第39話 裏切りは伯父の署名から
王都から戻った日の夜、ローゼンベルク侯爵家の書斎には、妙に重い静けさが満ちていた。
窓の外では風が木立を鳴らしている。季節はもう夏の終わりから秋へ傾きつつあり、夜気は少しだけ冷たい。だが、室内の空気はそれとは別の意味で冷えていた。
書斎の中央机の上に、レティシアは集めた証拠を一つずつ並べていく。
独占契約書の写し。
ゲオルクの借用証文。
飢饉の年の備蓄放出先の記録。
個人保証書。
領地出荷帳の控え。
宮廷調達記録との対応表。
王都で監査院に持ち込んだものすべてではない。だが、今夜ここで必要なのは十分に揃っていた。
机の端に立つルカは黙っている。彼が口を挟まないのは、この場の中心が家の内部にあるからだろう。けれど、その沈黙は退いたものではなかった。必要があればすぐ前へ出るとわかる沈黙だった。
やがて、父クラウスと伯父ゲオルクが揃って書斎へ入ってきた。
クラウスは無言のまま重い足取りで椅子へ向かい、ゲオルクはいつものように柔らかな笑みを作ろうとした。だが、その笑みは王都で見た時よりもいくらか乾いている。
「ずいぶん改まった呼び出しだね、レティシア」
ゲオルクが先に言う。
「王都での疲れもあるだろうに。こんな夜更けに」
「夜更けでなければ困る方がいらっしゃるかと思いました」
レティシアは穏やかに返した。
ゲオルクの笑みが、ほんのわずかに止まる。
父クラウスはレティシアと机上の紙束を交互に見ていた。何を見せられるのか、ある程度は察している顔だ。だが、その察しを言葉にする覚悟まではまだない。
「本日は確認したいことがございます」
レティシアは立ったまま言った。
「確認、ね」
「ええ。領地の輸送、徴税、仕入れ、そして王都への流れについてです」
ゲオルクが椅子へ腰を下ろしながら、いかにも困ったように肩をすくめる。
「まだその件を追っているのかい。若い人は熱心で結構だが、帳簿というものは外から見ただけではわからない事情もある」
「事情」
「現場の混乱、凶作の影響、商会との調整、家の体面――」
「その体面のために、どれだけ削られたのかを見ておりました」
レティシアは独占契約書の写しを押し出した。
「まずこちらです。ドレスナー商会との独占契約。供給、運搬、損耗免責を一括で認める旧契約」
クラウスが紙へ視線を落とす。
ゲオルクはまだ笑顔を崩さない。
「古い契約だよ。時代背景も違う。今さらそれを持ち出しても」
「古い契約であることは問題ではありません」
レティシアは続ける。
「古い契約が、現在の不正の土台として生きていたことが問題です」
「不正とは、言葉が強すぎる」
「では、こちらは」
次に置いたのは借用証文だった。ゲオルク個人名義のもの。金額、返済期限、そして担保代わりの特約が付されている。
クラウスの眉が寄る。
「これは……何だ」
「伯父様の借用証文です」
書斎の空気がさらに重くなる。
ゲオルクが先に口を開いた。
「個人的な資金繰りだ。家には関係ない」
「本当にそうでしょうか」
レティシアは個人保証書をその隣へ並べた。
「返済不能時の便宜供与として、商会側への優先発注と数量調整が付されています」
クラウスの顔色がわずかに変わった。
「ゲオルク……これは」
「誤解だよ、兄上」
今度のゲオルクの声には、少しだけ急きが混じった。
「一時的な立て替えのようなものだ。領地運営を円滑にするために、私が個人で便宜を図っただけで」
「便宜、ですか」
レティシアは心の中でその語を反芻した。
いつもそうだ。曖昧な言葉は、責任の形を曇らせる。便宜。調整。補填。保管。どれも意味があるようで、誰が何をしたかを薄くする言葉だ。
「では、この数量調整は何のためのものでしょう」
領地出荷帳の控えを示す。
「領内では不足が出ている月に、商会向けの便だけが維持されている。しかも価格は王都側で大きく上振れしていた」
「市場ではよくあることだ」
ゲオルクが言う。
「王都で高く売れるなら、そのぶん家に利がある」
「その利が、家に戻っていたならそうでしょう」
レティシアは一歩も退かない。
「ですが、戻っていませんでした」
クラウスが机の縁へ置いた手に力を入れる。何度か見た沈黙だった。知らなかったのか、見ないふりをしてきたのか。その両方が混じったような沈黙。
「兄上も、そんな顔をすることはない」
ゲオルクが苦笑を作る。
「多少の不均衡はどの家でもある。帳尻を合わせるために現場が工夫を」
「工夫では済まないものがあります」
レティシアは最後の記録へ手を伸ばした。
飢饉の年の備蓄放出先の記録。
紙の端は古く、ところどころに折れ跡がある。その年の冬、雪の深さ、空っぽの倉、薄い粥の色。十歳の頃の記憶が、紙に触れた指先から微かによみがえる。
寒さ。空腹。配給を待つ列。
泣かなかった子ども。泣けなかった大人。
だがレティシアは、その記憶を表へは出さない。
「この年の備蓄放出について、お二人にお尋ねします」
声だけを平らに保つ。
「領民向け緊急放出と記録された穀物の一部が、実際には別の出先へ回されています」
クラウスがはっと顔を上げた。
「何……?」
ゲオルクの目が、初めて明確に揺れた。
ほんの一瞬。だが、今までの借用証文や契約書より、はっきりとした動揺だった。
「そんな古い記録を、どこから」
「古いからこそ残ります」
レティシアは静かに言う。
「そして、古いからといって消えはしません」
飢饉の年の備蓄配分を歪めた指示書。
それを机の中央へ置く。
書斎の沈黙が、今度は質を変えた。紙一枚で空気が切り替わる音がしたようにさえ思える。
ゲオルクの笑みが完全に止まる。
「伯父様、この署名だけではありません。こちらの指示書にも、あなたのお名前が」
その一言で、クラウスの視線がゲオルクへ突き刺さる。
「……指示書?」
父の声は低かった。
怒鳴ってはいない。だが、その静けさがかえって重い。
ゲオルクはすぐには答えなかった。いや、答えられなかったのだろう。今までなら、体面を繕う言葉が先に出たはずだ。事情だ、誤解だ、立場上やむを得ず。そうした逃げ道が、今回は一拍遅れた。
「それは」
ようやく口を開く。
「備蓄を効率よく回すための、暫定的な指示にすぎない」
「効率よく?」
レティシアは問い返す。
「領民への放出名目で倉を開けながら、一部を外へ回すことがですか」
「全部ではない!」
ゲオルクが声を荒げかけ、すぐに息を詰めた。
その反応だけで十分だった。
クラウスの顔から血の気が引いていく。
「ゲオルク……お前、あの年に」
「兄上、違う、私は家を守ろうとしたんだ」
言い訳が、ようやく形になる。
「飢饉の年は、どこも混乱していた。商会との関係を切れば翌年の種も肥料も入らない。目先の配分だけで動けば、もっと大きな損害に」
「だから備蓄を歪めたのですか」
レティシアの声は静かだった。
「領民に行くはずの分を」
「全部奪ったわけじゃない!」
また同じ否定。
全部ではない。そこに、自分で罪の輪郭を認めている響きがある。
クラウスは何も言わない。ただ、目の前の紙と弟の顔を見比べている。長年、目を逸らし続けてきた領地財政の腐敗。その一端が、契約や噂ではなく、飢饉の年の備蓄記録として目の前に置かれたのだ。
見ないふりは、もうできない。
「私は……」
クラウスの唇が動いたが、続く言葉は出なかった。
沈黙。
その沈黙の中に、動揺と否認と、遅すぎる理解が混ざっている。
ゲオルクはその沈黙を埋めるように早口になる。
「兄上だってわかるはずだ。家を維持するには綺麗事だけでは足りない。ダミアンも、商会も、皆そう言って」
そこで、言葉が止まった。
自分で出した名に気づいたのだろう。
レティシアはその間を逃さない。
「ダミアン様は、この指示書をご存じなのですね」
ゲオルクの顔が硬くなる。
「……私は、そんなことは言っていない」
「ですが今、お名前を出しました」
「言葉尻を取るな」
「言葉尻ではなく、連鎖です」
独占契約。借用証文。個人保証。備蓄の指示書。王都の高値。二重請求。すべてが別々ではなく、同じ川下へ流れている。
ゲオルクはまだ完全には崩れない。開き直りもしない。だからこそ、言い逃れと責任転嫁にしがみつく。
「私は最善を尽くしただけだ。現場の判断もあった。商会側の提案もあった。数字だけ見て裁けるほど、家の運営は単純じゃない」
「ええ」
レティシアは答える。
「ですから、数字だけでなく、署名と指示書も揃えております」
その言葉に、ゲオルクはついに返答を失った。
クラウスもまた、何も言えない。
ただ、机の上の紙の重みに押されるように沈黙している。
書斎の燭台が、かすかに揺れた。
レティシアはまっすぐ二人を見た。十歳の頃、寒さの中で見上げた閉ざされた倉の扉。その向こう側にあったはずの穀物。今、その記録はようやく言葉になる場所へ出てきた。
けれど今夜は、すべてを吐かせる夜ではない。
崩れ始めた沈黙を、まずは見届ける夜だ。
裏切りは、伯父の署名から始まっていた。
そして父は、長く目を逸らし続けたその腐敗の形を、もう認めざるを得ないところまで来ていた。




