第36話 セシルの告白
慈善管理室での一件のあと、王都の空気はまた少しだけ重くなった。
表向きには何も変わらない。舞踏会は開かれ、茶会は続き、会計報告の机には相変わらず乾いた紙の音が満ちている。けれど、見てしまった者の目つきは変わる。寄付箱の記録と整理帳のずれ。善意の名目の下で消えた銀貨。その場で口にされなかった疑念まで含めて、あの部屋には確かに何かが残った。
そして、その残滓にいちばん深く囚われていたのは、やはりセシルだったのだろう。
その日の夕刻、レティシアの滞在先の王都屋敷へ、ひとりの来客があった。
「……セシル様が」
取次の声を聞いた時、レティシアは驚かなかった。
来ると思っていたわけではない。だが、来ないままでは終われない顔を、彼女は慈善管理室でしていた。息をのみ、綴じ紐を見つめ、何度も言葉を飲み込んでいた顔。限界が近い人間の、それでもまだ自分を押し留めている顔だった。
「お通しして」
応接用の小部屋は、昼の光が引いたぶんだけ静かだった。
セシルは扉の前で一度ためらい、それから細い息を吐いて中へ入ってきた。淡い色の外套を羽織っているのに、肩先がひどく心許ない。椅子を勧めると座ったが、背に重みを預けることはしなかった。
「急に押しかけて、ごめんなさい」
「ご用件があるのでしょう」
レティシアが淡々と言うと、セシルは少しだけ目を伏せた。
言い訳から入るつもりだったのだろう。あるいは、まず謝ることで少しでも場をやわらげたかったのかもしれない。だが、今日それを許せば、たぶん肝心のことが遠のく。
レティシアは相手の前に茶を置かせたあと、侍女を下がらせた。
二人きりになる。
沈黙が落ちる。
セシルの指先は、茶杯へ触れようとしてやめ、膝の上で組まれ、またほどけた。震えるセシルの証言は、まだ声になる前から始まっているようだった。
「……昨日のことだけでは、ありません」
ようやく彼女が口を開く。
「慈善帳簿のことを見て、もう黙っていられないと思いました」
「何について」
レティシアは促すだけに留める。
責める口調にはしない。だが、逃げ道も作らない。
セシルは唇をきつく結んだあと、絞り出すように言った。
「わたし、あのとき違うと気づいていました」
その一言で、何の話かは十分だった。
断罪の夜。
レティシアが婚約破棄の口実として大勢の前へ引きずり出され、周囲の視線と決めつけの中で裁かれた、あの夜のことだ。
レティシアはすぐには返さなかった。
胸の内に、冷えたものがひとつ落ちる。怒りではない。もっと静かで、もっと輪郭のはっきりしたもの。やはり、そうだったのかという確認に近い。
「何が違うと」
「あなたが、あんなふうに誰かを追い詰めるためだけに数字を使う人じゃないってことです」
セシルの声は震えていた。
「でも、あの場ではもう、そういう空気になっていて……わたしが口を開いたら、次はうちが睨まれるって、父も、兄も、みんな怯えていて……」
家に害が及ぶことを恐れていた。
その言葉を、彼女は直接そう言いはしなかった。けれど十分に伝わる。自分だけでなく家を巻き込むかもしれない恐怖。王都では、沈黙は臆病の結果であると同時に、一種の処世でもある。
「だから黙っていたのですね」
レティシアが言うと、セシルは痛みを堪えるように頷いた。
「はい……」
「ご自分が助かる方を選んだ」
「そうです」
即座の肯定だった。それがかえって、彼女の中でその言葉を何度も繰り返してきたことを示していた。
「最低だと思います。今さら来て、こんなことを言っても」
声が掠れる。
「でも、昨日あの帳簿を見た時、もう同じことをするのは嫌だと思ったんです。見えているのに黙るのは、あの夜と同じだから」
レティシアはセシルの顔を見た。
泣きそうではある。だが、ただ庇護を求めている顔ではない。恐怖で黙った自分を、自分で軽蔑している顔だった。善良なだけの娘なら、こんな形では来ない。もっと“事情があったのです”と自分を守る言い方をする。けれどセシルは、きちんと自分の卑怯さを言葉にしている。
だからといって、簡単に許されるわけではない。
「それで」
レティシアは感情を平らにしたまま問う。
「今夜ここへ来た理由は、懺悔だけですか」
セシルが顔を上げる。
その目に、一瞬だけ怯えと決意が同時に灯った。
「違います」
彼女は外套の内側から、小さく折った紙片を取り出した。
「これを、見てください」
控えのメモ。
急いで写したのだろう。端はわずかに歪み、文字もところどころ乱れている。だが、金額、日付、項目名、保管棚の位置まで、必要な情報だけはきちんと抜かれていた。
レティシアは受け取り、目を通す。
慈善会計ではない。もっと大きい。宮廷の備品調達、保存食、布類、季節配給費。名目も額も、慈善管理室で見た帳簿より桁が違う。
「これは」
「宮廷の事務補助に入ったとき、たまたま整理を手伝わされた帳簿です」
セシルの声はまだ細い。だが、さっきまでよりは少しだけ芯がある。
「表に出す帳簿とは別に、奥の棚にしまわれる方がありました」
レティシアの指先が止まる。
「二重帳簿」
「たぶん」
「たぶん、では困ります」
「……はい」
セシルは息を詰め、それから言い直した。
「同じ月の記録なのに、支出額と摘要が違っていました。最初は転記ミスかと思ったんです。でも、何度もあって」
そして、彼女は俯きがちに続ける。
「同じ綴じ方の帳簿を見ました」
その言葉に、レティシアはメモから顔を上げた。
「綴じ方?」
「慈善帳簿と同じです。紐の通し方と、綴じ位置の癖が」
綴じ紐。
紙束を綴じるだけの、それ自体は取るに足らぬ道具。だが、複数の帳簿を扱う現場では、綴じ方には手癖が出る。同じ者が線を通し、同じ位置で結べば、見た目の揃え方に共通の癖が残る。
「昨日、あなたが慈善帳簿を並べた時に……同じだと思ってしまって」
セシルの指先が、膝の上でぎゅっと縮む。
「わたし、前にも見ていたんです。もっと大きい帳簿で。同じように、見せる方と動かす方があって……でも、その時も黙りました」
部屋の空気が重くなる。
慈善の銀貨だけではない。
宮廷会計の中にも、見せる帳簿と動かす帳簿がある。もしそれが本当なら、以前見えてきた“王都側の誰か”は、ただの末端の転記係では済まない。もっと奥まで根がある。
「その帳簿は今どこに」
レティシアは短く問う。
「奥の保管棚です。鍵は管理官が持っています。でも、月末整理の前後なら補助の者も一時的に触れます」
「誰の管理下ですか」
「名前までは、まだ……でも、部屋と棚番号は控えました」
レティシアはもう一度メモを見る。
走り書きのようでいて、必要な線は押さえている。恐怖に震えながらも、何も持たずに来たわけではない。この情報は重い。感情論で処理してよい段階ではない。
「なぜ今、これを私に」
問うと、セシルはしばらく答えられなかった。
やがて、静かに言う。
「あなたなら、見落とさないと思ったからです」
それは信頼の告白ではない。もっと切実で、打算も混じった判断だろう。自分ではもう抱えきれないものを、抱えきれる相手へ渡す。そういう種類の言葉だ。
「わたしは、あの夜に黙りました」
セシルは続ける。
「だから今さら味方だなんて言えません。許してほしいとも」
レティシアは相手を見つめた。
友情を求めている顔ではない。救済でもない。せめて今度は、見たものを見たと言いたいだけの顔。それでもなお、自分の保身を完全には捨てきれない人間の顔。
それでいい、とレティシアは思った。
少なくとも、綺麗事よりは使える。
「わたくしは」
ゆっくりと口を開く。
「あなたを、まだ許してはいません」
セシルの肩がびくりと揺れた。けれど、視線は逸らさない。
「はい」
「ですが、拒絶もしません」
控えのメモを机へ置く。
「この情報には価値があります。宮廷会計の二重帳簿が事実なら、領地と王都をつなぐ線を証明する鍵になる」
セシルが息を止める。
「では……」
「手を組みましょう」
レティシアは淡々と言った。
「友人としてではありません。目的のために」
しばしの沈黙。
それからセシルは、ようやくわずかに頷いた。泣きそうな顔のまま、それでも少しだけ楽になったようにも見える。赦されたからではない。役目が与えられたからだ。
「わかりました」
「次からは、見たことを順に報告してください。記憶ではなく、控えで」
「はい」
「危険だと思ったら無理をしないこと。情報源が潰れれば終わります」
「……はい」
短いやり取りだった。
けれど、その中で二人の立ち位置は十分に決まった。
断罪の夜に沈黙した女と、その沈黙の代価を払わされた女。
本来なら交わるはずのない二人が、今は同じ二重帳簿の先を見ている。
友情ではない。
許しでもない。
ただ、共通の目的のための協力関係。
レティシアは控えのメモをたたみ、燭台の横へ置いた。その小さな紙片は、思っていた以上に重く見えた。領地で掴んだ不正の線が、宮廷の奥の棚へまで伸びている。その証言の始まりとして。




