第40話 悪役令嬢、壇上に立つ
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王城の聴聞広間は、舞踏会の大広間とは似ているようでいて、まるで違う空気を持っていた。
高い天井。長く垂れた深紅の幕。壇上へ続く数段の石段。磨かれた床に響く靴音は、音楽のためではなく、沈黙を測るためにあるようだった。壁際には記録官の机が並び、席を与えられた貴族たちと関係者が、息を潜めるように広間を見つめている。
視線の多さだけなら、あの断罪の夜と大差はない。
だが今は違う。
あの時、自分は言葉を奪われる側に立っていた。噂と感情に形を与えられ、"悪役令嬢"というわかりやすい札を貼られて。
そして今日もまた、形式の上では同じだった。
問題を持ち込んだ令嬢。社交の場を乱し、慈善会計にまで口を挟み、家中の帳簿を公の場へ引きずり出した厄介者。人によっては、再び"悪役令嬢"として壇上へ立たされたと見るだろう。
けれど、レティシアの胸の内は静かだった。
もう、あの夜のように見下ろされるだけの場所ではない。
壇上の前列には、ゲオルクとクラウスが並んでいた。
クラウスは青ざめたまま沈黙し、前話の書斎で見せた動揺を引きずっている。ゲオルクはまだ体面を繕っていたが、その微笑みは薄く、口元より先に目の奥が疲れていた。夜ごとに言い訳を組み立て、崩れたものを繕おうとしてきたのだろう。
そして少し離れた位置に、ダミアン・ヘッセ。
変わらぬ優雅さ。整った礼装。柔らかな笑み。第37話の舞踏会と同じく、どこまでも余裕を保つ顔だ。だが、今ここは夜会の余興ではない。慈善報告台本もなければ、ざわめきを音楽で流すこともできない。
壇上の一角には、フリードリヒ・アーレンスが監査院代表として立っていた。
相変わらず感情の薄い横顔。だが、その前に積まれた資料の束と、端に押された監査院の受理印が、この場の性質を十分に示していた。
百貨祭の記録。
宮廷調達記録との対応表。
監査院の受理印付き資料。
独占契約書。
備蓄放出の記録。
これまで拾い集めてきた断片が、今や一つの机の上に並んでいる。
聴聞開始を告げる声が広間に落ちた。
「本件、侯爵家領における収支差異、慈善会計の不整合、ならびに宮廷調達との関連を含む申立てについて、関係資料の確認を行う」
記録官が羽根ペンを整える音まで聞こえた。
レティシアは名を呼ばれ、壇上の中央へ進み出る。
何十もの視線が向く。その重さに足が止まらないことを、自分で少しだけ不思議に思った。十歳の頃の飢饉の寒さも、第1話の断罪の夜の息苦しさも、消えたわけではない。けれど、それらに押し潰されるだけの少女はもういない。
「申立人として、説明を」
促され、レティシアは正面を見た。
「感情ではなく、記録で申し上げます」
静かな一言だった。
だが、その一言で広間の空気が少し締まる。嘆願でも弁明でもない。数字と記録だけを持って立つ、と先に宣言したのだ。
「まず、領地側における流通記録です」
レティシアは百貨祭の控えと領地出荷帳を示した。
「同一品目について、領地では減少処理、王都では高値流通が確認されました。価格差は正当な輸送費を超え、数量にも不一致があります」
記録官の手が動く。
「次に、宮廷調達記録との対応表」
資料を一枚めくる。
「こちらは監査院へ提出済みの受理印付き控えです。領地側で百貨祭向け、あるいは在庫減少として処理された品目が、宮廷側では別名目で請求されております」
ざわめきが起こる。
舞踏会の時よりも低く、重いざわめきだった。ここでは噂好きの興奮ではなく、利害と責任を測るざわめきになる。
ダミアンはまだ微笑んでいる。
「帳簿上の揺れは、ときに事務処理の誤差でも説明できます」
やわらかな声。
「若いご令嬢の熱意は称賛に値しますが、誤差と構造的な不正を混同なさるのは早計では」
レティシアはそちらを見た。
「ですので、単独資料ではなく連鎖でお示しします」
独占契約書を壇上へ置く。
「ドレスナー商会との独占契約。供給と損耗免責、数量調整の余地がここで生まれています」
次に借用証文と個人保証書。
「伯父ゲオルクの借用と、それに付随する便宜供与」
ゲオルクの肩がぴくりと動く。
「さらに、飢饉の年の備蓄放出記録」
広間の空気がまた変わる。
慈善や百貨祭の話とは重みが違う。飢饉。備蓄。領民の命に直結する言葉だ。
「領民向け放出名目で記録された一部が、別出先へ回されていました」
クラウスが目を閉じるように伏せる。前話の書斎で突きつけられた現実を、今度は公の場で聞かされる形だ。
ダミアンの笑みは、まだ崩れない。
「それが仮に事実だとしても、私ども宮廷側の会計へ直結するとは限りません」
「限るかどうかは、監査院の照合結果によります」
レティシアは言い切った。
「わたくしが申し上げるのは、領地の歪みが単独ではなかったということです」
そこで、フリードリヒが一歩前へ出た。
彼は机上の資料を整え、承認欄の連なりを示す。
「監査院にて、提出資料と既存保管記録の一次照合を行いました」
抑揚の少ない声。それがかえって広間の隅まで届く。
「同一品目において、領地側輸送記録と宮廷調達記録に二系統の請求が確認されております」
会場のざわめきが一段深くなる。
フリードリヒは続ける。
「また、承認印および補記名の連鎖を確認したところ、ダミアン・ヘッセの名が複数箇所に現れました。これは単独の伝票処理ではなく、領地側と宮廷側の双方にまたがる構造上の接点である可能性を示します」
ダミアンの目が、わずかに細くなった。
ほんの一瞬。
それでも彼はすぐに微笑みを戻す。
「可能性、ですか」
「現段階ではそう記します」
フリードリヒは一切ぶれない。
「故意、共謀、主導の別はここでは断定いたしません。しかし、承認の連鎖において無関係とは言い難い」
ダミアンが言葉を選ぶ間が、初めて広間に生まれた。
それだけで十分だった。彼はまだ崩れない。自白もしない。だが、記録の前で言い逃れの幅は目に見えて狭まっている。
「私の名が補記にあること自体は、職責上、珍しいことではありませんよ」
ようやく出た言葉も、慎重だった。
「書類は流れます。印も通ります。いちいち一件ごとの背景まで」
「背景を読まぬまま承認が重ねられたなら、それもまた構造です」
レティシアが静かに返す。
ダミアンはそこで、初めてレティシアを真正面から見た。
笑っている。だが、舞踏会の時のように軽くいなす余白は薄い。相手を"若い令嬢"として扱うには、今この壇上に並んだ資料が多すぎた。
ゲオルクはもはや顔色を隠せていない。
「私は……家を守るために」
絞り出すような声が漏れる。
「商会との関係を切れば、領地は」
「守ったのは、誰の何ですか」
レティシアは振り返らずに問うた。
それ以上の追及はしない。今ここで感情のぶつけ合いに落とせば、せっかく記録で積んだ場が濁る。
クラウスは黙っていた。
長く目を逸らしてきた父の沈黙は、今や否認ではなく重荷になっている。広間の誰よりも、その沈黙が彼を追い詰めていた。
フリードリヒは最後の一枚を持ち上げた。監査院の受理印が押された資料だ。
赤い印影は小さい。それでも、公的な手続きの始まりとしては十分に重かった。
「提出資料、一次照合結果、ならびに承認連鎖の確認に基づき」
その声に、広間は静まり返る。
「本件、正式監査対象に該当します」
一瞬の無音。
次いで、抑えきれないざわめきが一気に広がった。
正式監査。
もう社交の噂ではない。慈善の余興でも、家内の揉め事でも、若い令嬢の意地でもない。王城の公的な手続きとして、不正の全貌が調べられる段階へ進んだのだ。
レティシアは壇上に立ったまま、そのざわめきを受け止めた。
悪役令嬢として、再び壇上へ。
けれど今度は違う。
貼られた札ごと、壇上の意味を塗り替えた。
かつて断罪のために使われた高みで、今は自分の意志で記録を示し、不正を逆に白日の下へ引きずり出している。
ダミアンはなお崩れず、ゲオルクは青ざめ、クラウスは沈黙し、広間の貴族たちはもう見て見ぬふりのできない顔をしていた。
そのすべてを前にして、レティシアの胸の内には、奇妙なほど澄んだ静けさだけがあった。
逆襲は、もう始まったのではない。
ここで、誰の目にも見える形になったのだ。




