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婚約破棄で破滅予定の悪役令嬢ですが、赤字領地を黒字にしてみせます  作者: gachapin2223


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第26話 夜の倉庫と偽印章

帳簿より荷印を見ろ。


前任会計官ハインリヒが残した、その走り書きは短いくせに、妙に頭に残った。


帳簿をいくら洗っても、数字はあとから整えられる。


だが荷印は違う。封をした時、積み込んだ時、受け渡した時、その場にいた人間の手つきが残る。穀袋の口、荷札の紐、封蝋の割れ方、印章の癖。現場を見なければ掴めないものばかりだ。


ならば見るしかない。


その夜、レティシアは月の上がる前に屋敷を抜けた。


表立って動けば、もう相手に警戒される。古い独占契約、欄外手数料、減る穀袋、消えた会計官。点が増えすぎている以上、向こうもいつまでも鈍くはない。だから今夜は、書庫ではなく倉庫だった。


夜気は冷たく、息を吐くたび白く曇る。


領内の中継倉庫は、街道と川沿いの道が交わる手前に建っていた。昼間は荷馬車が出入りし、荷下ろしの声が絶えない場所だが、夜半ともなれば表向きは静まり返る。だからこそ、余計なことをするには都合がいい。


「本当に今夜ですか」


ランタンの明かりを布で半ば覆いながら、レティシアが低く問う。


隣を歩くルカは、昼よりさらに言葉少なだった。


「パウルが言ってました。川沿いの便が入る日は、見張りが一人増えるって」


「増える理由が正当ならよいのですけれど」


「正当なら、こそこそ増やさないです」


ぶっきらぼうな言い方だったが、その通りだった。


倉庫の裏手には、使われなくなった空箱や樽が積んである。二人はその陰を使って、壁際の小窓から中の様子を窺える位置まで回り込んだ。木板の隙間から漏れる明かりは細い。中では油灯が二つほど灯っているらしい。


レティシアは息を潜める。


倉庫の中には三人いた。


一人は帳場役らしい男で、受け入れ台の前に座っている。もう二人は荷役の格好をしていたが、動きが妙に静かだった。ただ運ぶだけの人間の歩き方ではない。周囲を気にし、互いの手元を確かめ合っている。


やがて、馬車が一台裏口へ回り込んだ。


車輪の泥は黒く湿っている。川沿いを通ってきた便だと、昼間パウルが言っていたのを思い出す。穀袋がいくつも下ろされ、受け入れ台のそばへ積まれた。荷札が首のように下がり、袋口には蝋封の残るものもある。


「見て」


レティシアが囁く。


受け入れ台にいた男は、帳面を開いているふりをして、実際には荷札の紐を一本ずつ指で弾いていた。数を確かめているというより、選んでいる動きだ。


そのうちの一人が、積まれた穀袋の陰へしゃがみ込む。


次の瞬間、男の手の中で何かが光った。


小さな金属。持ち手のついた、印章だ。


レティシアの背筋が冷える。


男は素早く荷札を外し、別の札へすり替え、短く蝋を温めて印を押した。手慣れている。ためらいがない。最初から何度もやってきた人間の動きだった。


「……やはり」


レティシアの声は、自分でも驚くほど冷たかった。


偽印章。


荷札のすり替え。


帳簿の差分が、今まさに目の前で形になっている。


荷札を替えられた袋は三つ。どれも端の方ではなく、あえて中央に近い位置から抜かれていた。目立たず、かつ数合わせがしやすい位置だ。すり替えの後、もう一人が別の空袋を引きずってきて、中身を少し移す。量が違うのに見た目だけ揃えるためだろう。


「袋数は同じに見せて、重さだけ減らす」


ルカが歯の間で言った。


「ええ。それなら積載札の数字と到着数を合わせた上で、中身だけ抜ける」


まさに、契約書の“多少の損耗”が生きる場面だ。


袋数で受け、重量を曖昧にし、途中で荷札を替える。封印も札も整って見えれば、帳簿の上では輸送時の通常損耗か、保管中の調整で押し流せる。


男が印章を押し直すたび、ランタンの明かりが鈍く揺れた。


その赤茶けた光の中で、押された印は一見すると正規のものと変わらない。だが、近くで見れば違いがあるはずだ。縁の太さ、刻みの深さ、麦穂の曲線。ハインリヒもきっと、そこを見ろと言いたかったのだろう。


「回収できますか」


レティシアが囁く。


「今はまだ無理です。人が多い」


「ですが、このままでは」


「わかってます」


ルカの声も張っていた。普段抑えた口調の彼にしては珍しい硬さだった。


その時、彼が懐へ手を入れた。


出てきたのは、小さく折り畳まれたしわだらけの紙片だった。何度も開き、また押し込んだらしい皺が幾重にも刻まれている。


「それは?」


レティシアが目を向けると、ルカは倉庫の中から視線を外さぬまま言った。


「前から持ってました。出すなら今です」


紙片をそっと開く。


そこには古い荷札の控えと、半ば擦れた印影の写しが残っていた。正規の荷印を、炭か何かで急いで写し取ったような粗い痕跡だ。日付は昔のものだが、印の輪郭を比べるには十分だった。


「これ……」


「前に、おかしいと思った時のです」


半分だけ明かした告白の、その続きだった。


「でも一枚じゃ何にもならなかった。だからしまってた」


レティシアは紙片と、いま押されている印章の影を見比べた。


遠目にもわかるほど、麦穂の先端の開き方が違う。正規の印はもっと細い。今あの男が使っているものは、輪郭がわずかに太く、外周の刻みが粗い。


「偽物です」


「ええ」


証拠になる。


あの偽印章と、すり替えた荷札を押さえれば、帳簿と契約の曖昧さを現場で結びつけられる。


「次に、外した方の札をどこへ入れるか見ます」


レティシアが低く言うと、ルカが頷く。


中の男は、押し直した札を袋へ結び直し、外した元の札を小さな木箱へ放り込んだ。印章も同じ箱へ入れる気配がある。今なら場所がわかった。あとは人が離れる一瞬があれば――


その刹那だった。


倉庫の外で、乾いた音が鳴った。


レティシアの足元にあった小枝が、わずかに折れたのだ。


ほんの小さな音。


だが夜の静けさでは致命的だった。


中の一人がぴたりと動きを止める。


「誰だ」


低い声が飛んだ。


ランタンが持ち上がる。黄色い光が壁の隙間をなめ、こちらの隠れた箱の縁を照らしかける。


「下がって」


ルカが短く言い、レティシアの肩を引いた。


その動きで木箱がわずかに軋む。しまった、と思うより早く、倉庫の裏口が勢いよく開いた。


「誰かいる!」


見張り役の男が出てくる。


レティシアとルカは積み樽の影へ身を滑り込ませたが、もう完全には隠れきれない。ランタンの光が泥と藁の上を走り、二人のいた位置を舐める。すぐ隣で人の気配が止まった。


「今、いたぞ」


「こっちだ!」


倉庫の中でも声が上がる。


敵がこちらの動きを察知した。


証拠の回収までは、あと数歩だったのに。偽印章も、外した荷札も、まだ木箱の中だ。だが今飛び込めば、取る前に押さえられる。


「走れますか」


ルカが囁く。


「あなたは」


「あとで合流します。今は離れた方がいい」


「却下です」


「お嬢様」


「置いては行きません」


その言葉に、ルカはほんの一瞬だけ口をつぐんだ。だが次の瞬間には、もう表情を切り替えている。


足音が増える。裏手を回る者、表へ出る者、明らかに探し慣れた動きだった。偶然の侵入者だとは思われていない。誰かが嗅ぎ回っていると、最初から半ば疑っていたのだ。


レティシアは胸の内で舌打ちした。


遅かったのではない。


向こうも十分早かったのだ。


ルカがしわだらけの紙片をレティシアの手へ押し込む。


「それだけは持ってください」


「あなたは」


「こっちは覚えました」


ぶっきらぼうに言い切るその声の向こうで、ランタンの光がついに樽の影を掠めた。


「いたぞ!」


怒声が近い。


レティシアは紙片を握りしめたまま、ルカと同時に暗がりへ駆けた。


背後で倉庫の扉が乱暴に鳴り、男たちの足音が追ってくる。回収できなかった偽印章。取り返せなかった荷札。だが、目撃した。見た。向こうもまた、それを悟ったはずだ。


夜の倉庫で、印章は確かにすり替えられていた。


そして今、敵はもう、こちらがそこまで辿り着いたことを知っている。

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