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婚約破棄で破滅予定の悪役令嬢ですが、赤字領地を黒字にしてみせます  作者: gachapin2223


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第30話 黒幕は一人ではない

クルト・バウムの一件から二日、レティシアの周囲からは、曖昧な信用というものがいくつか静かに剥がれ落ちていた。


誰が味方で、誰がそうでないか。


それを言葉にして線引きすることは、屋敷に生きる者にとって思う以上に骨の折れる仕事だった。だが、泥のついた足跡と、ずれた花瓶と、荒らされた写し帳簿を見たあとでは、もう“気のせい”へ戻ることはできない。


ダミアンという表の顔がいる。


帳簿の見せ方を知り、穏やかな理屈で人を引かせる顔だ。


その一方で、クルトのような下男が使われる。賭け事の借金を肩代わりされた弱みを握られ、封もない紙を書斎前の小卓へ置かせる、屋敷の裏口みたいな役目だ。


だが、それでもまだ足りない。


クルトは末端だ。ダミアンは前面に立つが、それだけで輸送も徴税も仕入れも、さらに宮廷向けの調達まで一つに動くはずがない。


ならば、机の上へ全部出すしかない。


その夜、レティシアは自室に隣接する小さな応接間を閉め切り、中央の大きな机を空けさせた。壁際の装飾品は一時的に退け、燭台は四つ。窓はすべて厚布で覆う。扉の外にはマルガレーテが立ち、近づく足音をひとつ残らず拾う位置を取っていた。


室内には、レティシアとルカだけが残る。


「全部、出しますか」


ルカが抱えてきた包みを机へ置く。


「ええ。もう順番に見ているだけでは足りません」


レティシアは頷いた。


「線にします」


包みが開かれる。


机の上に並んだのは、これまで拾い集めてきた証拠の束だった。


パン屋の事業別損益をまとめた複写帳簿。


総勘定元帳との差分を書き抜いた控え。


徴税台帳の比較表と、イーダ・ノルデンの領収証の写し。


パウル・エーダーから預かった積載札の控えと、穀物輸送の記録。


前任会計官ハインリヒの古い配置換え辞令の写し、そして破れた記録用紙の断片。


ドレスナー商会との独占契約書の写し。


さらに、ヨアヒムが密かに持ち出しを許した宮廷調達記録の抜粋――侯爵家から王都へ納める品目と、その対価の流れを示す、ごく一部の控えだった。


机に並べた複数帳簿は、それぞれ紙質も文字も違う。


だが今夜だけは、みな同じ机の上にある。


「紐も」


レティシアが言うと、ルカが細い赤茶の紐を取り出した。もともとは帳面を綴じていた端糸の類だろう。色のせいか、机へ置くと赤い糸のように見えた。


「これで、つなぐんですね」


「ええ。見えている関係を、まず形に」


レティシアは最初に、パン屋の複写帳簿と総勘定元帳の差分控えを並べた。


ひとつの紐を、その二冊の間に置く。


「ここが始まりです」


「パン屋の黒字が残らない」


「ええ。現場は黒いのに、家計は赤い」


次に、総勘定元帳の“調整”“補填”“雑費”の欄へ対応するように、徴税台帳の比較表を横へ置いた。欄外手数料、冬道整備費、徴収手間賃。小さく上乗せされた金が、村ごとに静かに吸い上げられている。


紐がまた一本、机を横切る。


「こっちは下から集める金」


「さっきのは、上で消える金」


「そうです」


ルカが徴税台帳を見下ろしながら言う。


「入り口と出口、両方で抜かれてる」


「ええ。そして、その間に」


レティシアは輸送記録を持ってくる。積んだ数と着く数が規則的に減る便。荷札の控え。偽印章を見た夜の覚え書き。穀袋の封印の異常、袋口の縫い直し、蹄の泥。


その紙束へ、ハインリヒの断片を重ねる。


帳簿より荷印を見ろ。


「前任会計官は、ここへ辿り着いていた」


レティシアが低く言う。


「帳簿だけではなく、荷印――積載札、封印、印章の差異を見ろと」


「だから消えた」


ルカの声は抑えていたが、硬い。


「断定はできません」


「でも、近いです」


「ええ。近い」


紐が、徴税の束から輸送の束へ渡る。


集めた金だけではない。運んでいる品そのものも、途中で削られている。つまり不正は帳簿の内側だけでは完結していない。現物と紙が一体で動いている。


次に、レティシアは独占契約書の写しを机の中央へ置いた。


ドレスナー商会への専属供給契約。


供給、運搬、損耗免責を束ねた古い契約。署名欄にはゲオルクの名。


「ここが回路です」


レティシアが言う。


「輸送途中の減少が、ただの倉庫番のごまかしでは済まない理由」


ルカも頷く。


「商会が供給と運搬を握ってるから、途中で何が減っても“契約の中です”って顔ができる」


「その上、通常損耗の免責まである。偽印章と荷札のすり替えは、現場の細工ですが、細工が生きる土台はこの契約です」


赤い糸のような紐が、輸送記録から独占契約へ伸びる。


それは単なる演出のためではなく、見えにくかった構図を目の前に固定するためだった。一本、また一本と置くたびに、点が線になる。


「ゲオルク伯父様の署名」


レティシアはその名の上へ視線を落とした。


「けれど、伯父様一人でこの形を設計したとは思えません」


「無理です」


ルカは即答した。


「旦那様に、あそこまで隙のない条文は書けない」


遠慮のない物言いだが、実情としてその通りだった。ゲオルクは弱いわけではない。ただ、自分で回路を作るより、作られた回路に乗せられる側の人間に見える。


「では誰が設計したか」


レティシアは独占契約書の横へ、カミル・ドレスナーの持ち込んだ新しい契約草案の抜粋を置いた。文言の癖、曖昧さの置き方、損耗の逃がし口。古い契約と骨格が似すぎている。


「カミル」


「ええ。少なくとも、商会側の手です」


「横流しの出口も、たぶん商会」


「そう考えるのが自然でしょう」


紐がまた一本、独占契約と商会草案を結ぶ。


しかし、それでもまだ領地の中の構図だ。


領地が金を集める。


輸送で減る。


商会が握る。


だが先日レティシアが悟った通り、これだけでは王都の監査は動かない。村の上乗せ、倉庫番の不正、古い契約の悪用と切り分けられて終わる。


だから最後に、宮廷調達記録を机へ置く。


ルカがその紙を見て、少し眉をひそめた。


「これ、前より見え方が違いますね」


「ええ。単体ではただの納品控えに見えました。でも今、他と並べると」


宮廷向けの粉類、保存食、布地、冬期備蓄品。領地から王都へ送られた品目の一部と、その支払いの摘要。そこに、ドレスナー商会を経由する便がいくつか混ざっている。


しかも、領地側の仕入れ不足が出ている月と、宮廷調達の増額が重なる箇所があった。


「……ここか」


ルカが呟く。


「ええ」


レティシアはゆっくり言った。


「倉庫、徴税、宮廷調達……全部、同じ川下へ流れている」


その一言が落ちた瞬間、机の上の紙が別の顔を見せた気がした。


村から集められた欄外手数料。


輸送途中で削られた穀物。


独占契約で握られた仕入れと運搬。


それらが領地の中で霧のように消えているのではなく、もっと下流――商会を通り、宮廷調達という名目の中へ混じり込み、王都の利権に接続している。


「宮廷側にも、誰かいる」


ルカが低く言う。


「調達記録を触れる人間が」


「ええ。そうでなければ、この不自然な増額と不足の噛み合わせは説明しにくい」


「ダミアンだけでも、ゲオルクだけでもない」


「カミルだけでもありません」


レティシアは一本の紐を、ダミアンの名を書いた覚え書きから、ゲオルクの署名、ドレスナー商会、宮廷調達記録へと順に渡した。


赤い糸のように置かれた紐は、机の上で複雑に絡み合い、やがて一本の流れを描き始める。


その先で見えてくるのは、黒幕が一人ではないという事実だった。


財務官ダミアンは帳簿と理屈の顔。


ゲオルクは署名と借りの顔。


カミルは商会と横流しの顔。


そして王都側には、宮廷調達の記録を通せる誰かがいる。


現場の下男クルトは、その末端にぶら下げられた小さな手にすぎない。


「やっと、形になった」


ルカが言った。


その声には、安堵とも高揚ともつかない熱があった。


「今までは、どれも別々だった。帳面、荷札、税、契約……でも今は、同じ奴らの仕事に見える」


「ええ」


レティシアも頷く。


「手口は違っても、流している先が同じです」


彼女はしばらく、机の全体を見渡した。


パン屋の黒字が総勘定元帳に残らないことに気づき、荷馬車は途中で減り、税率は合法の顔をしたまま人を削り、古い独占契約と前任者の影を見つけ、夜の倉庫で偽印章を目撃し、ダミアンの牽制を受け、内通者を炙り出した。


全部が今、この机の上で一本の線になる。


胸の奥が熱くなるのを、レティシアは意外に思った。怒りでも焦りでもない。見えなかった構図が、ようやく輪郭を持った時の熱だった。


「お嬢様」


ルカが静かに呼ぶ。


「次は」


その問いに、レティシアは迷わなかった。


「王都です」


その二文字は、夜の部屋で妙に鮮明に響いた。


「領地の中だけを見ていては、この川下までは辿れません。宮廷調達の記録、その先の受け取り、商会の本帳、交際費の流れ……全部、向こうに続いている」


「危ないです」


「ええ」


「でも、ここで止めたら終わる」


「その通りです」


ルカは机の上の紐を見下ろし、ゆっくりと息を吐いた。


「じゃあ、おれも行きます」


反射のように出た言葉だった。ぶっきらぼうで、説明もない。けれど、その短さの中にある忠誠はもう隠れていなかった。


レティシアは少しだけ目を細めた。


「頼りにしています」


「はい」


それで十分だった。


扉の外で、マルガレーテが一度だけ控えめにノックをした。見張りの交代時間なのだろう。夜は更けている。だが、机の上の紙は今ようやく朝を迎えたようだった。


レティシアは最後に、赤い糸のような紐の交点を指先で押さえた。


ここだ。


領地と商会と王都が、一本の流れでつながる場所。


まだ名前はない。決定打も足りない。だが、探すべき先はもう曖昧ではなかった。


黒幕は一人ではない。


だからこそ、一人を倒して終わる話ではない。


この線の先へ行くしかないのだと、レティシアは静かに、そしてはっきりと理解していた。


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