第38話 矛盾する決算書
舞踏会の翌朝、王都の空気は晴れていた。だが、レティシアの胸の内にあるものは晴れやかとはほど遠かった。
前夜のざわめき。壇上の決算書。慈善報告台本の外側へ押し出された問い。ダミアンの崩れぬ微笑。
あの場で得たのは勝利ではない。疑念が、もはや私語の域を越えたという手応えだけだ。
ならば次は、私語ではなく記録の場所へ持ち込むしかない。
王家監査院。社交の声色ではなく、紙と印と照合によって物事を進める場所だった。
石造りの建物は王城の華やかな区画から少し離れており、外観も装飾に乏しい。高窓から差す光は白く、廊下に敷かれた絨毯さえ沈んだ色だ。ここでは、見栄えより保存が優先されるのだろう。壁際の棚には帳簿箱が整然と並び、扉の金具さえ過不足なく磨かれていた。
レティシアは、抱えてきた書類束をもう一度指先で確かめた。百貨祭で控えた価格差と数量不一致の記録。領地側の領地出荷帳。セシルが持ち出した宮廷調達記録の控え。そして、照合用に整え直した一覧。
「緊張してますか」
隣でルカが低く聞く。
「少しだけ」
「おれはすごく嫌です。ここ、全部に目がありそうで」
率直すぎる言い方に、セシルがかすかに肩をすくめた。だがその緊張した横顔には、以前のような迷いだけではないものもある。あの夜に手を組んで以来、彼女は怯えながらも、必要な控えをきちんと揃えてきた。
「目がある場所へ持ってきたのです」
レティシアが言うと、ルカは「それもそうか」と小さく返した。
やがて案内された先の部屋で、ひとりの官人が机越しに立ち上がった。
「王国監査院、第三記録課のフリードリヒ・アーレンスです」
年の頃は三十前後だろうか。整えられた灰色の髪に、温度の低い眼差し。礼は正しいが愛想はない。書類の束を見る目が、人ではなく記録の重みを量るように動く。
「ご提出は、慈善会計関連の補足資料と伺っておりますが」
「はい。ただし、それだけではございません」
レティシアはそう前置きし、持参した資料を机へ順に並べた。フリードリヒはすぐには何も言わなかった。まず紙質を見、日付の記載を確かめ、控えの写し方を確認している。相手の肩書きや家名より先に、書類の精度を測る人間だとわかる。
「こちらが百貨祭で確認した領地産品の価格差と数量不一致です」
レティシアが言う。
「こちらが領地側の出荷記録。こちらは宮廷調達記録の控え。さらに、同月同品目での対応表を作成しております」
「控えは誰が取りましたか」
フリードリヒの問いは短い。
「百貨祭の記録は私とルカが。宮廷側の控えはセシルが」
名を呼ばれ、セシルがやや硬い声で一礼した。
「事務補助として閲覧可能だった範囲のものです」
「原本ではない」
「はい」
「承知しました」
否定もしない。だが、鵜呑みにもしない。あくまで原本照合の前提資料として扱う姿勢だ。
フリードリヒは一枚ずつ確認を始めた。宮廷調達記録と領地出荷帳を並べ、品目名を指先で追う。小麦粉、保存肉、冬布、乾燥果実。記載の揺れを拾うためか、ときおり別紙へ短く注記を入れる。
部屋の中は静かだった。窓の外の音もここまでは届かない。ただ紙をめくる乾いた音と、羽根ペンの先が走る微かな擦れだけがある。
レティシアは相手の横顔を見つめた。感情が読めない。淡々としている。だが、ただ遅いのではない。速さを要しないほど、確認の順序が徹底しているのだ。思いつきで疑わない代わりに、記録の上で逃げ道も作らない。そういう種類の厳密さ。
「この数量不一致は、百貨祭当日の視認ですか」
「はい」
ルカが答える。
「出荷証では十箱、実物は八箱でした。他にも似たのがいくつか」
「時刻は」
「午前の早い時間です。売り切れにしては早すぎる」
フリードリヒは頷きもせず、それをそのまま注記へ落とした。次いで、セシルの持参した控えへ移る。
「こちらの宮廷調達記録は、見せる帳簿と別系統の記録という認識でよろしいですか」
問われて、セシルの喉が小さく動く。
「断定は……まだ」
「推測は不要です。見た事実だけを」
「はい。棚の奥に、同月同名目で金額や摘要の異なる帳簿がありました。綴じ方も、前に見た慈善帳簿と似ていました」
フリードリヒの視線が、初めてわずかにセシルへ向いた。
「似ていた、では足りません」
「同じ者が綴じた可能性が高い、と感じました」
「感覚ではなく特徴を」
「紐の通し位置が一定で、最後の結び目が背表紙側へ浅く寄っています。帳簿端の折れ癖も同じでした」
「……結構です」
短い。だが、それで十分という意味でもあった。
フリードリヒは宮廷調達記録と領地出荷帳の対応表を、自分でも組み直し始めた。レティシアが作った表をそのまま使わないのは、信用していないのではなく、自分の手で同じ結論へ至れるかを見るためだろう。
時間が流れる。ルカが珍しく黙り込み、セシルも膝の上で指を組んだまま動かない。
やがて、フリードリヒの手が止まった。彼は二枚の記録を横へ並べ、もう一度だけ日付と数量を見直す。そして、ほとんど抑揚のない声で言った。
「同一品目で二系統の請求がございます」
その一言は、静かな部屋で妙にはっきり響いた。セシルが息を呑む。ルカの肩が目に見えて強張る。レティシアは膝の上で指先をそっと握った。予想はしていた。けれど、王家監査院の官人が、記録を突き合わせた上で口にするのは別の重さがある。
「具体的には」
レティシアが問う。
「宮廷側では冬期備蓄用として請求され、領地側では百貨祭向けの出荷減少として別処理されている品目です」
フリードリヒは紙面を示した。
「数量の揺れは小さい。だからこそ発見が遅れます。しかし積み重なれば相応の額になる」
冬布。乾燥果実。保存粉。どれも、ひとつひとつは大騒ぎするほどではない。だが、名目を変え、経路を二つに分けて請求すれば、帳面上では別物のように見せられる。
「二重請求……」
セシルがかすれた声で呟く。
「その可能性が高い、ではなく、現時点で記録上はそう読めます」
フリードリヒはあくまで事務的に言う。
「原本照合前ですので断定文書にはいたしませんが、少なくとも整合しておりません」
整合していない。役人らしい、乾いた表現だった。だが、その乾きの中にこそ深刻さがある。感情を乗せずに言えるものほど、記録上は重い。
フリードリヒは次の紙束へ手を伸ばし、承認欄の連鎖を確認し始めた。宮廷調達の承認。商会受理。中継確認。補足決裁。小さな印と署名が並ぶ欄を、彼の指先が静かにたどる。
「ここです」
彼が止めた一点に、レティシアも身を乗り出す。そこにあったのは、承認印の脇へ添えられた補記名だった。
ダミアン・ヘッセ。
本人はここにいない。微笑みも理屈もない。ただ、記録の連鎖の中に名前だけが残っている。それでも十分だった。先夜、帳簿の見せ方を語った男。先日の舞踏会で、慈善報告を優雅にいなした男。その名が今、王都の調達記録の承認の流れに浮かび上がる。
「やっぱり、あいつか」
ルカが低く言った。
「断定はまだ早い」
フリードリヒが即座に制する。
「名前があることと、故意の関与は別問題です」
「ですが」
「ですが、看過できる位置ではありません」
その言い方だけ、ほんの一瞬だけ硬かった。感情を見せる人ではないのだろう。だが、領地からの出荷、王都での高値、慈善名目、宮廷調達、その歪みが結局どこへしわ寄せを送るか――領民や末端の受け手へ落ちることを思った時だけ、表情のどこかがわずかに変わった気がした。すぐに消えたが。
「提出資料の精度は高い」
フリードリヒが改めて言う。
「とくに価格差の控えと、数量不一致の現場記録。私見は不要ですが、記録として扱うには十分整理されています」
それは褒め言葉というより評価だった。だが、レティシアにはそれで足りる。
「ありがとうございます」
「礼には及びません。こちらは事実を確認するだけですので」
官僚的で、中立的。最後までその姿勢は崩れない。
机の上の書類へ、フリードリヒは監査院の朱印をひとつ置いた。乾いた音。赤い印影が、提出控えの端へ正確に残る。
監査院の朱印。まだ開始の宣言ではない。ただ受理し、確認の手続きへ入った印にすぎない。だが、それでもここまで社交のざわめきに過ぎなかった疑念が、ついに公的な記録の中へ入ったことを意味していた。
レティシアは、その赤を静かに見つめた。
二重請求の事実確認。そこまでだ。まだそれ以上ではない。
けれど、数字の連鎖はもう、王都の人間の名を巻き込み始めている。領地の中だけで閉じていたはずの疑惑は、今や宮廷調達記録の承認欄にまで指をかけたのだ。
次に進めば、戻れない。
その感触だけは、朱印の乾く音よりもはっきりと胸に残った。




