第29話 敵は屋敷の中にいる
証拠を封筒に分け、複写帳簿を別々に持ち、原本と写しを切り離す。
昨夜、レティシアとルカが決めたのは、攻める前に残すことだった。王都へ繋がる金の流れを掴むには、まず自分たちの手元の紙が消えない形を作らねばならない。屋敷の中で燃やされぬように。領地の中で握り潰されぬように。
だから翌朝、レティシアはいつもより早く、自室に付属した小さな書き物机へ向かった。
昨夜、最後まで手元に残したのは自分用の写し帳簿だった。総勘定元帳との差分、徴税台帳の欄外手数料の比較、独占契約の条文の対応箇所、ドレスナー商会の名前が現れる頁番号。正式な帳簿ではなく、レティシア自身が調査のためにまとめ直した“見取り図”のようなものだ。
ルカが持つ、前任会計官ハインリヒの資料や荷印の控えとは別物である。
だからこそ、これが触られれば、誰かが“何を見られて困るか”を逆に教えることになる。
扉の前まで来た時、違和感はすぐにあった。
花の香りが、微妙に強い。
机脇の小卓に置いてある花瓶が、いつもより半指ほど窓側へずれていた。
レティシアは足を止める。
昨日自分で閉めたはずの帳面箱の蓋も、ぴたりとは合っていない。ほんのわずかに、角度が違う。
その瞬間、後ろからついてきたルカが低く言った。
「誰かがここへ入ってます」
声を潜めていたが、いつもよりずっと硬い。
レティシアはすぐに扉を閉めきらず、半ば開けたまま中を見回した。机の位置はそのまま。引き出しも閉まっている。ぱっと見では荒らされたようには見えない。けれど、整っている部屋ほど、少しの乱れが目立つ。
「触らないで」
レティシアが言うと、ルカはすぐ頷いた。
彼は先に床へ視線を落とした。窓際から机の脇へかけて、乾きかけた泥の粒がわずかに残っている。じっと見なければ気づかぬ程度だが、屋敷の中の床としては十分に異物だった。
「足跡、あります」
「ええ」
レティシアも見た。
泥のついた足跡。
かかとまでくっきりではない。拭おうとして拭き切れなかったような、にじんだ形だ。昨夜から朝にかけて雨はない。となれば、庭先か裏の通路の湿った土を踏んできたのだろう。
「窓は」
「内側から閉まってます」
ルカがそっと確かめる。
「でも、留め金が甘い。出入りじゃなくても、外から覗いたか、開けかけたか」
言いながら、彼はレティシアを窓から少し遠ざけた。その仕草が自然すぎて、レティシアは一瞬だけ彼を見た。以前なら“気をつけてください”と言葉にしていたところを、今は先に位置を変えさせている。
守る側の動きだった。
「帳面箱を開けます」
レティシアは深く息を整え、蓋へ手をかけた。
中には、まとめておいた写し帳簿が三冊。
そのうち一冊の綴じ紐が、途中で乱暴に引かれたように緩んでいた。頁も数枚、前後が入れ替わっている。明らかに読まれている。しかも、ただ見ただけではない。目的の箇所を探した跡だ。
「……荒らされていますね」
レティシアの声は自分でも驚くほど静かだった。
怒りより先に、冷たさが来る。
総勘定元帳との差分をまとめた頁。
徴税台帳の欄外手数料を比較した頁。
ドレスナー商会の契約条項を抜き書きした頁。
ちょうどそのあたりばかりが、何度もめくられた痕跡を残している。
ルカの顎がきつくなる。
「狙ってますね」
「ええ。偶然に開いた人間の触り方ではありません」
その時、廊下から足音がして、マルガレーテが急ぎ足で現れた。普段は音を立てぬ彼女がそうして来る時点で、ただ事ではない。
部屋の様子を一目見た侍女頭は、すぐに表情を引き締めた。
「恐れていたことが起こりました」
その一言に、レティシアはゆっくり顔を上げた。
「以前から、薄々?」
「ええ」
マルガレーテは部屋へ入り、ずれた花瓶と床の泥を見てから続けた。
「お嬢様が帳面をご覧になるようになって以降、廊下の気配が増えました。必要のない時間に掃除の者がうろつくことも、下男が用もなく角を曲がることも」
「なぜもっと早く言わなかったの」
「確証がございませんでした」
その答えは苦いが、責めきれない。疑いだけで味方を切れば、それこそこちらが孤立する。屋敷の中で誰を信じ、誰を疑うかは、それ自体が刃物だった。
「今は確証がある?」
「少なくとも、誰かが中へ入ったのは確かです」
マルガレーテは床の泥を見下ろした。
「そして、その誰かは屋敷の作法を知っている。壊さず、盗まず、乱れだけで済ませるやり方を心得ています」
ダミアンのような“表の顔”がある。
帳簿の見せ方を語り、正面から穏やかに牽制する者だ。
だが今ここにあるのは、もっと具体的で、もっとみっともない裏切りだった。泥のついた靴で人の部屋へ入り込み、写し帳簿をめくり、ずれた花瓶ひとつ戻しきれない者の仕事。
レティシアは写し帳簿を閉じた。
「使用人の動きを洗います」
「おれが見ます」
ルカがすぐ言った。
「帳場と裏の連中の顔、多少はわかる」
「一人で動かないで」
「でも」
「一人で狙われる方が危険です」
きっぱり言うと、ルカは短く口をつぐんだ。反発したいのではない。ただ、自分が前に出た方が守れると思っている顔だった。
「では、私から一人おつけします」
マルガレーテが言う。
「表向きは雑用を手伝う下女として」
「信用できる人を」
「承知しております」
それから彼女は、少し声を落とした。
「心当たりが、まったくないわけではございません」
その言葉に、レティシアもルカも視線を向ける。
「誰です」
「下男の一人です。クルト・バウム」
名前は聞いたことがあった。二十四になる若い下男で、荷運びや庭仕事、使い走りなど何でもそれなりにこなす男だ。気が利くと評される一方で、要領よく人の目を避ける癖があるとも耳にしていた。
「どうしてそう思うの」
「このところ、彼だけ妙に羽振りがよろしかったのです」
マルガレーテは淡々と答える。
「新しい靴、少し上等な上着。給金だけでは難しいはずの使い方をしておりました」
「賭け事です」
ルカがすぐ言った。
「裏でたまに名前が出てました。勝った負けたで、金を借りた借りないで揉めてたって」
「借金、ですか」
「はい」
そこまで揃えば、輪郭は見える。
気弱で、要領がよく、だが追い詰められれば目先の助けにすがる人間。そういう者は、脅されるより“助けられた恩”で縛られる方が早い。
「ゲオルク伯父様が、ですか」
レティシアが低く言うと、マルガレーテは少しだけ目を伏せた。
「断定はできません。ですが、旦那様が以前、庭先でクルトを呼び止めておいでなのを見たことがございます。あの子がひどく青い顔をしておりましたので、印象に残っておりました」
ゲオルク。
高級酒の請求書と私的交際費台帳を抱え、ダミアンの横で疲れた顔をしていた伯父。丸め込むように優しく笑うくせに、必要なら弱みを握ることもできる男。
あるいは自分で考えたのではなく、誰かに教えられたやり方かもしれない。
「呼びますか」
ルカが言う。
「逃げられる前に」
「ええ」
レティシアは頷いた。
「ただし、廊下で騒がないで」
しばらくして、クルト・バウムは使用人通路の脇の小部屋へ連れて来られた。痩せた体つきの若者で、顔立ちは悪くない。むしろ人当たりよく見える部類だ。だからこそ、要領の良さが先に立つ。
だが今は、目が落ち着かない。誰の顔もまともに見られず、手が膝の上でせわしなく動いている。
「クルト」
レティシアは椅子に座ったまま、静かに呼んだ。
「今朝、わたくしの部屋へ入りましたね」
「い、いいえ、まさか」
早い否定だった。
「僕はそんな」
「では、この泥はどこから」
ルカが机上へ布を広げる。そこには今朝、窓際から拾った泥の粒と、クルトの靴底からこっそり取ってきた土の欠片が並んでいた。色も質も似ている。決定打ではない。だが、怯えた人間には十分だ。
「そ、それは庭仕事の」
「今朝の庭仕事は別の者です」
マルガレーテが切った。
クルトの喉がひくりと動く。
「写し帳簿を見たのは、誰の指示?」
レティシアが問う。
「見てません、知らないです、僕はただ」
「ただ、何です」
「掃除を――」
「掃除で花瓶をずらし、帳面箱だけを開けるのですか」
声を荒げなくても、十分だった。レティシアの言葉は細く静かで、逃げ道だけを削っていく。
クルトの肩が目に見えて落ちる。
「……ちが、違うんです」
「何が」
「僕だって、好きでやったわけじゃ」
その一言で、終わりだった。
レティシアは瞬きをひとつ置いてから言う。
「誰に言われました」
クルトは唇を噛み、目を潤ませた。だが哀れさより先に、言い訳を探す顔だった。
「旦那様に……」
小さな声が落ちる。
「借金を、肩代わりしてもらって。もう二度と賭け場へ行かないならって、助けるって言われたんです」
「それで恩を返した?」
「最初は、ただ……お嬢様が何を見てるか、知らせるだけでいいって」
クルトの言葉はどんどん細くなる。
「帳面を盗めとも、燃やせとも言われてないんです。見るだけで、少し教えるだけでいいって」
みっともないほど、わかりやすかった。
命令された、と言い切るより先に、自分がそこまで悪くない形へ話を寄せていく。気弱で要領がよく、追い詰められると急に言い訳が多くなる。まさにそういう男だった。
「誰に渡していたの」
ルカが一歩前へ出る。
「旦那様に直接か。それとも別の誰かか」
「ぼ、僕は……時々、書斎前の小卓に紙を」
「小卓?」
「封のない紙を置いておくと、あとでなくなってて……」
レティシアとマルガレーテが一瞬だけ視線を交わした。
受け渡しの形が、あまりに露骨に“誰でもない”よう整えられている。ゲオルク本人が毎回見ていたとは限らない。むしろ、その背後に別の手がある方が自然だった。
ダミアンが表で微笑み、理屈で牽制する。
その一方で、屋敷の内側ではクルトのような下働きを使って泥のついた靴で部屋を探らせる。
表の顔と裏の手。
両方が噛み合っている。
「お嬢様」
ルカが低く言った。
「もう、この家の中、誰でも通すわけにいかないです」
その声音は強かった。ただの警戒ではない。レティシアを本気で守るつもりの硬さがある。
「ええ」
レティシアも頷く。
「味方の線を引きます」
それは屋敷に住む者にとって、簡単な宣言ではなかった。長く仕えてきた使用人、親族寄りの者、何も知らず従う者、知っていて目を逸らす者。全部を一度に敵にはできない。だが、全部を曖昧なままにもしておけない。
クルトは泣きそうな顔で何かを言い募ろうとしたが、マルガレーテが静かに制した。
「もうおやめなさい。情けを乞う前に、どれだけ流したかをお話しなさい」
その声音には、長年使用人を束ねてきた者の冷たさがあった。
レティシアはその横で、荒らされた写し帳簿を抱え直した。
盗まれたわけではない。
だが触られた。
誰かが何を恐れているか、その形ははっきりした。
敵は屋敷の中にいる。
それも、手袋越しに微笑む財務官だけではない。泥のついた足で花瓶をずらし、人の机を漁る、具体的な裏切りがすぐ足元にある。
その事実を胸の奥へ沈めながら、レティシアは静かに次の線引きを始めた。




