第43話 冬支度と最後の資金
倉の冷えた空気の中で、その決断は驚くほど静かに定まった。
まだ口にはしない。けれど、もう引き返せない。
不正を暴いた先で、何も守れなければ意味がないのだから。
*
その夜、レティシアは自室の机に冬備蓄記録を広げたまま、長く頁をめくっていた。
紙の上に並ぶ数字は、感情を持たない。薪束の不足。塩蔵肉の不足。乾豆の不足。冬衣の補修布も、炭も、例年の水準には届かない。監査が正当であることと、冬支度が間に合わないことは、何ひとつ矛盾しない。ただ両方が、領地にとって不都合な事実であるだけだった。
扉の外で控えめな足音が止まる。
「お嬢様、夜分でございます」
「入りなさい、マルガレーテ」
侍女頭は静かに入室すると、まず机上の記録に目を留め、それからレティシアの顔色を見た。問いただす前に観察するのは、いつもの癖だった。
「お休みになるには、まだ早うございますか」
「ええ。まだ確認が終わっていません」
「確認、でございますか」
その言い方だけで、マルガレーテは数字の確認だけではないと察したらしい。余計な同情を見せず、ただ机の脇へ進み出る。
レティシアは冬備蓄記録を閉じ、引き出しから別の帳面を取り出した。濃紺の革表紙。金の箔押しは擦れて鈍くなっている。
「宝飾品目録です」
マルガレーテの指先が、ほんのわずかに止まった。
「……お嬢様」
「侯爵家の予算は動きません。監査対象です。領の通常会計も、いま無理に触れれば余計な疑義を招く。ならば、わたくし個人の所有物を換金します」
「おやめくださいませ」
間髪入れない制止だった。珍しいほど早い。
「宝飾は侯爵令嬢のお立場そのものでございます。冬を越すために削るには、あまりに重い」
「重いから残す、という理屈は通りません」
レティシアは静かに目録を開いた。耳飾り、首飾り、ブローチ、季節ごとの夜会用装身具。贈答の由来と石数、台座の地金まで、整然と記されている。
「使わないものから手放します。由来の重い品、家名に紐づく品、証書の曖昧なものは除外。現金化しやすいものを優先する」
「それでも、でございます」
「確認なさったのですか。薪の残数を。厨房の塩を。裁縫部屋に回せる厚布を」
マルガレーテは答えない。
答えないことが、答えだった。
レティシアは目録の上に指を置いたまま、しばらく言葉を選んだ。怒っているわけではない。ただ、もう曖昧にしてはいけないと分かっていた。
「二度と、足りるはずのものが足りないまま冬を越させたくないの」
その声音は低く、けれど揺れなかった。
マルガレーテの睫毛が伏せられる。しばしの沈黙ののち、彼女はごく静かに息を吐いた。
「あの冬からでございますね、お嬢様が"足りぬこと"を嫌われるようになったのは」
レティシアは目を上げた。
十歳の冬。屋敷の奥にはまだ暖のある部屋があり、食卓には皿が並んでいた。一方で、門の外では列が消えなかった。幼い目で見えたものに、名はついていなかった。ただ、配られるべきものが、正しく配られていないのだとだけ理解していた。
それを口に出したことはない。
いまも、詳しく言う必要はなかった。
「ええ」
その一言で十分だった。
マルガレーテは深く一礼した。折れたのではない。受け入れたのだと分かる動作だった。
「承知いたしました。でしたら、無駄なくお支度いたしましょう。泣いてお止めする役は、わたくしには向いておりませんので」
「助かります」
「ただし、手放す品は選びます。お嬢様が後で困られるような残し方はいたしません」
「異論はありません」
二人は机を挟み、宝飾品目録を挟んで座った。マルガレーテが保管箱を運ばせ、鍵を開ける。天鵞絨の内張りに収まった石が、燭台の火を冷たく返した。
「この真珠の三連は」
「母の嫁入り道具の一部です。除外」
「こちらのサファイアの髪飾りは」
「舞踏会で二度。以後未使用。売却候補」
「翡翠の腕輪」
「傷がある。値が落ちます」
「でしたら、まとめてではなく台座ごと査定に回した方がよろしゅうございますね」
実務的なやり取りが淡々と続く。途中でドレス戸棚も開けられた。冬物の上等な外套、夜会用の刺繍入りのドレス、流行遅れだが生地の良いもの。仕立て直しではなく売却に回す品を脇へ寄せる。
選別が終わるころには、机の端に小さな山ができていた。
マルガレーテが革の口を引き締めた袋を置く。
「換金袋でございます。査定証と控えも分けて入れられるよう、中で仕切ってございます」
「用意がいいのね」
「お嬢様が言い出される前から、嫌な予感はしておりました」
その皮肉は、いつものように礼儀正しかった。
翌朝、レティシアは売却に立ち会った。名代に任せることもできたが、自分で決めた資金の使い道を、人任せにする気はなかった。町の質預かり商は最初こそ目を見開いたが、品と証書が正確であると分かると、余計な詮索はしなかった。
ルカが横で帳面を押さえる。
「お嬢様、本当に全部やるんだな」
「全部ではありません。必要分だけです」
「必要分に見えねえ額なんだが」
「足りなければ、意味がないでしょう」
ぶっきらぼうに鼻を鳴らし、ルカは査定額を書き留めた。
換金は一度で終わらなかった。宝飾品と衣類とを分け、値の付き方を見て順番を組み替える。目先の金額だけでなく、今日中に現金として動かせるかが優先だった。
昼過ぎ、革の換金袋は見た目より重くなった。
レティシアはそのまま屋敷へ戻らず、備蓄倉と作業場へ向かった。
まず燃料商への支払いを前倒しし、止まりかけていた薪の搬入を再開させる。次に乾豆、塩、麦粉の確保分を押さえる。さらに遅配になりかけていた洗濯場と縫製場の賃金を、帳面と引き換えに手渡しで処理した。
「確認してください。名前、額、日付。違いがあればその場で言いなさい」
そう告げて、彼女は机代わりの木箱の前に立ち続けた。
洗濯場ではベルタ・クラインが列の先頭で帳票を受け取り、金額を見て眉を上げた。
「……本当に、今月分きっちり?」
「不足分も含めています。先月の補修布の立替も」
ベルタはレティシアを見た。いつものような、貴族に向ける刺のある目ではなかった。測るように見て、それから現実を認める人間の顔になる。
「なら、今晩から人を減らさず回せるね」
「そのために持ってきました」
「口だけじゃなかったってことかい」
感心とも皮肉ともつかない声音だったが、ベルタは金をしまうと、後ろの者たちに向かって「順番だよ、控えをなくすんじゃないよ」と声を張った。仕事を回す者の声だった。
縫製場の脇では、イーダ・ノルデンが受領印を押し、深く頭を下げた。
「……冬布の縫い足し、続けられます」
「ええ。子ども用を優先して進めて」
「はい」
イーダはそこで一度迷い、しかし言った。
「奥様方は、よく“もう少し待て”とおっしゃいました。けれど待てば、子どもは寒くなります」
レティシアは頷いた。
「知っています」
短いやり取りだった。だがイーダはそれ以上いらないと分かったのか、口を結び、強く頷き返した。
備蓄倉の前では、搬入された薪束を前にオットー・ブレンナーが腕を組んでいた。パン窯を止めるかどうか、ぎりぎりまで計っていた顔である。
「おい、嬢ちゃん」
以前なら無礼に響いた呼び方も、いまは妙な据わりの良さがあった。
「燃料商が現金受けて態度を変えやがった。明日から搬入増やすそうだ」
「それなら窯は止めずに済みますか」
「半日ならな。全部じゃねえが、朝の焼き分は守れる」
オットーはそこで言葉を切り、レティシアの持つ換金袋を見た。軽くなった口元、固く結ばれた紐。察するには十分だったらしい。
「……あんた、自分のもん売ったな」
ルカが眉をひそめたが、レティシアは否定しなかった。
「冬を越すための資金にしました。それだけです」
「それだけ、ねえ」
オットーは大きな手で頭を掻き、ふんと息を鳴らした。
「噂じゃ、冷てえ悪役令嬢だなんだって聞いてたが」
「噂は自由です」
「だが、薪は嘘つかねえ。粉も賃金もだ」
武骨な声音のまま、彼は少しだけ姿勢を正した。
「明日の分、多めに焼く。配る先はそっちで決めろ。無駄にはしねえ」
その申し出は協力であり、事実上の信任だった。
夕刻、屋敷へ戻るころには、換金袋の重みはかなり減っていた。代わりに、受領書と控えが増えている。レティシアはそれを机に並べ、支払先ごとに分けた。
マルガレーテが温め直した茶を置く。
「お顔色はよろしゅうございませんが、無茶をなさった方の顔ではございませんね」
「必要なことをした顔、という意味なら、その通りです」
「結構でございます」
彼女は受領書の端を揃えながら、ふと目を細めた。
「本日、お嬢様をお見かけした者が多うございました。明日にはいくつか噂も変わりましょう」
「変わらなくても構いません」
レティシアは冬備蓄記録の空欄に、新しい数字を書き入れた。薪、麦粉、塩、補修布、支払済み賃金。まだ十分とは言えない。穴は埋まりきっていない。監査停止が解ける保証もない。
それでも、昨日よりは先へ進んでいる。
「好かれるためにやったのではありません」
「存じております」
「ただ」
ペン先が止まる。
窓の外では、早い冬の暮色が領地を静かに覆い始めていた。厳しい季節はまだこれから来る。けれど今日、彼女の手から出ていった金は、確かに誰かの明日の火になる。
「守れる形に、少し近づいただけです」
マルガレーテは何も大げさなことは言わず、ただ一礼した。
「その少しを積み上げるのが、お嬢様のお仕事でございましょう」
レティシアは答えず、受領書の束を閉じた。
最後の資金は減った。だが帳簿の上には、失った額だけでなく、つなぎ留めたものも残る。冬支度はまだ足りない。それでも、足りぬまま諦める段階では、もうなくなっていた。




