第31話 社交界へ、再入場
黒幕は一人ではない。
あの夜、机の上に並べた複数帳簿と、赤い糸のように置かれた紐の先で見えたその構図は、翌朝になっても少しも薄れなかった。
輸送、徴税、仕入れ、宮廷調達。
領地の中でばらばらに起きているように見えた歪みは、結局どれも同じ川下へ流れていた。ダミアンという理屈の顔、ゲオルクという署名の顔、カミルという商会の顔、そして王都側で記録を通す何者か。領地だけを掘っても、もうこの先へは届かない。
だから行くしかない。
王都へ。
その結論は、理屈の上では昨日のうちに固まっていた。だが、決意というものは紙の上で整うだけでは足りない。実際にその地名を口にし、そこへ向かう支度を始めた時、ようやく胸の奥のどこかが静かに震える。
王都。
かつてレティシアが婚約破棄を言い渡され、皆の前で断罪された場所。
笑い声、視線、絹の擦れる音、見下ろすような沈黙。忘れたつもりはなかったが、思い出そうとしなくても身体の方が覚えている。
それでも今度は違う。
呼び戻されるのではない。追われるのでもない。
自分の意思で戻るのだ。
それだけで、もう最初の意味があるとレティシアは思った。
「お嬢様、こちらが届いております」
朝食後、マルガレーテが銀盆の上に一通の封書を載せて持ってきた。厚みのある上質紙に、王都の会計院で用いる封蝋印。差出人を見た瞬間、レティシアは目を細める。
「正式な招集ですか」
「はい。年次会計報告に関するもののようでございます」
封を切って中を開く。
文面は簡潔だった。王都で行われる年次会計報告にあたり、地方領地の会計資料および補足説明のため、侯爵家関係者の出席を求める――という正式な招集状である。名義上は家のための出席だが、レティシアにはそれ以上の意味があった。
王都行きの招待状。
その紙は軽いのに、指先へ伝わる重みは妙に確かだった。
「ちょうどよい口実ですね」
レティシアが言うと、マルガレーテはわずかに頷く。
「“口実”で済めばようございますが」
「済ませます」
即答すると、侍女頭の口元がほんの少しだけ和らいだ。
王都へ戻ること自体が、もう逆襲になる。
そう思えたのは、以前の自分とは違う場所まで来たからだろう。あの頃のレティシアは、与えられた舞台で裁かれる側だった。けれど今は違う。帳簿を読み、差分を拾い、偽印章と独占契約を線で結び、王都に流れる金の気配まで掴んだ。
同じ場へ戻るとしても、立つ位置が違う。
昼前、王都行きの準備を始めようとしたところで、案の定ゲオルクが姿を見せた。
「レティシア、少し話せるかな」
丸め込むように柔らかな声だった。だが、昨夜までの一連のことを知った今となっては、その柔らかさ自体がひとつの構えに見える。
「ええ、伯父様」
応接間へ通すと、ゲオルクはまず部屋の空気を確かめるように周囲を見た。誰がいるか、何が置いてあるか、無意識に測っている目だ。ルカは表に出していないが、隣室で荷造りの確認をしている。マルガレーテもあえて少し離れた位置に控えた。
「それで、その招集状なんだが」
ゲオルクは椅子へ腰を下ろしながら言った。
「今さら王都へ出る必要があるかい?」
原文のまま落ちたその一言は、心配の形をしていながら、内実では別のものを含んでいた。
「必要はございます」
レティシアは静かに答える。
「年次会計報告は侯爵家に関わる正式な招集です。わたくしが行くことに、不自然はありません」
「それはそうだが……お前にとって、あまり気分のいい土地ではないだろう」
言いながら、ゲオルクは笑顔を保とうとする。だが、机の上に置かれた彼の手が、思いのほか硬く握られていた。
硬く握られたゲオルクの手。
節が白くなるほどではない。けれど、力が入っている。表面上の穏やかさと裏腹に、その手だけが本音を語っていた。
「お心遣い、ありがとうございます」
レティシアは王都行きの招待状を机上に置いた。
「ですが、避けて済む時期はもう過ぎました」
「避ける、というよりだね」
ゲオルクはやや早口になる。
「王都の社交界は、相変わらず口さがない。昔のことを蒸し返す者もいるだろう。傷つくのはお前だ」
心配している伯父の口調だ。
実際、昔のレティシアならそれに足を止めたかもしれない。断罪された場所へ戻ることは、それだけで呼吸を狭めるような行為だったから。
けれど今、その言葉は別の意味を帯びて聞こえる。
傷つくことを恐れているのは、本当に自分だろうか。
それとも、王都の舞台で自分が口を開くことそのものを、ゲオルクは恐れているのではないか。
「伯父様」
レティシアは相手の目をまっすぐ見た。
「わたくしは、もう昔のままではございません」
ゲオルクの笑みが、ほんのわずかに止まる。
「それは、もちろん成長したという意味でだね」
「ええ。数字の読み方も、沈黙の意味も、以前よりは」
柔らかく言ったつもりだったが、相手の指先にはさらに力が入った。
王都へ戻ること自体が逆襲。
その実感は、この反応だけでも十分だった。もし本当にどうでもよいなら、伯父はここまで止めようとしない。表向きは心配しているふりをしていても、内心ではレティシアが王都で何を掴み、誰に何を見せるかを恐れている。
「お前は少し、最近、熱が入りすぎている」
ゲオルクが声を落とす。
「領地の再建に熱心なのは良いことだ。パン屋の件など、見事だった。だが家のことは家の中で片づけるべきだろう?」
その言い方で、レティシアの中の何かが静かに定まった。
やはり知っている。
すべてではなくとも、“家の中で片づけたい何か”があると認めている。
「家の中で片づくものなら、そうしていたでしょう」
レティシアは微笑みもせずに答えた。
「ですが、すでに家の中だけの話ではありません」
輸送、徴税、仕入れ、宮廷調達。
あの机の上に置いた赤い糸の先は、もう領地を越えて王都へ向いていた。
ゲオルクの目が一瞬だけ揺れる。
「何の話だい」
「年次会計報告の話です、伯父様」
あえてそこへ戻すと、彼は苦く口を閉じた。
正面から問われるのを嫌がる人間の沈黙だった。昔のレティシアなら、その曖昧さの前で躊躇したかもしれない。だが今は違う。沈黙そのものが答えになる場面を、彼女はもう何度も見てきた。
「随員はどうするつもりだ」
話題を変えるようにゲオルクが言う。
「最小限で参ります。表向きは資料整理のための同行者として」
その返答に、ゲオルクはわずかに眉を寄せた。
「まさか、あの帳場上がりの若者を連れていくのではあるまいね」
「ルカは有能です」
「有能かどうかではなく、王都の場にふさわしいかという話だよ」
「ふさわしさは、わたくしが決めます」
ぴたりと返すと、伯父はまた口元だけで笑った。
怒鳴らない。だが納得もしていない。むしろ、こちらが誰を傍に置くかにまで神経を尖らせているのがわかる。
ルカの同行を嫌がる理由は単純だ。彼は帳場と倉庫と現場を知っている。王都の煌びやかな場へ連れていけば浮くかもしれない。けれど、だからこそ見落とされずに済むものもある。レティシアはそれを手放すつもりはなかった。
「レティシア」
ゲオルクが最後に、少しだけ本音に近い声音で言った。
「王都という場所は、戻れば勝てるほど甘くない」
「承知しております」
「お前が思うより、ずっと」
「ええ。ですから、今度は準備をして参ります」
短いやり取りのはずなのに、部屋の空気は妙に張っていた。
ゲオルクはそれ以上止めきれないと悟ったのか、やがて立ち上がった。だが去り際、招待状へ落ちた視線だけは明らかに硬かった。あの一通が、ただの紙ではないと知っている目だ。
扉が閉まると、隣室からルカが姿を見せた。
「ずいぶん渋ってましたね」
「ええ」
レティシアは素直に認めた。
「王都へ戻ること自体、伯父様には都合が悪いのでしょう」
「怖いんですね」
ぶっきらぼうな言い方だったが、要点はそこだった。
王都の舞台でレティシアを恐れている。
かつて婚約破棄で断罪された娘が、今度は会計資料と疑念を抱えて戻る。そのこと自体が、ゲオルクにとって脅威なのだ。
レティシアは王都行きの招待状を取り上げ、指先で端をなぞった。
あの日、自分は同じ王都の空気の中で、言葉を奪われる側だった。
けれど今は違う。
戻る理由がある。持ち帰るべき答えがある。見抜くべき数字がある。そして、自分の意思で足を踏み入れる。
その違いは大きかった。
「行きましょう」
レティシアが言うと、ルカはすぐに頷いた。
「はい」
「今度は、追われてではなく」
「自分で、ですね」
「ええ」
王都へ向かう支度は、単なる旅支度ではなかった。帳簿の写し、比較表、契約書の控え、必要最低限の衣装、見せる用の資料、隠す用の紙。それらを分け、重ね、持ち運ぶ順番まで決める。
社交界へ、再入場する。
それは舞踏会の華やかな響きとは違う。もっと静かで、もっと鋭い意味を持つ言葉だった。
かつて断罪された場へ、自分の意思で戻る。
その一歩目だけで、もう以前のレティシアではないと示せる。
窓の外には、夏の終わりを告げる薄曇りの空が広がっていた。遠い王都の石畳と、人々の視線と、会計院の乾いた紙の匂いを思い浮かべても、今は不思議と足がすくまない。
怖くないわけではない。
けれど、怖さより先に、行く理由の方がはっきりしている。
レティシアは招待状を折りたたみ、旅支度の箱へ自ら収めた。
それはかつて傷の残った場所への切符であると同時に、今度こそ自分の手で盤面へ戻るための、最初の札でもあった。




