第44話 王太子の謝罪、商人の逃亡
冬支度のための支払いと換金がひとまず一区切りついた翌日の午後、レティシアは執務机の前で、受領書の束を順に見直していた。
薪。麦粉。塩。補修布。洗濯場の賃金。縫製場の立替分。
換金袋の重みはもうほとんど残っていない。それでも、紙の上には確かに“繋いだもの”が残っている。火が消えないように。明日のパンが焼けるように。子どもの袖が短いまま冬を迎えないように。
扉が叩かれたのは、ちょうど補修布の数量を書き留め終えた時だった。
「お嬢様」
取り次ぎに立った侍女の声が、いつもより少し硬い。
「王都より、アルノルト殿下がお見えです」
ペン先が一瞬だけ止まる。
けれど、それだけだった。
「……お通しして」
驚きがなかったわけではない。だが、正式監査が始まった今、彼が来る理由などいくつも考えられる。問題は理由ではない。その場で何を言うかだ。
アルノルトは、以前より少しだけやつれて見えた。
礼装ではなく、訪問用の落ち着いた衣服。けれど立ち姿の端々には、王太子として染みついた整え方が残っている。人前で崩れぬための姿勢。感情より先に形を保とうとする癖。
それが今は、少し痛々しく見えた。
「忙しいところ、すまない」
「お忙しいのは殿下も同じでしょう」
レティシアが勧めた椅子へ、アルノルトはすぐには座らなかった。立ったまま、部屋の中央で一度言葉を探すように黙る。
沈黙。
長くはない。だが彼にしては珍しい種類の間だった。
「……謝罪に来た」
ようやく出た言葉は、飾りがなかった。
レティシアは黙って待つ。
「王城での聴聞のあと、私はようやく、自分が何をしていたのかを正面から見た」
アルノルトの声音は低い。
「君の言葉を聞かなかったことだけではない。数字を見ようとしなかったことでもない。私は……君の有能さを認めたくなかった」
その言葉に、レティシアはほんの少しだけ目を細めた。
言い訳の入り口ではないことが、声でわかる。苦し紛れに整えた言葉ではなく、ようやく自分の内側へ辿り着いた者の、不格好な告白だった。
「君はいつも具体だった」
アルノルトは続ける。
「私はそれを、冷たさだと思い込もうとした。そうでなければ、私の方が劣っていると認めることになるからだ」
会計報告室での問いが、ふと蘇る。
**君は、なぜいつもそうまで具体的なんだ**
あの時の戸惑いは、今こうして言葉になるのかと、レティシアは静かに見ていた。
「“悪役令嬢”という物語に、私は逃げていたのだと思う」
アルノルトはレティシアを見た。
逸らさない目だった。そこだけは評価してよい。
「冷たく、傲慢で、思いやりのない婚約者。そういう役を君に押しつければ、私は自分の未熟さを見なくて済んだ」
言葉が落ちるたびに、部屋の空気は少しずつ重くなる。
謝罪というものは、受ける側より、口にする側の方が楽になることがある。ずっと抱えていたものを吐き出してしまえば、それで前へ進んだ気になれるから。
だからレティシアは、ここで安易に慰める気はなかった。
「それで」
静かに問う。
「今は、ご自分の未熟さに向き合えたのですか」
アルノルトがわずかに息を詰める。
責めたわけではない。ただ、確認しただけだ。
「……完全ではない」
やがて彼は答えた。
「だが、向き合わねばならないとわかった」
「そうですか」
レティシアはそれ以上追わなかった。
「ご自分の未熟さに向き合えたのなら結構です」
淡々とした返答だった。
許しでも、慰めでもない。ただ、彼がようやく自分の課題を自分のものとして引き取ったなら、それはそれでよいというだけのこと。
アルノルトの表情がわずかに揺れる。
もっと怒られるか、冷たく切り捨てられるか、あるいは情けを向けられるか。そのどれかを想定していたのかもしれない。けれどレティシアは、そのどれにも乗らない。
ここで必要なのは、彼の感情の始末ではないからだ。
「……君は、本当に変わったな」
「いいえ」
レティシアは首を振る。
「見ようとしなかった方が、ようやく見ただけです」
その時だった。
廊下の向こうで、慌ただしい足音が響いた。控えめに整えられていた屋敷の気配を、急を告げる足が踏み破る。
扉が叩かれる。
「お嬢様!」
ヨアヒムの声だった。普段なら絶対に崩さぬ老執事の声音に、明らかな切迫が混じっている。
「入りなさい」
扉が開く。
ヨアヒムの後ろに、ルカもいた。息が上がっている。走ってきたのだろう。
「王都から急報です」
ヨアヒムが一歩進み出る。
「ドレスナー商会のカミルが、昨夜のうちに姿を消しました」
空気が変わる。
アルノルトの顔から、謝罪の残滓が一気に消えた。
「逃げたのか」
王太子の声に戻った声音で問う。
「はい。重要書類の一部を持ち出した可能性がございます。監査院からも追って連絡が入るとのことですが……」
ヨアヒムがそこまで告げた瞬間、ルカが言葉を継いだ。
「それだけじゃない」
彼の顔は土埃で汚れていた。
「領地の北側から煙が上がってる。製粉所の方角です」
製粉所。
その一語だけで、レティシアの背筋を冷たいものが走る。
小麦粉供給の心臓部。冬を前に、止まってはならない場所。
「火の手は」
「まだ大火かはわかりません。でも、ただごとじゃない」
アルノルトが何か言いかけた気配があった。だが、レティシアはもうそちらを見なかった。
謝罪の時間は終わった。
決着はまだ遠い。敵は最後まで、帳簿の上だけでは終わらせる気がないらしい。
レティシアは立ち上がる。
「ヨアヒム、現場の人数確認を。ルカ、先に走って状況を見て。わたくしも向かいます」
「お嬢様、危険です」
「危険でない冬支度などありません」
言い切って、レティシアは机上の受領書を閉じた。
守ると決めたものの火が、今度は別の形で試されようとしている。
窓の外、北の空の先に、細く不穏な煙が立ちのぼっていた。




