第26話 夜の倉庫と偽印章
帳簿より荷印を見ろ。
前任会計官ハインリヒが残した、その走り書きは短いくせに、妙に頭に残った。
帳簿をいくら洗っても、数字はあとから整えられる。
だが荷印は違う。封をした時、積み込んだ時、受け渡した時、その場にいた人間の手つきが残る。穀袋の口、荷札の紐、封蝋の割れ方、印章の癖。現場を見なければ掴めないものばかりだ。
ならば見るしかない。
その夜、レティシアは月の上がる前に屋敷を抜けた。
表立って動けば、もう相手に警戒される。古い独占契約、欄外手数料、減る穀袋、消えた会計官。点が増えすぎている以上、向こうもいつまでも鈍くはない。だから今夜は、書庫ではなく倉庫だった。
夜気は冷たく、息を吐くたび白く曇る。
領内の中継倉庫は、街道と川沿いの道が交わる手前に建っていた。昼間は荷馬車が出入りし、荷下ろしの声が絶えない場所だが、夜半ともなれば表向きは静まり返る。だからこそ、余計なことをするには都合がいい。
「本当に今夜ですか」
ランタンの明かりを布で半ば覆いながら、レティシアが低く問う。
隣を歩くルカは、昼よりさらに言葉少なだった。
「パウルが言ってました。川沿いの便が入る日は、見張りが一人増えるって」
「増える理由が正当ならよいのですけれど」
「正当なら、こそこそ増やさないです」
ぶっきらぼうな言い方だったが、その通りだった。
倉庫の裏手には、使われなくなった空箱や樽が積んである。二人はその陰を使って、壁際の小窓から中の様子を窺える位置まで回り込んだ。木板の隙間から漏れる明かりは細い。中では油灯が二つほど灯っているらしい。
レティシアは息を潜める。
倉庫の中には三人いた。
一人は帳場役らしい男で、受け入れ台の前に座っている。もう二人は荷役の格好をしていたが、動きが妙に静かだった。ただ運ぶだけの人間の歩き方ではない。周囲を気にし、互いの手元を確かめ合っている。
やがて、馬車が一台裏口へ回り込んだ。
車輪の泥は黒く湿っている。川沿いを通ってきた便だと、昼間パウルが言っていたのを思い出す。穀袋がいくつも下ろされ、受け入れ台のそばへ積まれた。荷札が首のように下がり、袋口には蝋封の残るものもある。
「見て」
レティシアが囁く。
受け入れ台にいた男は、帳面を開いているふりをして、実際には荷札の紐を一本ずつ指で弾いていた。数を確かめているというより、選んでいる動きだ。
そのうちの一人が、積まれた穀袋の陰へしゃがみ込む。
次の瞬間、男の手の中で何かが光った。
小さな金属。持ち手のついた、印章だ。
レティシアの背筋が冷える。
男は素早く荷札を外し、別の札へすり替え、短く蝋を温めて印を押した。手慣れている。ためらいがない。最初から何度もやってきた人間の動きだった。
「……やはり」
レティシアの声は、自分でも驚くほど冷たかった。
偽印章。
荷札のすり替え。
帳簿の差分が、今まさに目の前で形になっている。
荷札を替えられた袋は三つ。どれも端の方ではなく、あえて中央に近い位置から抜かれていた。目立たず、かつ数合わせがしやすい位置だ。すり替えの後、もう一人が別の空袋を引きずってきて、中身を少し移す。量が違うのに見た目だけ揃えるためだろう。
「袋数は同じに見せて、重さだけ減らす」
ルカが歯の間で言った。
「ええ。それなら積載札の数字と到着数を合わせた上で、中身だけ抜ける」
まさに、契約書の“多少の損耗”が生きる場面だ。
袋数で受け、重量を曖昧にし、途中で荷札を替える。封印も札も整って見えれば、帳簿の上では輸送時の通常損耗か、保管中の調整で押し流せる。
男が印章を押し直すたび、ランタンの明かりが鈍く揺れた。
その赤茶けた光の中で、押された印は一見すると正規のものと変わらない。だが、近くで見れば違いがあるはずだ。縁の太さ、刻みの深さ、麦穂の曲線。ハインリヒもきっと、そこを見ろと言いたかったのだろう。
「回収できますか」
レティシアが囁く。
「今はまだ無理です。人が多い」
「ですが、このままでは」
「わかってます」
ルカの声も張っていた。普段抑えた口調の彼にしては珍しい硬さだった。
その時、彼が懐へ手を入れた。
出てきたのは、小さく折り畳まれたしわだらけの紙片だった。何度も開き、また押し込んだらしい皺が幾重にも刻まれている。
「それは?」
レティシアが目を向けると、ルカは倉庫の中から視線を外さぬまま言った。
「前から持ってました。出すなら今です」
紙片をそっと開く。
そこには古い荷札の控えと、半ば擦れた印影の写しが残っていた。正規の荷印を、炭か何かで急いで写し取ったような粗い痕跡だ。日付は昔のものだが、印の輪郭を比べるには十分だった。
「これ……」
「前に、おかしいと思った時のです」
半分だけ明かした告白の、その続きだった。
「でも一枚じゃ何にもならなかった。だからしまってた」
レティシアは紙片と、いま押されている印章の影を見比べた。
遠目にもわかるほど、麦穂の先端の開き方が違う。正規の印はもっと細い。今あの男が使っているものは、輪郭がわずかに太く、外周の刻みが粗い。
「偽物です」
「ええ」
証拠になる。
あの偽印章と、すり替えた荷札を押さえれば、帳簿と契約の曖昧さを現場で結びつけられる。
「次に、外した方の札をどこへ入れるか見ます」
レティシアが低く言うと、ルカが頷く。
中の男は、押し直した札を袋へ結び直し、外した元の札を小さな木箱へ放り込んだ。印章も同じ箱へ入れる気配がある。今なら場所がわかった。あとは人が離れる一瞬があれば――
その刹那だった。
倉庫の外で、乾いた音が鳴った。
レティシアの足元にあった小枝が、わずかに折れたのだ。
ほんの小さな音。
だが夜の静けさでは致命的だった。
中の一人がぴたりと動きを止める。
「誰だ」
低い声が飛んだ。
ランタンが持ち上がる。黄色い光が壁の隙間をなめ、こちらの隠れた箱の縁を照らしかける。
「下がって」
ルカが短く言い、レティシアの肩を引いた。
その動きで木箱がわずかに軋む。しまった、と思うより早く、倉庫の裏口が勢いよく開いた。
「誰かいる!」
見張り役の男が出てくる。
レティシアとルカは積み樽の影へ身を滑り込ませたが、もう完全には隠れきれない。ランタンの光が泥と藁の上を走り、二人のいた位置を舐める。すぐ隣で人の気配が止まった。
「今、いたぞ」
「こっちだ!」
倉庫の中でも声が上がる。
敵がこちらの動きを察知した。
証拠の回収までは、あと数歩だったのに。偽印章も、外した荷札も、まだ木箱の中だ。だが今飛び込めば、取る前に押さえられる。
「走れますか」
ルカが囁く。
「あなたは」
「あとで合流します。今は離れた方がいい」
「却下です」
「お嬢様」
「置いては行きません」
その言葉に、ルカはほんの一瞬だけ口をつぐんだ。だが次の瞬間には、もう表情を切り替えている。
足音が増える。裏手を回る者、表へ出る者、明らかに探し慣れた動きだった。偶然の侵入者だとは思われていない。誰かが嗅ぎ回っていると、最初から半ば疑っていたのだ。
レティシアは胸の内で舌打ちした。
遅かったのではない。
向こうも十分早かったのだ。
ルカがしわだらけの紙片をレティシアの手へ押し込む。
「それだけは持ってください」
「あなたは」
「こっちは覚えました」
ぶっきらぼうに言い切るその声の向こうで、ランタンの光がついに樽の影を掠めた。
「いたぞ!」
怒声が近い。
レティシアは紙片を握りしめたまま、ルカと同時に暗がりへ駆けた。
背後で倉庫の扉が乱暴に鳴り、男たちの足音が追ってくる。回収できなかった偽印章。取り返せなかった荷札。だが、目撃した。見た。向こうもまた、それを悟ったはずだ。
夜の倉庫で、印章は確かにすり替えられていた。
そして今、敵はもう、こちらがそこまで辿り着いたことを知っている。




