第32話 嫌われ令嬢の再会計
王都へ着いた翌々日、レティシアはさっそく社交界の洗礼を受けた。
招かれたのは、秋の慈善寄付会を控えた小規模な茶会だった。名目は親睦、実際は顔合わせと品定め。侯爵家ゆかりの未婚令嬢や若い夫人たちが集まり、紅茶と菓子を前に、互いの噂をやわらかな笑みでやり取りする。
その空気を、レティシアは忘れていなかった。
甘い菓子の香り。陶器の触れ合うかすかな音。楽しげな声の下を流れる、値踏みと確認。誰がまだ語る価値を持ち、誰がすでに“終わった令嬢”として棚に上げられているのかを、目配せひとつで決めてしまう場。
レティシアが姿を見せた瞬間、その場の会話は一度だけ、あからさまに細くなった。
「まあ」
「本当にいらしたのね」
「年次会計報告のためと聞きましたけれど……」
囁きは小さい。だが、聞こえぬほど小さくはない。
レティシアは何も言わず、勧められた席へ着いた。淡い灰青のドレスは華美ではないが、地味すぎもしない。今の彼女には、その“飾りすぎなさ”の方が似合っていた。
向かい側には、アーデルハイトが座っている。
ふんわりとした桃色のドレスに宝石細工の髪飾り。王都育ちらしい愛らしさのある顔立ちだが、その目には隠しきれぬ優越があった。レティシアの噂を、たぶん都合のよい形で長く信じてきた目だ。
その少し隣に、セシルの姿もあった。
以前より大人びた装いをしているのに、不思議と落ち着いて見えない。レティシアが一度だけ視線を向けると、セシルはすぐにそれを受け止めた。だが次の瞬間には、まるで火傷でもしたかのように視線を落とす。
手元のティーカップが、わずかに揺れた。
セシルの少し震えるティーカップ。
ほんの小さな震えだ。けれど、レティシアは見逃さなかった。罪悪感を隠そうとする人間は、往々にして目より先に指先が揺れる。
「王都はお久しゅうございますわね、レティシア様」
アーデルハイトが、花弁でも置くような軽やかさで言った。
「ええ。しばらく離れておりましたので」
「そうでしょうとも。あのあと、なかなかお見かけしませんでしたもの」
にこやかなまま、周囲の何人かが小さく笑う。
悪意をむき出しにはしない。だが、皆が共有している“過去の評判”をなぞるには、それで十分だった。
「それで、今は領地を?」
「ええ。少し」
「まあ、立派ですこと」
言葉は褒めている。けれど、響きは明らかに違った。田舎へ引っ込んだ娘が、帳面遊びでも覚えて戻ってきた――その程度に見ている声音だ。
レティシアは紅茶へ手を伸ばし、わざと急がず一口飲んだ。
焦れるのは向こうでよい。
ほどなくして、主催側の若い伯爵夫人が、「そうだわ」と明るく声を上げた。
「皆さまに、今年の寄付会の予算表をご覧いただこうと思っておりましたの」
差し出されたのは、数枚にまとめられた茶会の予算表だった。会場装花、給仕人件費、印刷代、寄付先配分、協賛金、予備費。要するに、今年の慈善会の見積もりと前年実績を比べたものらしい。
「レティシア様もご覧になります?」
誰かが面白がるように言う。
「領地で数字を扱っていらっしゃるのでしょう?」
「せっかくですもの、感想を伺いたいわ」
その場の空気が、少しだけ期待を含んだ。
失敗すれば笑える。黙っていれば“やっぱりその程度”で済む。どちらへ転んでも、自分たちは安全だと思っている顔だ。
レティシアは予算表を受け取った。
ざっと目を通す。
一見、整っている。だが整い方が浅い。前年実績と今年予算の並びに、妙に歪な箇所があった。印刷費が増えているのに招待状の発行数は減っている。装花費は一割増しなのに、会場規模は据え置き。さらに寄付先配分の総額と協賛金の見込みが、どう計算しても噛み合わない。
「いかがかしら?」
アーデルハイトが先に言った。
「難しすぎました?」
そこで、何人かが控えめに笑う。
レティシアは紙から顔を上げた。
「いいえ。難しくはありません」
部屋の空気が、ほんの少し止まる。
「では、どのあたりが気になりますの?」
伯爵夫人が無邪気を装って尋ねる。
レティシアは予算表の二段目を指した。
「まず、印刷費です。前年より招待状の枚数が減っているのに、単価補正の記載がなく、総額だけが上がっております」
「それは紙代が高くなったのではなくて?」
アーデルハイトが口を挟む。
「その場合は紙質変更か単価改定の注記が必要です。ですが、こちらにはありません」
さらに一枚めくる。
「次に装花費。会場規模が変わらないのに、前年より一割以上増えています。季節花材の高騰だとしても、予備費の計上と重複していますわね」
「まあ……」
誰かが小さく声を漏らした。
レティシアは止まらない。
「それから寄付先配分です。協賛金見込みと参加費収入、雑収入を合算しても、こちらの総支出額とは端数まで一致しておりません。誰かが途中で別表を見ずに写したか、あるいは前年の数値をそのまま残しています」
静かに言い切ると、紙を持つ伯爵夫人の指が固まった。
「そんな……」
「確認なさるとよろしいでしょう」
レティシアは穏やかに返した。
「慈善の会ですもの。名目が善意であればあるほど、予算は曖昧にしない方がよろしいかと」
沈黙が落ちる。
紅茶の香りも、先ほどまでの囁きも、急に遠くなったようだった。嘲笑を浴びせるつもりで差し出した予算表が、逆に自分たちの杜撰さを照らしてしまったのだ。
アーデルハイトが最初に口を開いたが、さすがに先ほどまでの軽さはない。
「……相変わらず、数字のお話ばかりですのね」
嘲笑のつもりで吐かれたその言葉は、けれど少しだけ力が足りなかった。
レティシアは正面から受け止める。
「ええ。数字は、見ないふりをしてくれませんもの」
アーデルハイトの唇が、わずかに引きつる。
その横で、セシルがまたティーカップへ手を伸ばした。だが今度は持ち上げきれず、受け皿へ戻す。白い磁器が触れ合って、小さな音が鳴った。
レティシアが何気なく視線を向けると、セシルはまた目を伏せた。
やはり、何かを知っている。
あるいは、かつて何かに加担したことを悔いているのかもしれない。だが今この場で追うべきはそこではない。
「もう一度、計算し直した方がよろしいでしょうね」
別の年長の夫人が、予算表を覗き込みながら言った。
「寄付先に失礼があってはいけませんし」
「たしかに……」
「前年の控えはどなたがお持ちなのかしら」
空気が変わり始める。
先ほどまで“嫌われ令嬢”を眺める側だった視線が、少しずつ紙の方へ向いていく。噂よりも、目の前で指摘された矛盾の方が重くなったのだ。
レティシアはそれ以上、言葉を重ねなかった。
必要な分だけ切り込み、あとは黙る。そうした方が、聞いた者の中に残る。
やがて、控えていた侍女たちの間でさえ、ひそやかな囁きが生まれた。
「本当に見抜いたのね」
「一目で?」
「ただの気難しい方ではなかったのだわ」
それはまだ小さな波だった。
悪評を塗り替えるほど大きくはない。婚約破棄と断罪の記憶は、王都ではそう簡単に消えない。けれど、その悪評の裏側に、別の札が貼られ始めたのをレティシアは感じた。
本当に数字が読める令嬢。
その評判は、社交界では時に美貌より厄介で、時にずっと強い。
茶会の終わり、レティシアが席を立つとき、先ほどまで露骨だった視線の幾つかは、もうあからさまな嘲りではなかった。警戒、測り直し、あるいはわずかな敬意。そのどれであれ、以前とは違う。
王都へ戻った最初の一手としては、悪くない変化だった。




