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婚約破棄で破滅予定の悪役令嬢ですが、赤字領地を黒字にしてみせます  作者: gachapin2223


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エピローグ

 春の黒字から、三か月後。


 ローゼンベルク領の朝は、以前より少しだけ騒がしくなっていた。


 それは混乱の騒がしさではない。人が動き、物が回り、誰かの声が次の誰かを動かしていく、暮らしの音だった。


 パン屋の前には朝から小さな列ができている。以前のように“珍しいから並ぶ”のではなく、決まった時間に来れば欲しいものがきちんと手に入るとわかっている列だ。エルザはもう木札を出す手つきにも迷いがなく、オットーはぶっきらぼうに客をあしらいながら、以前よりほんの少しだけ余計に焼くようになった。


 製粉所の水車は、仮継ぎの跡こそ残っているものの、今ではすっかり日常の音として領地に溶け込んでいる。ハンスは「次に壊れた時は、最初からもっとましに直す」とぶつぶつ言いながら、もう新しい保守帳を自分でつけ始めていた。ベルタは燃料管理帳の欄を勝手に増やし、イーダは子ども用の補修布だけでなく、村ごとの洗い替え需要まで書き込んでくる。


 誰に命じられたわけでもない。


 数字が、自分たちの暮らしを守る道具になると知った者たちが、勝手に増やしていった記録だ。


 そのすべての中心で、レティシアは相変わらず帳簿を開いていた。


「お嬢様、また顔が険しいです」


 昼前、執務室へ新しい報告束を運んできたマルガレーテが、いつもの調子で言う。


「険しいのではありません。考えているだけです」


「そう仰る時は、たいてい他の皆さまから見れば険しゅうございます」


 レティシアはペン先を止めて、ほんの少しだけ目を細めた。


 机の上には、新設した乾燥野菜小屋の試算、パン屋の追加窯補修費、春市用の簡易出店計画、縫製場の新規受注見込み。それに加えて、クラウスから回ってきた今期の正式領地収支報告まで積まれている。


 以前のような“崩れかけたものをどう塞ぐか”だけの帳簿ではない。これから何を育てるか、どこへ投資するか、どの無駄なら許容できるかを考える帳簿だ。


 その違いは大きい。


 大きいからこそ、前より考えることが増えたとも言える。


「ルカは?」


「倉の記録を見に行きました」


「また勝手に?」


「お嬢様もよく勝手になさいますでしょう」


 言い返せない種類の正論だった。


 ルカ・ヴァイスは最近、ますます屋敷の中を自然に歩くようになっていた。最初は帳場上がりの補佐役に過ぎなかった男が、今では執務室と製粉所とパン屋と倉庫を当然のように行き来し、誰よりも先に“数字の綻び”を拾ってくる。


 レティシアにとってはありがたい。


 ありがたいのだが、時々本人に自覚なく先回りしすぎるのが難点だった。


 そのルカが戻ってきたのは、ちょうどマルガレーテが昼の茶を置いた頃だった。


「おれが勝手にしたみたいな顔してますね」


 入ってくるなり、そんなことを言う。


「しているでしょう」


 レティシアが即答すると、ルカは帳面の束を机へ置いた。


「倉の記録、ずれてませんでした」


「それは良い報告です」


「でもパウルが、馬丁の若いのが積載札の字を真似しようとして怒られたって」


「何をしているのですか、その方は」


「字が綺麗だと褒められたくて、だそうです」


 マルガレーテが茶器を持つ手のまま、肩をわずかに揺らした。笑ったのだ。


「良いではありませんか。昔なら誰も積載札の字など気にしませんでしたのに」


「気にされても困ります」


 レティシアが言うと、ルカが肩をすくめる。


「気にされるくらいが、今は健全なんでしょう」


 健全。


 王都でユリウス・フォン・ヴァルターに言われたあの言葉が、少しだけ違う意味で蘇る。


 ずいぶん“健全”になったようで。


 皮肉混じりだったあの一言も、今こうして領地の現実だけを見れば、あながち間違いではなかったのかもしれない。


 午後になると、クラウスが執務室へ来た。


 以前のように、扉の外から気配だけで威圧することはもうない。重い足音のまま入ってきて、必要な書類を机へ置く。まだ不器用だが、それでも以前よりずっと“家の中へ戻ってきた父”の顔をしていた。


「春市の件だ」


 差し出されたのは、領都での小規模市の出店許可証だった。


「加工品の出店希望が増えている。お前の方で整理しろ」


「わたくしが?」


「お前が始めたことだろう」


 ぶっきらぼうな言い方だったが、以前のような押しつけとも違う。任せるべき相手へ任せる、というだけの言葉だ。


「承知いたしました」


 受け取ると、クラウスは少しだけためらってから机の上を見た。


「……多いな」


「何がですか」


「帳面だ」


「減る方が問題です」


 そう返すと、クラウスの口元がほんのわずかに動いた。


 笑った、と言ってよいのかは微妙だった。だが、昔のような硬い沈黙ではない。


「そうだな」


 短いその返事だけで十分だった。


 広間を出る頃、クラウスはふと思い出したように言った。


「アルノルト殿下から、また正式な書簡が来ていた」


 レティシアの手が止まる。


「内容は?」


「形式的な見舞いと、王都での商流整理についての協力依頼だ。……読むか」


 一瞬だけ、断罪の夜の広間と、あの中庭が重なる。


 だが、今の胸の内にあったのは何の痛みでもなかった。


「後で結構です」


「そうか」


 クラウスはそれ以上言わず、書簡を机の端へ置いて去った。


 昔なら、その紙一枚だけで一日中気を乱されたかもしれない。今は違う。レティシアの目の前には、もっと現実的で、もっと面倒で、そしてずっと意味のある紙が山ほどある。


「読まないんですか」


 ルカがぼそりと言う。


「急ぎません」


「冷たい」


「実務です」


 そう返すと、マルガレーテが「お嬢様らしゅうございます」と静かに添えた。


 夕方、執務室の仕事が一段落すると、レティシアは珍しく自分から外へ出た。


 領都の空はやわらかな橙色に染まり、パン屋の前からは焼きたての匂いが漂ってくる。市場の露店には春の山菜が少しずつ並び始め、子どもたちはもう冬ほど肩をすぼめて歩いてはいない。


「お嬢様!」


 先に気づいたのはエルザだった。


「今日の限定、もう残り二つなんです」


「報告に来なくてもよろしいでしょう」


「でも見てくださいよ、ちゃんと回ってるから」


 店先には以前より整った木札と、新しく塗り直された小さな看板が掛かっている。派手さはないが、清潔で、何の店かがひと目でわかる。


 オットーは奥から顔を出し、鼻を鳴らした。


「今度は隣町のやつが見に来てたぞ」


「何を」


「“どうやって立て直した”ってな。うるせえから、帳面でもつけてろって追い返しといた」


「追い返してはいけません」


「じゃあ何て言えと」


「記録板を見るよう勧めてください」


 レティシアが真顔で言うと、エルザが声を立てて笑った。


「ほんと、最後までそこなんだから」


 最後まで。


 その言葉に、レティシアは少しだけ立ち止まる。


 最終回のあと、という意味で言われたわけではないのだろう。けれど、どこかで確かに一つの大きな物語は終わったのだと、自分でも思う。


 監査は終わった。不正の回路は断たれた。婚約も終わり、自分の人生も選び直した。


 それでも暮らしは続く。


 帳簿は続く。


 パンは焼かれ、薪は減り、布は擦り切れ、誰かがまた新しい無駄を生み、誰かがその綻びを拾う。


 終わったあとに続く日々。


 その穏やかで面倒で、けれど確かな日常こそが、いちばん守りたかったものなのかもしれない。


 帰り道、ルカが並んで歩きながら言った。


「おれ、前は黒字なんて数字、あればいいくらいにしか思ってませんでした」


「今は違うの?」


「今は……まあ、ちょっと違います」


 珍しく言葉を探す顔をしたあと、彼は続ける。


「黒字って、余る金のことじゃないんですね」


 レティシアは彼を見る。


「どういう意味?」


「次を選べるってことだと思った。薪を買うか、布を回すか、窯を直すか。赤字だと、選ぶ前に削るしかない」


 その言葉は、驚くほど正しかった。


 レティシアはほんの少しだけ目を細めた。


「ええ。その通りです」


「お嬢様に言わせると、やっとそこかって顔ですね」


「少しだけ」


「ひどいな」


「でも、十分よ」


 その“十分”に、ルカは少し驚いたような顔をした。


 風が吹く。春の匂いがする。


 ローゼンベルク領の空は、まだどこにでもある田舎の空だ。劇的に美しくなったわけではない。ただ、以前より少しだけ、見上げやすくなった気がする。


「ルカ」


「はい」


「もし次に、大きな綻びが見つかったら」


「はい」


「先に言いなさい」


 そう言うと、彼は一拍遅れて笑った。


「命令ですか」


「忠告です」


「じゃあ、お嬢様も」


「何かしら」


「一人で抱え込む前に言ってください」


 レティシアは返事をしなかった。


 けれど、それが黙ったまま否定するほど愚かな約束ではないことくらい、自分でもわかっていた。


 屋敷へ戻る頃には、空はすっかり藍色になっていた。


 執務室へ入ると、開いたままの新年度帳簿がまだ机の上にある。灯りの下で見る黒字の数字は、昼間と少しも変わらない。小さい。慎ましい。だが確かだ。


 レティシアは椅子へ座り、その頁をそっと撫でた。


 悪役令嬢。


 婚約破棄。


 赤字領地。


 断罪、監査、裏切り、冬支度、再建。


 長い道のりだった。


 だが、帳簿はまだ終わらない。


 終わらないからこそ、未来がある。


「お嬢様」


 いつの間にか入ってきたマルガレーテが、静かに声をかける。


「お休み前に、今日の収支を閉じますか」


「ええ」


 レティシアはペンを取った。


 さらさらと音がする。数字を書き入れる音。綻びのない、一日の終わりの音。


 これはもう、破滅を回避するための帳簿ではない。


 守り、育て、選び直していくための帳簿だ。


 そのことが、何より嬉しかった。


 だからレティシアは、誰に聞かせるでもなく、小さく笑った。


「さて」


 新しい頁をめくる。


「明日の分も、つけましょうか」


 それはきっと、この物語の終わりにいちばんふさわしい言葉だった。

____________________

お知らせ


新しく、現代日本の抱える問題をテーマにした、物語を目指します。

フィクションの物語を楽しんでいただければと思います。


https://ncode.syosetu.com/n9484mx/


毎日12:00更新予定で頑張ります。


こちらも、応援、よろしくお願いいたします。

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