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婚約破棄で破滅予定の悪役令嬢ですが、赤字領地を黒字にしてみせます  作者: gachapin2223


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第34話 元婚約者は数字が読めない

王城の会計報告室は、社交界の広間とは別種の息苦しさを持っていた。


飾り気の薄い高い天井。磨かれた床。壁際に並ぶ書記机。窓から入る光は明るいのに、部屋の空気だけが妙に乾いている。ここでは笑顔より記録がものを言い、噂より署名が残る。


レティシアはその空気を嫌いではなかった。


少なくとも、誰かの機嫌ひとつで事実の輪郭が変わる場所ではない――そう見えるだけ、社交界よりはましだった。


年次会計報告のために設けられた控えの間では、各家の関係者たちが順に呼ばれるのを待っている。書類の束を抱えた者、補足説明の文言を最後まで確認している者、ただ居眠りを噛み殺している者。関心の向きは様々だが、皆どこか“数字を通す場”特有の緊張をまとっていた。


その中で、レティシアは不意に足を止める。


見覚えのある後ろ姿があった。


濃紺の礼装。癖のない姿勢。人の目を意識して整えられた立ち方。


アルノルトだった。


元婚約者。


断罪の夜以来、真正面から顔を合わせるのは初めてに近い。王都へ戻ると決めた時から、いずれこういう場面はあるとわかっていた。だから驚きはない。ただ、身体のどこかが昔の記憶を呼び起こしかける。


断罪の夜。


人の視線が渦を巻く中で、アルノルトが何かを言いかけたことを、レティシアはふと思い出した。


君はいつも……いや、もう遅い


あの時、彼は何を言いかけたのか。


考えても仕方のないことだと、レティシアはすぐにその記憶を脇へ置いた。今この場で必要なのは過去の解釈ではない。現在の数字だ。


「レティシア」


先に気づいたのはアルノルトの方だった。


驚いたような、それでいて驚いた顔を見せまいとするような声音。彼は一瞬だけ言葉を選び、それから昔の癖のまま、どこか相手を導く立場の口調で続けた。


「王都へ戻っていたのか」


「ええ。年次会計報告のために」


「聞いている」


そこでアルノルトは、わずかに視線を細めた。


「最近、茶会や百貨祭でも名前が出ているそうだな」


「王都は噂が早うございますから」


「……ずいぶん器用に立ち回っているようだ」


その言い方に棘はある。だが、露骨な侮辱ではない。むしろ、自分でもどう評価すべきか決めきれていない人間の声だった。


「立ち回るつもりはありません」


「だが、見せ方は心得たらしい」


見せ方。


ダミアンの言葉が一瞬だけ脳裏をよぎる。数字は事実だが、事実にも見せ方がある。あの穏やかな牽制と、今目の前にいるアルノルトの不器用な刺し方は、似ているようでまるで違う。


ダミアンは仕組みを守るために理屈を使う。


アルノルトは、自分の理解の外にあるものを、ひとまず軽く見積もろうとしているだけだ。


「見せ方というより、見落とされていたものを整えただけです」


レティシアが答えると、アルノルトは一拍遅れて鼻で笑うような息を漏らした。


「茶会で予算表を正したことか。ああいう場では、確かに受けるだろうな」


「受けを狙ったつもりはございません」


「だが結果として、才覚があるように見えた」


そこまで来て、ようやく本題が顔を出した。


見せかけの才覚。


一時の受け狙い。


たぶん彼は最初からそう言いたいのだ。だが露骨に言い切るほどの確信はない。だから遠回りになる。


レティシアは相手の逃げ道を見た上で、それをわざわざ塞ぎにはいかなかった。


「本日は会計報告の場です」


「わかっている」


「でしたら、印象ではなく数字でお話しください」


アルノルトの眉がわずかに動いた。


ちょうどその時、書記官がこちらへ来て、侯爵家関連の補足資料提出を促した。レティシアは机へ移り、持参した控えの束を開く。領地の収支整理、パン屋の改善後の損益比較、慈善寄付会の予算是正結果の簡易一覧。どれも派手ではないが、数字として積み上がるものばかりだ。


その場で示された数字の一覧。


紙の上へ整然と並んだ値は、感情より容赦がない。


書記官の確認に応じながら、レティシアは必要な箇所だけを指した。


「こちらが領地内小売部門の収支改善前後です。事業別では黒字化していたにもかかわらず、総勘定元帳側で調整費として相殺されていたため、実態との差が出ておりました」


「調整費?」


別の補佐官が首を傾げる。


「ええ。月別で比較すると、同額に近い補填項目が重なっております」


さらに一枚。


「こちらは寄付会予算の是正結果です。印刷費、装花費、予備費の重複を除いたところ、当初案より一割強圧縮できました」


書記官が思わず紙を引き寄せる。


「一割強、ですか」


「はい。内訳を分ければ、むしろ自然な結果です」


アルノルトは横で黙っていた。


口を挟む機会はある。だが、挟むなら具体でなければならない。印象論では、この場の乾いた机に乗らないからだ。


「百貨祭の出荷証とも照合しました」


レティシアは続ける。


「領地産品の王都側仮価格は、領内換算より大きく上振れております。にもかかわらず、還元額は帳面上で不相応に薄い。現段階では継続確認が必要ですが、価格差の説明には追加資料を要します」


その説明に、周囲の視線が少し変わる。


“令嬢が多少数字に明るい”では済まない。


少なくとも、報告資料を読んで比較し、異常値を拾い、補足説明へ落とし込むだけの能力がある。そう認識し直す目だ。


アルノルトはそれを感じているはずだった。


視線が一度、紙へ落ちる。


次いでレティシアの指先へ。


そしてまた紙へ。


口を開きかけて、閉じる。


沈黙。


その沈黙自体が、小さな変化だった。以前の彼なら、理解できぬものでも勢いで押し切ろうとしたかもしれない。だが今は違う。数字の前で、自分が十分に反論できないことを、少なくとも感覚では悟っている。


「……君は」


ようやくアルノルトが言った。


声は先ほどまでより低い。


「君は、なぜいつもそうまで具体的なんだ」


レティシアは顔を上げる。


責めるような口調ではなかった。苛立ちもある。だがそれだけではない。理解できないものへの戸惑いと、少しばかりの劣等感が混じっている。


「具体でなければ、確認できませんから」


レティシアは淡々と答えた。


「誤解も、言い逃れも、曖昧さの中で育ちます」


アルノルトの喉がわずかに動く。


その目にあるのは怒りではない。もっと扱いにくい種類の感情だった。過去の判断が正しかったのか、今さら疑い始めた人間の不格好な揺れ。だが、その疑いに自分でまだ形を与えられない未熟さ。


レティシアはそれ以上、何も求めなかった。


謝罪も、理解も、後悔も。


今ここでそれらは不要だった。必要なのは、誰がどれだけ数字を読めるかという事実だけだ。


書記官が咳払いをひとつして、提出資料をまとめる。


「補足説明、確認いたしました。こちらは追って照会をかけます」


「お願いいたします」


レティシアが一礼すると、周囲の補佐官たちも資料を見直すように目を落とした。


アルノルトだけが、その場に取り残されたように立っている。


視線は逸らさない。けれど先ほどのように軽く切り捨てることもできない。その不完全な沈黙が、かえって彼の中で何かが崩れ始めていることを示していた。


元婚約者は、数字が読めない。


少なくとも、今この場で必要とされる読み方はできない。


そしてその差は、感情ではなく能力として、誰の目にも見える形で机の上に置かれてしまった。


レティシアは資料を閉じた。


胸の内は、不思議なほど静かだった。怒りもない。勝ち誇る気分もない。ただ、昔なら届かなかったはずの場所へ、自分の言葉と数字が届いた。その手応えだけがある。


控えの間を出る時、背後でアルノルトが何か言いかけた気配がした。


けれど結局、言葉にはならなかった。


その沈黙を、レティシアは振り返らずに聞き流した。

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