるために。
悪役令嬢と呼ばれた少女は、結局最後まで派手な魔法も奇跡も使わなかった。ただ数字を読み、綻びを拾い、抜けた分を抜けたと認め、必要なところへ必要なものを戻そうとし続けただけだ。
それでも、それだけで、人も店も領地も少しずつ形を変えた。
机の上の新しい帳簿に、レティシアは最初の正式な数字を書き込む。
黒字。
小さな文字。
だが、揺るぎない。
その頁を閉じた時、部屋の中には誰も大声を出さなかった。歓声も拍手もない。ただ、静かな春の光と、これから書かれるべき未来の頁だけがあった。
それで十分だと、レティシアは思った。
=完=
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