第35話 善意の寄付と消えた銀貨
王都では、金は豪奢な衣の裾だけを流れているわけではない。
社交界の舞踏会にも、百貨祭の出店にも、年次会計報告の机にも金は通る。けれど、それ以上に厄介なのは、善意の顔をした金だった。慈善、寄付、救済、後援。誰もが口では称え、疑うこと自体が無作法とされる流れ。
だからこそ、曖昧さが入り込む余地がある。
レティシアが孤児院向け慈善寄付の収支確認の場へ同席することになったのは、茶会で寄付会予算の是正を指摘したことが思わぬ尾を引いたためだった。予算を一目で整えた令嬢。百貨祭の数字にも口を出したらしい娘。面白がる者、警戒する者、試したい者。王都では評判はすぐ仕事に化ける。
案内されたのは、宮廷付属の慈善管理室の一角だった。
広すぎない部屋だが、整えられている。窓辺に淡いレース、壁際に施錠棚、中央に大きな机。そこへ既に二人の女性が座っていた。
一人は、セシル・マーレン。
以前よりも落ち着いた色の衣装を選んでいるが、手元の書類へ置かれた指先が少し強張っている。官廷の事務補助として慈善会計に関わっていると聞いていたが、その肩書きは彼女にはまだ重すぎるようにも見えた。
そしてもう一人が、ヘンリエッテ・ローゼ公爵夫人だった。
年齢は四十を少し越えた頃か。真珠の耳飾りひとつ取っても品がよく、姿勢には一分の隙もない。慈善会の実力者と呼ばれるだけあって、優雅な笑みの下に損得の計算を隠すことを覚えた目をしていた。
「あなたがレティシア様ですのね」
ヘンリエッテはまず、上から下までを一度で量るように見た。
「噂は伺っておりますわ。最近、数字にお強いとか」
「強いというより、見落としが気になる性分でございます」
レティシアが静かに答えると、公爵夫人はかすかに口角を動かした。
「その性分が、慈善の場では時に無作法と映ることもございますのよ」
「無作法で済むうちに見つかるなら、まだ幸いです」
その返答に、セシルがわずかに顔を上げた。だが目が合う前に、また帳簿へ落ちる。先日の茶会と同じだ。避けている。理由を抱えたまま。
「では、拝見なさいな」
ヘンリエッテが机上を示した。
「今年の孤児院向け寄付の収支です。寄付箱の回収記録、納入控え、支出帳、月末の整理帳。ごく平凡なものですけれど」
平凡。
その言い方自体に少し警戒が混じっていた。本当に平凡だと思っている者は、わざわざそう前置きしない。
レティシアは椅子へ腰を下ろし、帳簿を手に取った。
最初に気づいたのは、綴じ方だった。
二種類の慈善帳簿。どちらも同じ綴じ紐を使っている。淡い灰色の、ありふれた綴じ紐。けれど、表紙の擦れ具合と中の紙の癖が少し違う。片方は人前で見せるためによく整えられ、もう片方は実務で何度も開かれた手触りがある。
同じ綴じ紐を使っているのに、内容が微妙に違う。
それだけで、胸の奥が冷えた。
領地で見た手口と似ている。
見せる帳簿と、動かす帳簿。
表向きの収支と、実際に金を逃がす収支。
「何かしら」
ヘンリエッテが問う。
「いえ。まず形式を確認しております」
レティシアは一冊目を開いた。寄付箱の回収記録。日時、立会人、封印確認、回収金額。記載は整っている。だが、整いすぎているとも言えた。端数の揺れが少ない。善意の寄付箱なら、もっとばらつきが出るはずだ。
次に、もう一冊。
こちらは月末整理用らしい。収入をまとめ、支出へ割り振り、余剰を次月へ繰り越している。表向きはよくある帳面だ。だが、同じ日の記録を照らすと、小さな差が見えた。
「この日ですが」
レティシアは寄付箱の記録を指した。
「回収金額は銀貨二十六枚と銅貨数枚になっております」
「ええ」
セシルが小さく答える。
「ですがこちらの整理帳では、銀貨二十四枚相当として計上されています」
部屋の空気がわずかに止まる。
「端数整理ではなくて?」
ヘンリエッテがすぐ言う。
「銅貨の切り上げ切り捨て程度なら、その可能性もございます」
レティシアは穏やかに頷いた。
「ですが、翌週の記録も同じです。こちらでは銀貨三十一枚分、こちらでは二十九枚分。さらにこの欄、寄付箱からの回収とは別に『保管調整』とありますが、対応する実物記録がありません」
帳簿をめくる。
「同じ語の使い方です」
領地で総勘定元帳に出てきた“調整費”“補填費”と同じ匂い。説明しているようで何も説明していない言葉。曖昧さの避難所。
セシルがその頁を見た瞬間、息をのんだ。
はっきりとわかるほどだった。
白い指先が紙の縁で止まり、喉が小さく上下する。何かを知っている顔。あるいは、ずっと気づかぬふりをしてきた限界が近い顔。
だが彼女は何も言わない。まだ言えないのだろう。
「続けて」
ヘンリエッテの声が少し低くなる。
警戒している。だが感情的に退ける気配は薄れた。数字で話す相手には、彼女もまた数字で応じる構えへ入りつつある。
「寄付箱の回収記録と、納入控えの間に一段あります」
レティシアは言った。
「回収時点では銀貨の枚数で記され、納入段階では重量換算か、まとめ額へ変換されている。そこに曖昧さが入ります」
「それが?」
「同じ善意でも、箱に入った時の金と、帳面に載る時の金が別物になり得るということです」
レティシアは二冊の帳簿を並べた。
「こちらは人へ見せるための流れ。こちらは実際に金を動かすための流れ。完全に一致していない以上、途中で抜かれた可能性を考えるべきでしょう」
ヘンリエッテは黙って帳簿へ目を落とした。公爵夫人の沈黙は、無知ではなく計算だ。誰に責を置くか、どこまでを認めるか、今ここで何を言えば自分の立場に損か得かを測っている。
「中抜きと仰るの?」
ようやく彼女が問う。
「現段階では、記録の曖昧化と二重帳簿の疑いです」
レティシアは言葉を選んだ。
「ですが結果として、寄付箱の記録より整理帳の計上額が継続的に少ないのであれば、消えた銀貨があると見るのが自然です」
その言い方なら、まだ引き返せる。断定ではない。だが逃げ道ばかりも残さない。
「慈善会の名に泥を塗るようなことを、軽々しく言うべきではありませんわ」
ヘンリエッテの声音が少しだけ鋭くなる。
最初の警戒が、かすかに反発へ戻る。だがそれも当然だ。慈善は彼女の顔の一部でもある。そこに傷がつけば、善意だけでなく威信まで揺らぐ。
レティシアは視線を逸らさなかった。
「だからこそ、軽々しく曖昧にしてはなりません」
そして、はっきりと言う。
「善意を曖昧にする帳簿が一番悪質です」
その一言が、部屋の中央へ静かに落ちた。
怒鳴ったわけではない。責める調子でもない。ただ、記録を見て導かれる結論として言い切っただけだ。だからこそ重い。
セシルがびくりと肩を震わせる。
彼女は帳簿の綴じ目を見たまま、しばらく顔を上げられなかった。同じ綴じ紐。その揃え方。中身のずれ。おそらく、彼女には見覚えがあるのだ。あるいは別の場所で、同じ手口を見たのかもしれない。
だが、まだ告白には至らない。
限界は近い。そう見えるだけ。
ヘンリエッテは長く黙っていたが、やがて片方の帳簿を自分の前へ引き寄せた。
「……対応を検討いたします」
完全な味方の声ではない。
だが、最初の“警戒して追い返す”姿勢とは違う。感情論ではなく、記録の食い違いとして処理すべきものがあると認めた声だった。
「まず、寄付箱の回収立会人と、整理帳の転記担当を分けて確認しますわ」
「それがよろしいかと」
「あなたも同席なさい、セシル」
突然名を呼ばれ、セシルが顔を上げる。
「はい……」
声がかすれていた。
「記録の綴じ方も含めて、もう一度見直します」
その“綴じ方”という言葉に、セシルの指先がわずかに震える。理由はまだ語らない。語れない。だが、この場にいる全員が、彼女がただの補助係ではない何かを抱えていると感じるには十分だった。
レティシアは帳簿を閉じた。
領地で見たのと同じ手口。
曖昧な名目。二重の記録。善意の顔をした金の抜け道。
王都へ来てから拾ってきた違和感が、またひとつ同じ川へ流れ込む音がした。輸送、徴税、百貨祭、慈善会計。場所も名目も違うのに、手口の骨が似ている。
この都では、不正は豪奢な悪意の顔ばかりではない。
上品な帳簿の綴じ紐と、寄付箱の記録の端数の中にも棲んでいる。
そして今、セシルの沈黙が、その奥にまだ別の何かがあることを告げていた。




