第27話 ダミアン財務官の微笑
夜の倉庫から戻ったのは、空が白み始める頃だった。
追手は途中で撒けた。だが、それで何かが終わったわけではない。むしろ逆だ。偽印章も、外された荷札も、木箱ごと手の届くところにありながら取り逃した。こちらが見たことを、向こうもまた確かに知った。
それが何より厄介だった。
屋敷へ戻る道すがら、ルカはほとんど喋らなかった。レティシアも同じだった。夜気の冷たさが引いたあとも、背中に張りついたような緊張だけが残っている。
手の中には、しわだらけの紙片があった。
正規の荷印を写した古い控え。たったそれだけが、昨夜持ち帰れた確かなものだった。
そして翌朝。
睡眠らしい睡眠も取らぬまま書庫へ向かったレティシアを待っていたのは、思いがけぬ先客だった。
「おはようございます、レティシア様」
穏やかな声が、静かな書庫によく通る。
窓際の机のそばに立っていた男は、三十代後半ほどに見えた。明るすぎぬ灰青の上着は上等で、皺ひとつない。細身の体つきに無理なく沿っていて、姿勢も崩れない。そして何より目についたのは、その両手だった。
黒い手袋を、室内でも外していない。
「ご存じかもしれませんが、わたくし、侯爵家で財務を預かっておりますダミアンと申します」
彼は丁寧に一礼した。
「ダミアン・ヘッセ。以後、お見知りおきを」
柔らかな物腰だった。
礼儀正しく、声も静かで、少しも威圧的ではない。だが、その整いすぎた穏やかさが、レティシアにはかえって不気味に思えた。
「初めまして、ダミアン」
「ようやくご挨拶が叶いました。パン屋の件、実に見事でございましたね」
「ありがとうございます」
「町でも屋敷でも、評判になっておりますよ。数字を立て直すお方だと」
微笑みは崩れない。
だがその言葉は、称賛の形をしていながら、すでにこちらの動きをよく見ている者の口ぶりだった。
「それで」
レティシアは余計な前置きを省いた。
「財務官がわざわざ書庫でお待ちになるのは、挨拶だけではありませんでしょう」
ダミアンは目を細める。
「ええ。率直で結構です」
彼は机上に置かれた帳簿の束へ視線を移した。徴税台帳、総勘定元帳、輸送記録の控え。昨夜慌ててしまったままの順で、まだ片づけきれていない。
「近頃、たいへん熱心にご覧になっていると伺いました」
「領地の再建に必要ですから」
「もちろん」
穏やかな相槌。
「ですが、数字は時に、人を疲れさせます」
「わたくしはまだ平気です」
「そうでしょうね」
ダミアンはまるで本当に感心したように頷いた。
「あなた様は聡明で、しかも粘り強い。帳簿の空白、徴税の欄外、輸送の差分……普通なら見過ごす違和感を、よく拾っておいでだ」
その一瞬だけ、書庫の空気が張った。
ルカがすぐ横でわずかに息を止めるのがわかる。
どこまで知られているのか。
少なくとも、“何かを調べている”程度ではない。具体的な方向まで把握している声だった。
「詳しいのですね」
レティシアが言うと、ダミアンは静かに笑った。
「財務官ですので」
何でもない返事だったが、その曖昧さが却って答えになっていた。
屋敷の中にも敵がいる。
昨夜の追跡で覚えた警戒が、今度は昼の書庫で輪郭を持つ。
「何を仰りたいのですか」
レティシアが正面から問うと、ダミアンは少しだけ首を傾けた。
「釘を刺すつもりはございません。ただ、申し上げたいのです。数字は事実ですが、事実にも見せ方がございます」
その言葉は、やけに静かだった。
脅しの声ではない。諭すようでいて、その実、どこまででも柔らかく人を絡め取れそうな響きだった。
「見せ方、ですか」
「ええ。例えば赤字ひとつ取りましても、季節変動と見るか、放漫経営と見るかで意味が変わる。輸送中の損耗も、事故と見るか、慣行と見るかで表情が変わる」
手袋越しの指先で、彼は机の上の帳簿を軽く揃えた。
「事実はひとつでも、結論は置き方次第でいかようにも」
「便利な理屈ですこと」
「理屈は便利なものです。だからこそ人は使うのでしょう」
少しも怒らない。
少しも焦らない。
その余裕そのものが、レティシアにはいっそう不穏に映った。場当たり的なごまかしをする人間なら、もっとどこかで綻ぶ。だがこの男には綻びがない。長く数字を扱い、長く“見せ方”を知ってきた者の落ち着きがある。
「ではわたくしに、見せ方を学べと?」
「いいえ」
ダミアンは微笑んだまま答えた。
「見抜く才は、すでに十分お持ちでしょう。ただ、それをどこまで押し進めるかは、別のお話です」
「止まれと?」
「ご自身を守ることも、時には才覚でございます」
柔らかい忠告だった。
だが中身ははっきりしている。これ以上踏み込むな、と。
レティシアが返す前に、書庫の外の廊下から重い足音がした。
現れたのはゲオルクだった。
「おお、ここにいたか、レティシア」
顔色はあまりよくない。普段より目の下が重く、しかも朝だというのに妙に酒気が残っているような気がした。
「伯父様」
「ダミアン、もう話は済んだかね」
「ええ、旦那様。少々ご挨拶を」
そのやりとりは自然だった。自然すぎた。
ゲオルクはレティシアの前では取り繕うように穏やかに笑ってみせたが、その笑みの端は疲れている。昨夜、こちらの動きが敵に知られたことと無関係ではないのかもしれない。あるいは、もともと抱えていた何かが、さらに重くなっているのか。
「お前もあまり根を詰めるな」
丸め込むような優しい口調で言う。
「パン屋はうまくいった。十分ではないか。家の帳面は複雑でな、若い娘が抱え込むには重い」
「重いからこそ、誰かが持たねばなりませんでしょう」
レティシアが返すと、ゲオルクは苦笑した。
「まったく、頑固なところは亡き父君に似たな」
話をずらしたい時の笑い方だ、とレティシアは思う。
その時、彼の袖口から一枚の紙が半ば覗いているのが見えた。落ちかけたそれを、ダミアンがさりげなく拾い上げる。
「失礼」
手袋の指先が持ち上げた紙には、酒商の印があった。
高級酒の請求書。
しかも銘柄は、屋敷の日常で使うには明らかに不釣り合いな額のものだ。レティシアが視線を向けると、ゲオルクは一瞬だけ表情を曇らせ、すぐに笑ってごまかした。
「ああ、それは付き合いだよ。商会やら何やら、断れぬ場もある」
「そうですか」
短く答える。
付き合い。
それもまた、便利な言葉だった。
ダミアンは何も言わず、請求書を机の端へ置いた。その動作ひとつに無駄がない。まるで見られて困るほどのものではない、と示すような平然さだ。
だがレティシアの目は、その横に積まれていた別の帳面も捉えていた。薄い革表紙に、私的交際費とだけ記された小ぶりの台帳である。昨日までここにあっただろうか。少なくともレティシアは見覚えがなかった。
「それは?」
問うと、ダミアンが視線を向ける。
「旦那様の外向きの付き合いに関する整理でございます」
「随分と細かいのですね」
「細かくせねば、付き合いは膨らみますので」
その返答に、ゲオルクが珍しく落ち着かなげに咳払いをした。
「まあ、多少はな」
多少。
だが請求書の額面は、多少で済む額ではなかった。酒量が増えているのか、相手に奢らされているのか、あるいは別の穴埋めか――今はまだ決めつけられない。ただ、伯父の周りに金の匂いがまとわりついていることだけは、ますます濃くなる。
「旦那様は最近、お疲れが溜まっておいでです」
ダミアンが穏やかに言った。
「財を守るというのは、えてして孤独な務めですから」
「そういうものだ」
ゲオルクは、少し早口に同意した。
その様子を見て、レティシアの胸に冷たい確信が落ちる。
主従のようでいて、どこか逆だ。
表向きは伯父が屋敷の上にいる。だが、この場の呼吸を握っているのはダミアンの方だった。彼が話を整え、彼が紙を拾い、彼が“付き合い”の意味を定める。ゲオルクはそれに乗るように言葉を選んでいる。
借りがあるのか。
借金があるのか。
あるいはそれに近い何かが。
「レティシア様」
ダミアンが改めてこちらを向いた。
「あなた様の才覚は、きっとこの家の助けになります。ですからどうか、急ぎすぎて大切なものを損なわれませんよう」
「忠告として受け取っておきます」
「ええ。それで十分です」
最後まで、彼は穏やかだった。
だからこそ怖い。
昨夜の倉庫の男たちのような荒っぽさはない。だが、こういう人間こそ長く仕組みを保つ。怒鳴らず、脅さず、理屈と帳面で人を絡め取り、見せ方ひとつで現実を別の顔にしてしまう。
ダミアンが去った後、ゲオルクも「また改めて話そう」と曖昧な言葉を残して出ていった。
書庫に静けさが戻る。
だがその静けさは、昨夜の倉庫の闇よりなお重かった。
しばらくして、ルカがようやく息を吐く。
「……ああいう人なんですね」
「ええ」
「笑ってるのに、全然笑ってない」
「正確には、笑顔を道具にしているのです」
レティシアは机上の請求書を引き寄せた。高級酒の銘柄と額を確かめ、次に私的交際費台帳の表紙だけを見る。中を開くのは、今はまだやめた。焦って触れれば、向こうにこちらの目線を教えるだけだ。
「お嬢様」
ルカが低く言う。
「昨日の夜で、もうこっちの動きは知られてます」
「ええ」
「今日ので、屋敷の中にもいるってはっきりした」
「それも、ええ」
ならばますます、感情ではなく順番が必要だった。
偽印章と荷札の現場。
独占契約。
欄外手数料。
そして、数字の“見せ方”を知り尽くした財務官。
点はもう、怖いほど揃ってきている。
レティシアは革手帖を開き、今日のことを書きつけた。
財務官ダミアン・ヘッセ。常に手袋を着用。穏やかで知的、しかしこちらの調査対象を具体的に把握。牽制の意図あり。
その下へ、彼の言葉をそのまま記す。
「数字は事実ですが、事実にも見せ方がございます」
さらに、少し筆を止めてから続けた。
ゲオルク伯父様、珍しく酒量が増えている気配。高級酒の請求書、私的交際費台帳あり。財務官との力関係に不自然さ。
最後の一行は、ほとんど自分への確認だった。
長年の仕組みは、焦りではなく余裕の顔をしている。
書き終えた時、昨夜の追跡で残った焦りは、別の種類の警戒へ変わっていた。
敵は倉庫の闇にだけいるのではない。
昼の書庫で、手袋のまま微笑む顔の内側にも、同じ回路は息をしているのだ。




