↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄で破滅予定の悪役令嬢ですが、赤字領地を黒字にしてみせます  作者: gachapin2223


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/51

第31話 社交界へ、再入場

黒幕は一人ではない。


あの夜、机の上に並べた複数帳簿と、赤い糸のように置かれた紐の先で見えたその構図は、翌朝になっても少しも薄れなかった。


輸送、徴税、仕入れ、宮廷調達。


領地の中でばらばらに起きているように見えた歪みは、結局どれも同じ川下へ流れていた。ダミアンという理屈の顔、ゲオルクという署名の顔、カミルという商会の顔、そして王都側で記録を通す何者か。領地だけを掘っても、もうこの先へは届かない。


だから行くしかない。


王都へ。


その結論は、理屈の上では昨日のうちに固まっていた。だが、決意というものは紙の上で整うだけでは足りない。実際にその地名を口にし、そこへ向かう支度を始めた時、ようやく胸の奥のどこかが静かに震える。


王都。


かつてレティシアが婚約破棄を言い渡され、皆の前で断罪された場所。


笑い声、視線、絹の擦れる音、見下ろすような沈黙。忘れたつもりはなかったが、思い出そうとしなくても身体の方が覚えている。


それでも今度は違う。


呼び戻されるのではない。追われるのでもない。


自分の意思で戻るのだ。


それだけで、もう最初の意味があるとレティシアは思った。


「お嬢様、こちらが届いております」


朝食後、マルガレーテが銀盆の上に一通の封書を載せて持ってきた。厚みのある上質紙に、王都の会計院で用いる封蝋印。差出人を見た瞬間、レティシアは目を細める。


「正式な招集ですか」


「はい。年次会計報告に関するもののようでございます」


封を切って中を開く。


文面は簡潔だった。王都で行われる年次会計報告にあたり、地方領地の会計資料および補足説明のため、侯爵家関係者の出席を求める――という正式な招集状である。名義上は家のための出席だが、レティシアにはそれ以上の意味があった。


王都行きの招待状。


その紙は軽いのに、指先へ伝わる重みは妙に確かだった。


「ちょうどよい口実ですね」


レティシアが言うと、マルガレーテはわずかに頷く。


「“口実”で済めばようございますが」


「済ませます」


即答すると、侍女頭の口元がほんの少しだけ和らいだ。


王都へ戻ること自体が、もう逆襲になる。


そう思えたのは、以前の自分とは違う場所まで来たからだろう。あの頃のレティシアは、与えられた舞台で裁かれる側だった。けれど今は違う。帳簿を読み、差分を拾い、偽印章と独占契約を線で結び、王都に流れる金の気配まで掴んだ。


同じ場へ戻るとしても、立つ位置が違う。


昼前、王都行きの準備を始めようとしたところで、案の定ゲオルクが姿を見せた。


「レティシア、少し話せるかな」


丸め込むように柔らかな声だった。だが、昨夜までの一連のことを知った今となっては、その柔らかさ自体がひとつの構えに見える。


「ええ、伯父様」


応接間へ通すと、ゲオルクはまず部屋の空気を確かめるように周囲を見た。誰がいるか、何が置いてあるか、無意識に測っている目だ。ルカは表に出していないが、隣室で荷造りの確認をしている。マルガレーテもあえて少し離れた位置に控えた。


「それで、その招集状なんだが」


ゲオルクは椅子へ腰を下ろしながら言った。


「今さら王都へ出る必要があるかい?」


原文のまま落ちたその一言は、心配の形をしていながら、内実では別のものを含んでいた。


「必要はございます」


レティシアは静かに答える。


「年次会計報告は侯爵家に関わる正式な招集です。わたくしが行くことに、不自然はありません」


「それはそうだが……お前にとって、あまり気分のいい土地ではないだろう」


言いながら、ゲオルクは笑顔を保とうとする。だが、机の上に置かれた彼の手が、思いのほか硬く握られていた。


硬く握られたゲオルクの手。


節が白くなるほどではない。けれど、力が入っている。表面上の穏やかさと裏腹に、その手だけが本音を語っていた。


「お心遣い、ありがとうございます」


レティシアは王都行きの招待状を机上に置いた。


「ですが、避けて済む時期はもう過ぎました」


「避ける、というよりだね」


ゲオルクはやや早口になる。


「王都の社交界は、相変わらず口さがない。昔のことを蒸し返す者もいるだろう。傷つくのはお前だ」


心配している伯父の口調だ。


実際、昔のレティシアならそれに足を止めたかもしれない。断罪された場所へ戻ることは、それだけで呼吸を狭めるような行為だったから。


けれど今、その言葉は別の意味を帯びて聞こえる。


傷つくことを恐れているのは、本当に自分だろうか。


それとも、王都の舞台で自分が口を開くことそのものを、ゲオルクは恐れているのではないか。


「伯父様」


レティシアは相手の目をまっすぐ見た。


「わたくしは、もう昔のままではございません」


ゲオルクの笑みが、ほんのわずかに止まる。


「それは、もちろん成長したという意味でだね」


「ええ。数字の読み方も、沈黙の意味も、以前よりは」


柔らかく言ったつもりだったが、相手の指先にはさらに力が入った。


王都へ戻ること自体が逆襲。


その実感は、この反応だけでも十分だった。もし本当にどうでもよいなら、伯父はここまで止めようとしない。表向きは心配しているふりをしていても、内心ではレティシアが王都で何を掴み、誰に何を見せるかを恐れている。


「お前は少し、最近、熱が入りすぎている」


ゲオルクが声を落とす。


「領地の再建に熱心なのは良いことだ。パン屋の件など、見事だった。だが家のことは家の中で片づけるべきだろう?」


その言い方で、レティシアの中の何かが静かに定まった。


やはり知っている。


すべてではなくとも、“家の中で片づけたい何か”があると認めている。


「家の中で片づくものなら、そうしていたでしょう」


レティシアは微笑みもせずに答えた。


「ですが、すでに家の中だけの話ではありません」


輸送、徴税、仕入れ、宮廷調達。


あの机の上に置いた赤い糸の先は、もう領地を越えて王都へ向いていた。


ゲオルクの目が一瞬だけ揺れる。


「何の話だい」


「年次会計報告の話です、伯父様」


あえてそこへ戻すと、彼は苦く口を閉じた。


正面から問われるのを嫌がる人間の沈黙だった。昔のレティシアなら、その曖昧さの前で躊躇したかもしれない。だが今は違う。沈黙そのものが答えになる場面を、彼女はもう何度も見てきた。


「随員はどうするつもりだ」


話題を変えるようにゲオルクが言う。


「最小限で参ります。表向きは資料整理のための同行者として」


その返答に、ゲオルクはわずかに眉を寄せた。


「まさか、あの帳場上がりの若者を連れていくのではあるまいね」


「ルカは有能です」


「有能かどうかではなく、王都の場にふさわしいかという話だよ」


「ふさわしさは、わたくしが決めます」


ぴたりと返すと、伯父はまた口元だけで笑った。


怒鳴らない。だが納得もしていない。むしろ、こちらが誰を傍に置くかにまで神経を尖らせているのがわかる。


ルカの同行を嫌がる理由は単純だ。彼は帳場と倉庫と現場を知っている。王都の煌びやかな場へ連れていけば浮くかもしれない。けれど、だからこそ見落とされずに済むものもある。レティシアはそれを手放すつもりはなかった。


「レティシア」


ゲオルクが最後に、少しだけ本音に近い声音で言った。


「王都という場所は、戻れば勝てるほど甘くない」


「承知しております」


「お前が思うより、ずっと」


「ええ。ですから、今度は準備をして参ります」


短いやり取りのはずなのに、部屋の空気は妙に張っていた。


ゲオルクはそれ以上止めきれないと悟ったのか、やがて立ち上がった。だが去り際、招待状へ落ちた視線だけは明らかに硬かった。あの一通が、ただの紙ではないと知っている目だ。


扉が閉まると、隣室からルカが姿を見せた。


「ずいぶん渋ってましたね」


「ええ」


レティシアは素直に認めた。


「王都へ戻ること自体、伯父様には都合が悪いのでしょう」


「怖いんですね」


ぶっきらぼうな言い方だったが、要点はそこだった。


王都の舞台でレティシアを恐れている。


かつて婚約破棄で断罪された娘が、今度は会計資料と疑念を抱えて戻る。そのこと自体が、ゲオルクにとって脅威なのだ。


レティシアは王都行きの招待状を取り上げ、指先で端をなぞった。


あの日、自分は同じ王都の空気の中で、言葉を奪われる側だった。


けれど今は違う。


戻る理由がある。持ち帰るべき答えがある。見抜くべき数字がある。そして、自分の意思で足を踏み入れる。


その違いは大きかった。


「行きましょう」


レティシアが言うと、ルカはすぐに頷いた。


「はい」


「今度は、追われてではなく」


「自分で、ですね」


「ええ」


王都へ向かう支度は、単なる旅支度ではなかった。帳簿の写し、比較表、契約書の控え、必要最低限の衣装、見せる用の資料、隠す用の紙。それらを分け、重ね、持ち運ぶ順番まで決める。


社交界へ、再入場する。


それは舞踏会の華やかな響きとは違う。もっと静かで、もっと鋭い意味を持つ言葉だった。


かつて断罪された場へ、自分の意思で戻る。


その一歩目だけで、もう以前のレティシアではないと示せる。


窓の外には、夏の終わりを告げる薄曇りの空が広がっていた。遠い王都の石畳と、人々の視線と、会計院の乾いた紙の匂いを思い浮かべても、今は不思議と足がすくまない。


怖くないわけではない。


けれど、怖さより先に、行く理由の方がはっきりしている。


レティシアは招待状を折りたたみ、旅支度の箱へ自ら収めた。


それはかつて傷の残った場所への切符であると同時に、今度こそ自分の手で盤面へ戻るための、最初の札でもあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。