第49話 私の人生は私が決める
最終監査が終わり、王都に戻った翌日、王城の空気は奇妙な静けさに包まれていた。
ざわめきはある。噂も飛ぶ。ローゼンベルク侯爵家の名、不正契約、独占供給、二重請求。王都という場所は、ひとつの事件を決して静かには消費しない。だが、前夜まで広間を満たしていたあの張り詰めた緊張は、いったん形を失っていた。
決着はついた。
少なくとも、帳簿の上では。
だからこそ、今は別のものが近づいてくる気配があった。
王城の外れにある小さな中庭は、春にはまだ遠い季節の淡い光を受けて静まっている。石造りの回廊に囲まれ、噴水の水音だけが柔らかく響くそこへ、レティシアは呼び出された。
呼んだ相手が誰かは、聞くまでもなかった。
アルノルトは、中庭の奥で一人待っていた。
最終監査の広間の入口に立っていた時と同じ、覚悟を決めた顔。だが今日は、それにどこか晴れやかなものが混じっている。自分の過ちを認め、ひとつ区切りをつけた人間だけが持つ軽さだろうか。
「来てくれてありがとう」
「ご用件を伺います、アルノルト殿下」
レティシアは距離を詰めすぎず、いつもの礼を保ったまま答えた。
彼女の声に棘はない。だが、昔のような揺らぎもない。
アルノルトはその声を聞いて、一度だけ目を伏せた。
「監査の件……いや、それだけではない。私は君に、きちんと向き合わなければならないと思った」
「先日、謝罪は伺いました」
「それでも足りない」
即座に返ってくる。
「足りないまま終わらせたくない」
その言い方に、レティシアは一瞬だけ目を細めた。
足りない、という言葉の重みを、今の彼はどこまで理解しているのだろう。けれどそれを問うつもりはなかった。相手が言葉を選び直す姿勢そのものは、以前とは違う。
「私は、君の価値をようやく見た」
アルノルトは真っ直ぐに言った。
「いや、本当はずっと見えていたのだと思う。見えていたからこそ、怖かった。君は私より現実を見ていた。数字を読み、無駄を見抜き、人を守るための仕組みを考えていた。私はそんな君の前で、王太子として、男として、ひどく未熟だった」
風がひとすじ抜け、回廊の旗をわずかに揺らす。
中庭は静かだ。だからこそ、アルノルトの声は少しも誤魔化せない。
「私は、もう一度やり直したい」
ついにその言葉が来る。
レティシアは予想していた。先日の謝罪、最終監査の広間の表情、そのどちらからも、この流れは読めていた。だが、実際に口にされると、それは思った以上に軽く聞こえた。
やり直す。
たったそれだけで、これまでのすべてを再計算できると思っているのだとしたら、やはり彼はまだ甘い。
「君の真の価値に、私はようやく気づいた」
アルノルトは続ける。
「婚約も、立場も、最初からやり直したい。今度は私は、君を正しく――」
「アルノルト殿下」
レティシアは静かに遮った。
彼の声が止まる。
感情的にはならない。怒りも見せない。ただ、その先へ進ませないために必要な分だけ、言葉を置く。
「貴方との婚姻は、将来的な原価とリスクに対して得られる価値が見合わない『過剰投資』でした」
中庭の空気が、わずかに凍る。
アルノルトは一瞬、何を言われたのかわからないという顔をした。だが、レティシアは続ける。
「過去の時点では、政略的合理性があったのかもしれません。王太子妃候補としての教育も、侯爵家にとっての利益も、帳簿の上では成立していたのでしょう」
でも、と心の中では続けない。
それは言葉にしなくても伝わる。
「ですが実際には、過剰でした。投じたものに対し、得られたものが少なすぎた。むしろ損失の方が大きい」
アルノルトの喉が動く。
侮辱のつもりではないことは、言い方でわかるだろう。だが慰めでもない。これはレティシアなりの、最も正確な結論だった。
「わたくしはもう、自分の帳簿をつけます」
その一言が落ちた瞬間、何かが本当に終わったのだと、レティシア自身が感じた。
婚約破棄から始まった物語の、最後の残滓のようなもの。誰かに選ばれること、誰かの隣に置かれること、自分の価値を外側の札で測ろうとする視線。そうしたもの全部との決別。
アルノルトはすぐには言葉を返せなかった。
悔しさではない。傷つきもあるだろう。だが、それ以上に、初めて自分が“選ばれない側”として現実を突きつけられた戸惑いの方が大きいように見えた。
「……それが、君の答えか」
「はい」
レティシアは迷いなく頷いた。
「感情で申し上げているのではありません」
それを強調する必要があると思った。未練ゆえの反発でも、意趣返しでもない。冷えた決算として見ても、もう戻る理由はどこにもないのだと。
「あなたがご自分の未熟さに向き合えたことは、意味があると思います」
レティシアは言う。
「ですが、そのことと、わたくしの人生は別です」
アルノルトは長く息を吐いた。
その表情に、ようやく自嘲のようなものが浮かぶ。
「最後まで、具体的だな」
「曖昧にしてよいことではありませんもの」
返した声に、自分でも驚くほど揺らぎはなかった。
アルノルトはしばらくレティシアを見ていたが、やがて小さく頷く。
「……負けたよ」
勝敗の問題ではない、と言う気はなかった。
彼にとっては、そう整理するしか受け止め方がないのかもしれない。それでも、以前のように他人へ物語を押しつける形ではなく、自分でそれを飲み込んでいるだけましだった。
「元気で」
その言葉を最後に、アルノルトは背を向けた。
レティシアは追わない。
追う理由がないからだ。
中庭に残されたのは噴水の音だけで、胸の内は不思議なほど静かだった。解放感とも違う。ただ、ようやく自分の人生の帳簿から、ひとつ大きな未収項目が消えたような感覚がある。
「……終わりましたか」
控えめな声が、回廊の影から聞こえた。
振り向くと、ルカが柱の脇に立っている。見張り役をしていたのだろう。気配を消していたつもりでも、この男はそういう時だけ妙に目ざとい。
「ええ」
レティシアは短く答えた。
「きれいに切りましたね」
「切らなければ、次へ進めませんもの」
ルカは少しだけ口元を上げる。
「おれ、あの人の顔、ちょっと見たかったです」
「趣味が悪いわ」
「否定はしません」
そう言いながらも、彼の声はどこか軽い。
レティシアはふと、自分が長いあいだ胸の奥へ沈めてきたものに触れかけた。役に立たなくなった瞬間、空になる気がしていた。パン屋を始めた頃から続いていた、あの自己否定の芽。結果を出し続けなければ、自分には何も残らないのではないかという恐れ。
今も完全に消えたわけではない。
だが、製粉所で立ち上がった人々を見た。即席の支払い机で、信頼のこもった受領印を見た。父の承認も得た。誰かに選ばれることとは別の場所で、自分はすでに立っていたのだと、少しだけ信じられるようになっている。
「ルカ」
「はい」
「わたくし、何かを成せなくなったら、空になる気がしていました」
口に出してみると、思ったより静かな声だった。
ルカは驚いたようには見せず、ただ待つ。
「ですが今は、そうではないと知っています」
それだけを言うのに、こんなにも長い時間がかかった。
ルカはしばらく黙ってから、小さく頷いた。
「なら、十分です」
慰めも過剰な言葉もない。
それがありがたかった。
中庭を出る時、レティシアはもう一度だけ振り返った。誰もいない石畳と、弱い水音。そこに残っているのは、終わった話の気配だけだ。
私の人生は私が決める。
それを、ようやく自分の口で言えたのだと思った。




