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婚約破棄で破滅予定の悪役令嬢ですが、赤字領地を黒字にしてみせます  作者: gachapin2223


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第41話 家名を守るための切り捨て

正式監査対象の宣言が王城で下された翌日、ローゼンベルク侯爵家の書斎には、前夜の余熱とは別種の重苦しさが沈んでいた。


誰もまだ声を荒げてはいない。だが、静けさそのものが軋んでいる。


窓は閉じられ、厚いカーテンが外の光をやや鈍らせていた。机の上には未整理の紙束が積まれたままになっている。監査院へ提出した控えの写し、王城で読み上げられた要点の抜き書き、封も切られぬままの書状。


その中央に、ゲオルクが立っていた。


呼び出したのは彼の方だった。父クラウスとレティシアを、わざわざ自分の側から書斎へ集めた。その時点で、もはや余裕のある立場ではないと知れる。普段なら、必要とあれば人を待たせ、こちらが歩いていく形を好んだ男だ。


「……座ってくれ」


ゲオルクの声は落ち着いていた。


少なくとも、そう装っていた。


クラウスは無言で椅子へ腰を下ろした。右手には手袋を持ったままだ。外したあと、そのまま置くこともできず握っている。レティシアは座らず、机を挟んで二人と向き合った。


ゲオルクはそれを見ても咎めない。ただ一度だけ目を細め、それから自分もゆっくりと机の端へ手を置いた。


「昨日の件で、家の名にどれほどの傷がつくかは、二人とももう理解しているはずだ」


家の名。


最初に持ち出したのがそれだったことに、レティシアは何の驚きも覚えなかった。ゲオルクにとっては、いつだってそうなのだ。人でも領民でも帳簿でもなく、まず家の看板が先に来る。


「正式監査となれば、外聞だけでは済まん。王都中に広まる。ローゼンベルク侯爵家が不正に関わったと、そういう形で」


「関わったのではなく、関わっていたのです」


レティシアが即座に返すと、ゲオルクは浅く息を吐いた。


「そういう言い方を今ここで争っても仕方がない」


「仕方があるから、ここまで来たのです」


「レティシア」


父クラウスが低く名を呼ぶ。


制したつもりだったのだろう。だが、その声には力がない。仲裁というより、場がさらに壊れるのを恐れて出た反射に近い。


ゲオルクはその隙へ滑り込むように言葉を続けた。


「大事なのは、ここからどう守るかだ。監査に対して、家として一貫した態度を取る必要がある」


机上の控えを指先で軽く叩く。


「責任の所在は、現場の暴走と外部の誘導に絞るべきだろう。カミルのような末端管理の不正。あるいは、ダミアンや商会側の主導。帳簿の細工も、宮廷側の二重処理も、侯爵家本体が意図していたとは言えない形にする」


クラウスの手がぴくりと動く。


だが、何も言わない。


「つまり」


レティシアは静かに問うた。


「切り捨てるのですね」


「切り捨てる、などと感情的な言葉を使うな」


「では、何と呼ぶおつもりですか」


「家名を守るための整理だ」


その言葉に、書斎の空気が一層冷えた気がした。


整理。


まただ、とレティシアは思う。


調整。便宜。補填。整理。責任を言葉の霧の中へ隠すための言い換え。ゲオルクは最後まで、それで渡り切れると思っているのだろうか。


「ダミアンは確かに深く関わっているのでしょう」


レティシアは言う。


「カミルも、現場で手を汚していたのかもしれません。ですが、独占契約書に署名したのは伯父様です。備蓄放出の指示書に名があるのも」


「それは家の継続のためだ!」


ゲオルクの声が鋭く跳ねた。


すぐに自分でそれを恥じたように、息を整え直す。だが、一度乱れた調子は完全には戻らない。


「お前はまだ若い。理屈では割り切れないことがある。家ひとつ守るには、綺麗事だけでは足りん。時には汚れ役も必要だ」


「その“汚れ役”に、領民の備蓄や善意の寄付まで含めたのですか」


「結果だけを見て断じるな!」


「結果のために記録を見ているのです」


レティシアは一歩も引かなかった。


「王都の帳簿、百貨祭の数量差、宮廷調達との二重請求、飢饉の年の放出先。どれも、誰か一人の暴走では説明できません」


ゲオルクの口元が引きつる。


笑おうとしているのに笑いにならない。崩れた笑み、という表現がこれほど似合う顔も珍しかった。体面を保つための仮面が、端からひび割れている。


「なら、どうする」


ゲオルクは低く問うた。


「お前は本当に、すべてを明るみに出すつもりか。家名が地に落ちても、父上が……兄上が、これ以上王都で恥を晒しても」


そこで初めて、レティシアは父を見た。


クラウスは何も言えないまま、手袋を握っていた。無意識なのだろう。革が音を立てそうなほど、指に力がこもっている。握りつぶす、とまではいかない。だが、長年の逃避がもう限界近くまで来ていることは、その手の動きだけで十分に伝わった。


「たとえ傷がついても」


レティシアは父から視線を戻した。


「真実は最後まで明かします」


はっきりと言い切る。


「沈黙で守れる家名なら、その家名はすでに空です」


「……っ」


ゲオルクの頬がわずかに引きつる。


「立派なことを言う。だが、お前にはわからんのだ。積み上げたものを失う怖さが」


「失わせたのは誰ですか」


その問いには、さすがのゲオルクも即答できなかった。


沈黙。


重く、短い沈黙。


窓の外で風が枝を鳴らした。その音さえ、この部屋では責め立てるように聞こえる。


「……お前は」


やがてゲオルクが口を開く。


低い、掠れた声だった。


「お前は兄上に似ている」


クラウスの肩が微かに揺れる。


「こちらの嘘を見透かす目だ」


その言葉は、半ば吐き捨てるようでありながら、どこか諦めたようでもあった。


昔から恐れていたのだ、とレティシアはそこで初めてはっきり知る。


自分が帳簿を見るからではない。問いを重ねるからでもない。誤魔化しの形そのものを、視線の先で拾ってしまうことを、この男はずっと嫌っていたのだ。だから遠ざけ、軽んじ、黙らせやすい役回りへ押し込めた。


「ならばなおさら、黙るわけにはまいりません」


レティシアは静かに返した。


「見えてしまったものを、見なかったことにはできませんから」


ゲオルクは目を閉じかけ、すぐに開く。


完全に崩れはしない。土壇場まで言い逃れと責任転嫁にしがみつく人間の、最後の矜持のようなものがまだ残っている。


「兄上」


助けを求めるように、ゲオルクがクラウスを見る。


「お前まで、この娘の言う通りにするつもりか。家を潰す気か」


クラウスは答えない。


ただ手袋を握る手に、さらに力が入る。指の骨が白く浮くほどに。


何も返せない。そのこと自体が、もう返答だった。


長く目を逸らしてきた男は、なお言葉にできない。だが、もう以前と同じ沈黙ではいられないところまで来ている。


ゲオルクはそれを見て、ついに笑った。


いや、笑おうとした。けれど形にならなかった。崩れた笑みだけが口元に残る。


「そうか」


乾いた声。


「結局、私だけが汚れ役というわけだ」


「違います」


レティシアは否定した。


「誰がどこまで関わったかは、これから記録が明らかにします。だからこそ、今ここで家のための沈黙など選びません」


家のために黙る。


その言葉が、どれだけ多くを腐らせてきたか。領民の食糧も、善意の寄付も、王都への流れも、すべてその一言の陰で歪んできたのだ。


もう繰り返さない。


その意志だけが、レティシアの中ではっきりしていた。


書斎の空気は張り詰めたまま、誰も次の言葉をすぐには出せなかった。


壊れ始めたものを、もう元の形へ戻すことはできない。


沈黙を守ることで守れる段階は、昨日で終わったのだ。

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