第42話 領地閉鎖の命令
翌朝、ローゼンベルク侯爵家の空気は、妙に整いすぎていた。
誰も大声を出さない。廊下を行き交う使用人たちの足音まで、いつもより抑えられている。前夜の書斎で何があったのか、細部まで知る者はいなくとも、家の中心で何かが決定的に軋んだことだけは伝わっているのだろう。
そんな静けさを破ったのは、一通の公文書だった。
王国監査院の封蝋。灰青色の厚手の紙。受領印の押された外封を、執事ヨアヒムが自らレティシアのもとへ運んできた時点で、軽い知らせであるはずがなかった。
「お嬢様」
ヨアヒムの声は低く、いつも以上に余分がない。
「監査院より、至急確認を要する文書が」
レティシアは応接机の前で封を切った。
中にあったのは、交易停止命令書だった。
王国監査院の名において、ローゼンベルク侯爵領全体に対し、一時的な領内外交易の停止を命ずる――。記された文言は簡潔で、冷たい。理由は、不正会計と物資流通の実態解明が終わるまで、証拠保全と追加流出防止のため。
予防的措置。
手続きとしては正しいのだろう。
だが、文面を目で追うほどに、指先が冷えていく。
「……来ましたか」
レティシアは紙を伏せずに言った。
ヨアヒムは頷く。
「はい。監査院としては当然の判断かと」
「ええ」
当然だ。
不正が物資の流れそのものに絡んでいた以上、出入りを止めなければ記録の裏付けも、現物の照合も崩される。王都から見れば妥当な処置でしかない。
だが、領地は帳簿の中だけで冬を越すわけではない。
ルカが少し遅れて部屋へ入ってきた時、レティシアはすでに命令書を開いたまま立っていた。彼は一目で只事ではないと察したらしく、机上の文面へ視線を落とす。
「……止められたんですか」
「はい。領内外の交易、一時停止です」
ルカの顔色が変わる。
「いつから」
「即日」
短い答えに、彼は舌打ちしそうになって、ぎりぎりで飲み込んだ。
「監査のため、ってやつですよね」
「そうです」
「正しいんでしょうけど……」
その先を言わなくても、意味は十分だった。
正しい。だが、正しいことと、間に合うことは別だ。
「備蓄倉を見ます」
レティシアは命令書を畳んだ。
「数字で考える前に、現物を確認したい」
ヨアヒムもルカも異を唱えなかった。すでにこの家では、彼女が帳簿と現場を一緒に見ようとする時、それが感情ではなく必要から出ていると理解されている。
屋敷裏手の備蓄倉は、朝の冷気を吸ってひんやりとしていた。
石造りの厚い壁。重い扉。中に入ると、乾いた穀物の匂いと木箱の古い香りが鼻を打つ。かつて十歳の頃、冬の気配とともに見上げた倉も、こんな匂いだったかもしれないと一瞬だけ思う。あの年は、扉の向こうにあるはずのものが、こちら側の空腹を埋めてはくれなかった。
今は、見るだけでは済まされない。
ヨアヒムが記録板を手に、倉内の在庫を順に読み上げた。
「主食用穀類、前月比で二割減。塩蔵肉、三分の一程度。乾燥豆、残量少。灯油代替の獣脂は想定量を下回っています。薪材は屋外保管分を含めても、例年の冬支度基準には届きません」
ルカが空いた棚を見て、眉をひそめる。
「思ってたより、ずっと少ない」
その言葉どおりだった。
備蓄倉は、すでに半分近く空いている。
空白の多い棚板。積まれている箱の間にできた不自然な隙間。量が減っているだけではない。補充される前提で回していた痕跡が、そのまま止められてしまったような空き方だった。
冬を前にした倉ではない。
何かが途中で断たれた倉だ。
レティシアは手近な記録板と命令書を見比べる。
命令書が正しく機能すれば、領外からの燃料、布、塩、薬草、保存食の追加搬入は止まる。領内から王都へ出すはずだった品も足止めされる。監査のためには必要な封鎖でも、生活の側から見れば、血の巡りを一時的に断たれるのと同じだ。
「冬支度の発注は」
「一部はすでに手配済みでしたが」
ヨアヒムが答える。
「停止命令が優先されれば、境で留め置かれる可能性が高うございます」
「燃料も」
「はい」
ルカが低く言った。
「食べ物もだけど、火がなきゃ終わる」
その通りだった。
冬は腹だけでなく、熱も奪う。暖を失えば、子どもと老人から先に弱る。布が足りなければ病が出る。薬草が遅れれば、それだけで越せた熱が越せなくなる。
レティシアは倉の奥まで歩いた。
半分近く空いた備蓄倉。足音が妙に響く。かつては物が詰まっていたから吸われていた音が、今は薄く反響する。その空き具合が、数字以上に現実を突きつけてきた。
「監査が正しくても、冬は待ってくれません」
ぽつりと口にすると、二人とも何も返さなかった。
返せなかったのだろう。正論だからこそ。
監査院が悪いわけではない。不正の解明には封鎖がいる。レティシア自身、その必要を否定する気はなかった。むしろ、ここで中途半端な例外を認めれば、また帳簿の影へ逃げ道ができる。
だから、争うべき相手ではない。
受け入れた上で、別の手を打つしかない。
「不服申立てはしません」
レティシアは振り返って言った。
ルカが少し目を見開く。
「いいんですか」
「監査自体は正当です。ここで止めてはいけません」
「でも、このままだと」
「だから別の方法を考えます」
声に迷いはなかった。
「監査を受けることと、領民の生活を守ることは両立させなければならない。どちらか一方では意味がありません」
ヨアヒムの目がわずかに細められる。老執事らしい慎重な沈黙のあと、静かに問うた。
「お嬢様は、何をお考えで」
「まず、今ある備蓄でどこまで持つかを正確に出します。食料、燃料、冬衣。優先順位をつけて、村ごとの不足を洗います」
「はい」
「そのうえで、交易停止の範囲に触れない形で確保できるものがないか探る。領内調達、未使用在庫、契約外の現物保全。洗い直します」
言いながら、レティシアはすでに足りないものの方を多く数えていた。
足りない。
時間も、物も、金も。
これまで不正を暴くために見てきた数字が、今度はそのまま冬を越すための残り時間に変わっていく。
ヨアヒムが持っていた別の記録板を差し出した。冬支度予算の仮一覧だ。そこには必要額の見積もりが記されている。燃料、保存食、毛布、補修材、薬草。どれも切れない。
レティシアは一目で悟った。
家の通常予算では、もう足りない。
監査対象となった時点で支出は凍る。名目の揺れる金は使えない。使うべきでもない。正当な支出として即応できる資金は限られ、その限られた分ですら冬支度の全体には届かない。
「……実質、尽きかけていますね」
ルカが呟く。
レティシアは頷いた。
資金も物資も、崖際だ。
この現実を前にして、ようやく次の一手が、選択ではなく必要として浮かび上がる。
私財。
自分の手元に残るものを切り崩すしかない。
侯爵家の名ではなく、自分個人として動かせる分。わずかでも、今すぐ形にできる金。それを冬へ回す。
倉の冷えた空気の中で、その決断は驚くほど静かに定まった。
まだ口にはしない。けれど、もう引き返せない。
不正を暴いた先で、何も守れなければ意味がないのだから。




