第45話 追い詰められた財務官
製粉所へ駆けつけた時、火そのものは大きくなかった。
だが、事態はそれで済むものではなかった。
煙を上げていたのは、製粉所の裏手に積まれていた乾燥材の一部だった。誰かが火をつけ、騒ぎの間に別の箇所へ手を入れたのだろう。消し止められた後に露わになったのは、焼け跡より厄介な現実だった。
水車の軸が外されている。
歯車の一部が破損し、伝動具も抜かれていた。
ただの失火ではない。明らかな工作。しかも、機械の構造を知る者が手を入れた痕跡。
「ちくしょう……」
ルカが低く吐き捨てる。
「火で目を引いて、その間に中身を壊したんだ」
製粉所の中には、焦げた木の匂いと、止まった機械特有の不気味な静けさが満ちていた。普段なら響いているはずの水音と回転音がないだけで、建物が別物のように見える。
オットーも呼ばれて来ていた。パン屋の親方として、小麦粉の供給停止がどういう意味を持つか誰より早く理解している顔だ。
「これ、いつ直る」
誰に向けたともつかぬ問い。
答えられる者はいなかった。
レティシアは破損箇所を見回した。
軸受け。歯車。固定具。油差しの位置。最近触られた木屑の散り方。頭の中で損傷の順序を追う。だが見れば見るほど、ただの事故ではないとわかる。
「ダミアン」
名を口にしたのはルカだった。
「あいつだ。カミルが逃げるのに合わせて、証拠も現場もぐちゃぐちゃにしやがった」
レティシアはすぐには答えなかった。
その頃には、屋敷から使いが戻ってきていた。
「お嬢様、ダミアン様が書庫と旧会計室の閲覧許可を求めております。過去資料の整理と申して」
ヨアヒムの報告に、ルカが「整理だと?」と顔をしかめる。
同時に、レティシアの中で線が一本つながった。
カミルの逃亡。製粉所への工作。過去資料の“整理”。
全部、同じ方向を向いている。
「屋敷へ戻ります」
「でもこっちは」
「ここは職人頭に応急確認を任せましょう。わたくしは今、別の火を止めなければならない」
屋敷へ戻った時、旧会計室の前は異様な静けさに包まれていた。
廊下にまで、焦げた紙の匂いが漂っている。
レティシアが扉を開けるより早く、中からダミアンが姿を現した。
相変わらず整った服装。煤ひとつついていない。まるで今も王都の舞踏会の延長にいるような顔で、穏やかに一礼する。
「これはこれは。お早いお戻りで」
「何をしているのですか」
「整理でございますよ」
ダミアンは微笑んだ。
「正式監査が始まる以上、不要な重複控えや古い下書き類は、誤解を招かぬよう整えておく必要があるでしょう」
「焼却が、ですか」
「保存に値しない紙もございますから」
その時、旧会計室の奥から、ルカが乱暴に踏み込んだ。
彼の手には、半ば焦げかけた紙束がある。
「保存に値しない?」
声が低い。
「お前、自分で何言ってるかわかってるか」
ダミアンの眉が、ほんのわずかに動く。
「ルカ」
「今さら名前を呼ぶな」
レティシアは二人の間に立つように一歩進んだ。
部屋の隅には火鉢。まだ赤い炭が残っている。その脇には焼きかけの決裁文書、引き裂かれた補助帳、そして抜き取られた綴じ紐。
証拠破棄。
言い逃れようのない光景だった。
「監査が始まる前に、都合の悪いものを消すつもりでしたか」
「誤解なさらないでいただきたい」
ダミアンは相変わらず礼儀正しい。
「数字はしばしば、見る者によって不要な混乱を招きます。整えておくことは、むしろ親切でしょう」
その言葉に、ルカが笑った。
乾いた、怒りの混じる笑いだった。
「まだそれ言えるのか」
彼は懐から、厚みのある帳面を取り出した。
綺麗な公用帳ではない。急いで綴じた写し帳簿。筆圧の強い控え。端には何度もめくられた跡がある。
「おれが、最初から何も写してないと思ったか」
ダミアンの笑みが、ごくわずかに止まる。
「……何です、それは」
「写しだよ。お前らが消したら困る分の、全部じゃないけどな」
ルカは机の上へ帳面を叩きつけた。
「告発に一度失敗した時、学んだんだ。正本だけ信じるなってな」
その一言に、レティシアはルカを見た。
彼の悔しさは知っていたつもりだった。だが“失敗したからこそ最初から写していた”という執念までは、今ようやく形になって見えた。
「こちらもございます」
さらにルカが差し出したのは、別の薄い束だった。
「前任会計官ハインリヒの残した記録だ。整理途中の覚え書きと照合控え。あの人、途中で追い出されたけど、全部諦めてはいなかった」
ハインリヒ。
かつて領地の数字の歪みに気づき、しかし表立っては何も変えられなかった前任会計官。その残した生の記録が、今ここで机上に戻ってくる。
ダミアンの目が、初めてあからさまに細くなった。
「なるほど。用意が良い」
「お前が用意よかったからな」
ルカの返しは短い。
レティシアは写し帳簿を開いた。そこには、これまで見てきた公的帳簿よりずっと荒い、現場のままの数字が並んでいる。出荷数、実搬入、立替、持ち戻り、差分。取り繕う前の、生の数字。
数字は見せ方次第。
かつてダミアンが語った理屈が、皮肉な形で裏返る。
「見せ方ではなく、積み上げ方ですね」
レティシアが静かに言う。
「現場で積み上がった数字は、焼けば消えると思っていらしたのかしら」
「証拠能力に乏しい写しで、どこまで」
「乏しくありません」
レティシアはすぐに遮った。
「百貨祭の控え、宮廷調達記録、領地出荷帳、そしてハインリヒの照合記録。すでに複数の経路で裏が取れています」
ダミアンは黙る。
その沈黙の隙へ、ルカが最後の一枚を差し出した。
「これ、見ろよ」
それは決裁文書の写しだった。補記の脇に、複数月にわたって繰り返し現れる略号と補助印。そして、それに対応する出荷の差分。
「お前が直接書いてないところも追えるように、全部つないである」
ルカの声は震えていない。
「隠し通せると思ったかもしれないけど、現場の数字は人間よりしつこい」
冷たい照合。
それが、ダミアンの逃げ道を一つずつ塞いでいく。
部屋の中は静かだった。火鉢の炭が小さく鳴る音だけがする。その中で、初めてダミアンの微笑がわずかに薄くなった。
「……見事です」
敗北を認めたわけではない。だが、軽くいなす段階が終わったことだけは、その声でわかる。
「若いお二人が、ここまで執念深いとは」
「執念じゃない」
ルカが吐き捨てるように言った。
「当たり前の記録を、当たり前に残しただけだ」
ダミアンは小さく息を吐いた。
それでも、完全には崩れない。さすがというべきか、忌々しいというべきか。
「ですが」
彼は乱れた紙束の向こうで、また微笑んだ。
「私を倒しても、止まった機械は動かない」
製粉所。
その言葉の指す先は明らかだった。
「現場を回す人間を悪として切り落とせば、それで終わるとお思いですか」
ダミアンの声は穏やかだ。
「帳簿は整うかもしれない。ですが、止まった水車は、正しさだけでは回りませんよ」
言い残し、彼はそれ以上何も言わなかった。
その不敵な笑みだけを置いて。
レティシアは机上の写し帳簿へ手を置いたまま、その言葉を受け止める。
悔しいほど、半分は正しい。
不正を暴くだけでは冬は越せない。帳簿を取り戻すだけでは、粉は挽けない。
だからこそ、次に立て直すべきは現場だ。
窓の外は、すでに夕闇へ沈みかけていた。止まった機械の向こうで、冬だけが容赦なく近づいている。




