第46話 火の消えた製粉所
翌朝、製粉所の前には、思っていた以上の人が集まっていた。
夜のうちに応急確認だけは済ませたが、水車の軸も歯車も、簡単に直る損傷ではない。普通なら、専門の工匠を待ち、数日かけて部材を揃え、それから再稼働を目指すところだ。
だが今のローゼンベルク領には、その“普通”を待つ余裕がない。
止まれば、粉が止まる。粉が止まれば、パンが止まる。冬支度の最中に、それはそのまま生活の断絶へつながる。
レティシアが現場へ着いた時、職人頭ハンスがすでに腕を組んで損傷箇所を見上げていた。頑丈な体躯に、煤けた作業着。無口で気難しいと評判の男だが、その目は逃げていなかった。
「見立ては」
レティシアが問う。
「きれいに壊されてる」
短い答え。
「軸受けは替えがいる。歯車は応急で継げるかもしれんが、精度は落ちる。水流の制御も見直しだ」
「時間は」
「昼夜回して、最短で……」
そこでハンスは言葉を切った。
視線の先には、集まった人々がいる。
農夫。荷運び。パン屋。洗濯場の若い衆。縫製場の手伝い女たちまで混じっていた。頼んだ覚えのない顔も多い。
「何だこれは」
ルカが小声で呟く。
最初に前へ出たのは、オットーだった。
「粉が止まったら、うちの窯も終わりだ」
腕を組み、いつものぶっきらぼうな声で言う。
「だから来た。文句あるか」
続いて、農夫のトーマスが帽子を握ったまま口を開く。
「水路の泥上げなら俺らでもできる。木材運びもな」
「女手もいりますよ」
そう言ったのはベルタだった。洗濯係長らしく、きっぱりした調子だ。
「紐を綯うのも、布で仮留めするのも、見てるだけじゃないんで」
「縫製場から針金の代わりに使える留め布、持ってきたよ」
イーダの声も混じる。
レティシアは一瞬、言葉を失った。
これまでの自分なら、まず人を下がらせ、危険だからと線を引き、自分ひとりで背負える形へ作り替えようとしたかもしれない。そうして管理できる範囲に落とし込み、足りないままでも計算だけは崩さぬように動いたはずだ。
けれど今、目の前にあるのは別の形だった。
私財を切り、賃金を払い、必要なものを隠さず配った。その姿を見た者たちが、自分たちの側から来ている。
誰かに命じられたからではなく。
「お嬢様一人に背負わせるな!」
後ろの方から、誰かがそう叫んだ。
「今度は俺たちが動く番だ!」
呼応するように、ざわめきが広がる。
熱のあるざわめきだった。怒りでも不安でもなく、動く前の人間が持つ熱。
レティシアはその光景を見渡した。
かつて自分を冷たい悪役令嬢と見ていた者たち。噂だけを信じ、距離を取っていた者たち。その顔が今は、ひとつも“見物人”の顔をしていない。
評価が変わった、などという軽い言葉では足りない。
これは、立場の反転だ。
「……ありがとうございます」
胸の奥で何かが静かに揺れたが、声は崩さずに済んだ。
「では、仕事を分けます。感情で集まったのなら、数字で回しましょう」
ルカが横で、わずかに口元を上げる。
「そう来ると思った」
レティシアはすぐに指示へ移った。
「トーマスたちは水路。泥と流木の除去を最優先。ハンスは軸受けと歯車の見立てを続けて。オットーは木工に慣れた者を選んで補助へ。ベルタとイーダは布と紐の仮留め班。怪我人が出た時のために薬草係も置きます」
指示が飛ぶたび、人が動く。
迷いのない動きだった。すでに誰も、レティシアの言葉を“お飾りの令嬢の指図”とは受け取っていない。
作業はすぐに苛酷さを増した。
水路には思った以上に土砂が入り込み、流木が引っかかっていた。軸受けを外すだけでも大人二人がかり。歯車の欠けた部分を削り直し、合うように継ぐには、ハンスの怒声と職人たちの経験が要る。
オットーは大きな手で木材を押さえながら怒鳴る。
「そこじゃねえ、角度だ角度! パン切るより難しいんだぞ!」
「親方、今それ言いますか!」
「うるせえ、手を動かせ!」
ベルタは濡れた布を腰に巻きつけ、仮留め用の布帯を次々渡していく。
「イーダ、それじゃ緩い! 冬の洗濯物より重いんだよ!」
「わかってる、手は抜いてないよ!」
声が飛ぶ。水が跳ねる。木が軋む。煤と泥で誰の身なりも区別がつかなくなっていく。
その中を、レティシアも止まらず歩いた。記録板を持ち、必要な部材と人手を数え、足りない箇所へ回す。暖かい部屋の机で命令するのではない。現場の泥の匂いの中で、今どこが詰まっているかを見ていた。
日が傾いても、誰も帰ると言わなかった。
夕方には灯りが持ち込まれ、夜には湯と簡単な握り飯が配られる。オットーのところで焼いた固いパンまで届いた。パン屋本人が復旧作業にいるのだから妙な話だが、それでも誰かが窯を回してくれているのだろう。
「交代で食べて!」
ベルタが怒鳴る。
「倒れたらそれこそ終わりだよ!」
徹夜の作業。
それは美談ではなく、ぎりぎりの現実だった。失敗すれば冬の供給が途切れる。だから誰も手を抜けない。
真夜中を過ぎた頃、ハンスが水車の軸を見上げて低く言った。
「……回すぞ」
一斉に人の動きが止まる。
仮継ぎした歯車。調整し直した水路。応急の固定具。どれも完璧ではない。だが、今は完璧さより動くことが要る。
水門が少しずつ開かれる。
冷たい流れが水路へ落ち、羽根を押す。
最初は、ぎ、と鈍い音だけだった。
次いで、もう一度。
歯車がぎこちなく噛み合い、重たい回転が生まれる。
誰も息をしていないような静けさの中で、水車はゆっくり、けれど確かに回り始めた。
火の消えた製粉所に、ようやく音が戻る。
小さな歓声が上がったかと思うと、それはすぐ大きく広がった。泥だらけの顔で笑う者、肩を叩き合う者、その場に座り込む者。オットーなどは「よし!」と叫んだあとで、急に咳き込んでいた。
レティシアはその音を、しばらく黙って聞いていた。
ひとりでは戻せなかった。
本当に、そうなのだと、回り始めた歯車が教えてくる。
その時だった。
製粉所の入口の方で、馬のいななきと車輪の音が重なる。
ルカが振り返り、顔をしかめたあと、すぐに目を見開いた。
「……来た」
夜明け前の薄明かりの中、道の先に王家の紋章を掲げた馬車が止まる。
降りてきたのは、灰色の外套をまとった数人の官人たちだった。先頭には見覚えのある、感情の薄い横顔。
フリードリヒ・アーレンス。
王国監査院の最終監査団が、ついに領地へ到着したのだった。




