第47話 それでも賃金は払う
製粉所の水車がぎこちなくも再び回り始めた朝、領地の空気は達成感よりも先に疲労の重さを抱えていた。
徹夜で泥にまみれた職人たち。赤く充血した目で水路を見張る農夫たち。布帯を握ったまま座り込む女たち。再稼働は奇跡ではない。人の手で無理やり引き戻した現実だった。だからこそ、止めてはならない。
製粉所の外れに停められた監査院の馬車は、その光景を静かに見下ろすように佇んでいた。灰色の外套に身を包んだ官人たちが、夜明けの冷えた空気の中で淡々と書きつけを取っている。喜びに水を差すためではない。記録するために来た者たちの顔だ。
フリードリヒ・アーレンスは、再稼働した水車を一瞥したあと、足元の泥を気にも留めずレティシアの前へ進み出た。
「状況の確認をいたします」
相変わらず抑揚の少ない声だった。
「どうぞ」
レティシアもまた、疲労を表に出さずに応じる。
「製粉所の破損は、火災に見せかけた工作と判断しております。現場の保存は可能ですか」
「主要箇所は触る前に記録させました。応急復旧に必要な部分だけ、人手を入れています」
「結構です」
フリードリヒの視線が、仮継ぎした歯車、外した軸受け、煤の残る乾燥材へ順に向けられる。感心も非難もない。だが、その無機質な目がきちんと現場を見ていることだけはわかった。
「生活維持のための応急措置は必要です。監査妨害とは見なしません」
その一言に、近くで聞いていたオットーが小さく息を吐いた。ベルタも肩の力を少し抜く。監査院が来た以上、せっかく回した製粉所まで止められるのではないかと、皆どこかで恐れていたのだろう。
「ただし」
フリードリヒは続ける。
「物資、人件、支払い、修繕の各記録は、以後すべて残していただきます」
「当然です」
レティシアは即答した。
当然。今さらそれを厭う理由はない。むしろ、残るからこそ守れるものがある。
フリードリヒは一礼すると、部下へ短く指示を飛ばした。製粉所の損傷記録、搬入経路、監査対象帳簿の押収確認。監査は領地へ入ったその瞬間から始まっている。
人が散り、緊張が少しだけ解けた頃、ルカがぼそりと呟いた。
「助かったような、締まったような」
「両方でしょう」
レティシアはそう答えた。
正しい監査が入った。それは助けでもあり、逃げ道を失ったという意味でもある。
製粉所から屋敷へ戻る頃には、朝日は完全に昇っていた。だが、冬へ向かう光はもう弱い。明るいのに暖かくない。
執務室へ入るなり、ヨアヒムが新しい書きつけを持って待っていた。
「お嬢様、復旧費と臨時賃金の概算が出ました」
「見せて」
紙を受け取り、レティシアは目を落とす。
軸材の補修。臨時の木工工賃。夜間作業の食料。洗濯場と縫製場の追加稼働分。さらに監査対応で停滞した通常業務の遅れを埋める分まで含めると、数字は容赦なく膨らんでいた。
足りない。
いや、もう“足りなくなりつつある”ではない。決定的に足りない段階へ入っている。
ルカも覗き込み、眉間を押さえた。
「……厳しいな」
「ええ」
「切れるところ、まだあるか」
「あるにはあります」
レティシアはそう言ってから、すぐ続けた。
「でも、切ってはいけないところまで削れば、冬の前に人が離れます」
製粉所は動いた。だが、それは人が徹夜で支えたからだ。支えた人間に払うべきものを払わないなら、今まで積み上げた信頼は一晩で崩れる。
安く使い潰される現場ほど、最後に大きな損を残す。
それを、レティシアはもう知っている。
「ヨアヒム」
「はい」
「復旧に関わった全員の名簿を出して。水路班、木工補助、布帯班、夜番、炊き出し、全部です」
老執事が、ほんの一瞬だけ目を上げた。
「……お支払いを」
「ええ。どんなに苦しくても最優先で」
言い切ると、室内が少しだけ静まる。
ルカはその意味をすぐ理解したらしい。
「今ここで払うのか」
「今だからです」
「でも、監査中だぞ」
「だからこそ、記録を揃えて払うのです。曖昧にせず、抜けなく」
感情ではない。慈善でもない。仕組みの話だ。
働いた者に、約束した賃金を払う。それを最後に回せば、現場は次から命令を信じなくなる。火急の時ほど、“あとで”は傷になる。
その日の午後、屋敷の一角に即席の支払い机が置かれた。
机上には名簿、受領控え、冬備蓄記録の追加欄。換金して残しておいた現金袋と、監査院立会い用の記録紙。抜けがないよう、フリードリヒの部下の一人まで確認役として座っている。
領民の前で払う。
曖昧にせず、誰にいくら、何の対価として払うのかを残す。
最初に呼ばれたのはベルタだった。洗濯係長として布帯班と夜間の湯沸かしを取りまとめた分まで計上されている。
「ベルタ・クライン。洗濯場管理分、仮留め布帯班、夜間補助、こちらで相違ありませんか」
ベルタは紙と金額を見比べ、ゆっくり頷いた。
「……合ってるよ」
「不足や記載違いがあれば、その場で言いなさい」
レティシアが言うと、ベルタは一瞬だけ目を細めた。
「前なら、“後でまとめて”って言われたところだね」
「後でまとめると、抜けるのでしょう?」
「抜ける。だいたい、こういうのは」
ベルタは金を受け取ったあと、控えに印をつけた。
その仕草には、もう棘がほとんどない。代わりにあるのは、試すような厳しさを越えた納得だった。
次にイーダが呼ばれる。未亡人の彼女は、縫製場の女たちを束ね、夜通しで布帯と補修布を回した。
「子ども用の防寒布の分も、この中に?」
「ええ。急ぎ分を含めています」
「……そうかい」
イーダは金を受け取る時、指先をわずかに震わせた。生活を繋ぐ金だと知っている者の手つきだった。
「待て、と言わないんだね」
「待っている間に冬が来ます」
レティシアが答えると、イーダはほんの少し唇を噛んだ。
「そうだね」
短い返事の中に、これまで待たされてきた時間の重さがあった。
オットーは最後まで列の後ろにいた。自分より先に払うべき者がいるとわかっている顔だった。
「親方オットー。窯の稼働調整、木工補助、炊き出し協力分」
「炊き出しまで入れるのか」
「働きですから」
「パンを勝手に持ってきたのは、俺の都合だ」
「製粉所の夜番が倒れずに済みました」
オットーはしばらく黙り、それから大きな手で受領控えを押さえた。
「……そういうところだ」
「何がですか」
「いや」
ぶっきらぼうに鼻を鳴らしつつ、金を受け取る。
「最初から信用できたんです」
横で名簿を支えていたルカが、不意にそう言った。
レティシアが顔を上げると、彼は少し照れたように視線を逸らした。
「おれ、最初っから全部わかってたわけじゃないけど。でも、給金とか配給とか、そこを曖昧にしない人間は、最後の最後で裏切りにくい」
それは褒め言葉というより、実務を知る人間の信頼だった。
「だから、信用できたんです」
レティシアは何も言わず、ただ次の名簿へ手を移した。
嬉しい、という感情ではない。そんな暇もない。ただ、その言葉が胸の奥のどこかへ静かに沈んだ。
日が傾くまで支払いは続いた。
農夫、水路番、運搬手伝い、炊き出し係、道具貸し出しの控えまで、細かく拾う。小さな労働ほど、後回しにすれば最も傷になる。だからこそ一つずつ潰す。
金袋はみるみる軽くなった。
冬支度記録の余白は、支払い済みの印で埋まっていく。だが同時に、残額欄の細さもはっきりしていく。
厳しい。崖際だ。
それでも、支払い机の前に並ぶ人々の表情は朝よりずっと強かった。顔色は悪く、疲れている。けれど、明日また動く理由を受け取った顔をしている。
その夜、執務室には再び灯りが遅くまで残った。
机上には今日の受領控え、製粉所の修繕記録、監査院へ提出する臨時支出一覧。フリードリヒは自室へ戻る前に短く告げた。
「領民側の現物確認と証言聴取を明朝より開始します。帳簿も、人物も、全件突き合わせます」
「承知しました」
「逃げ場はなくなります」
それは脅しではない。ただの確認だった。
「望むところです」
レティシアが答えると、フリードリヒはほんのわずかに視線を止め、それ以上は何も言わず出ていった。
ルカが窓の外を見ながら、ぽつりと呟く。
「いよいよだな」
ええ、とレティシアは心の中で答えた。
全領民と全帳簿を揃え、言い訳の余地を一つずつ潰していく最終監査。その幕が、ついに開こうとしている。
今度こそ、すべてを終わらせるために。




