第25話 行方不明の前任会計官
古い契約書の署名欄にあった伯父ゲオルクの名は、その夜遅くまでレティシアの目に焼きついて離れなかった。
ドレスナー商会への専属供給契約。
供給、運搬、損耗免責をひとつに束ねた、あまりに都合のよい回路。
そこへ伯父の署名がある以上、もう「外から入り込んだ不正」だけでは済まない。屋敷の内側に、少なくとも目を閉じた者がいた。あるいは、もっと積極的に手を貸した者が。
そして、その契約が結ばれた時期は、あの灰色の背表紙の帳簿――三か月分だけ様式が違い、肝心の月次帳が欠けていた時期と近い。
ならば、見るべきはひとつだった。
前任会計官、ハインリヒ。
彼は何を見て、どこまで辿り着き、そしてなぜ今ここにいないのか。
翌朝、レティシアはいつもの書庫の閲覧机ではなく、さらに古い文書が積まれた壁際の箱へ向かった。ヨアヒムが昨夜、「人の出入りを追うなら、配置換えや辞令の束も残っております」とだけ告げていたからだ。
古参の執事は、必要な時に必要な鍵と情報だけを渡す。
余計なことは言わず、だが肝心なところは外さない。それが今のレティシアにはありがたかった。
「このあたりです」
ヨアヒムが示したのは、背の低い棚の最下段に押し込まれた箱だった。帳簿ほど丁寧には扱われていないらしく、紙束の端は少し波打ち、紐も古びている。
「人事記録や配置換え辞令は、保存年限を過ぎれば奥へ回されますゆえ」
「奥へ回されるだけで、捨てられはしないのですね」
「古い屋敷の美点でございます」
静かな返答だった。
レティシアはルカと向かい合うように座り、ひと束ずつ紐を解いた。配置換え辞令、雇用記録、退職届、離職金の覚え書き、病欠の届け。名前と日付だけがひたすら並ぶ、地味で退屈な紙の山だ。
だが、退屈な紙ほど真実を隠しにくいことを、レティシアは知っている。
「ハインリヒの姓はわかる?」
「そこまでは、まだ」
ルカが答える。
「古株に聞いても、“細かい帳面の人だった”くらいで」
「では、会計方を総ざらいするしかありませんね」
紙をめくる音だけが続く。
午前の光が高窓から斜めに落ち、古いインクの色を鈍く浮かび上がらせる。何十人分もの名前が行き過ぎ、関係のない辞令がいくつも通り過ぎた頃、ルカの手が止まった。
「ありました」
差し出された一枚には、ハインリヒ・ヴァルナーの名があった。
「会計方補佐から会計官補へ昇格……」
レティシアは読み上げる。
「数年後、正式に会計官。評定は“几帳面にして精密”」
「らしいですね」
「ええ」
そこまではよい。問題はその先だ。
さらに追うと、ある年の春まで、彼の名は普通に出てくる。支給の記録、役務の引継ぎ、会計関連の回覧。しかし、その次の束に入った途端、唐突に流れが切れた。
「……これ」
レティシアは一枚を引き抜いた。
古い配置換え辞令だった。だが、内容が妙だ。
通常なら異動先や後任、引継ぎ予定が記される欄が、ひどく簡素に済まされている。ハインリヒ・ヴァルナーについては、会計方職より離任、後任別紙とだけある。別紙は見当たらない。
「離任?」
ルカが眉を寄せる。
「辞めた、ではなく?」
「ええ。しかも理由がない」
病なら病、願い出なら願い出、罷免ならその旨が残るのが普通だ。だがこの辞令は、必要な説明だけが不自然に抜けていた。
「後任別紙もないですね」
「ええ」
レティシアは紙を裏返したが、やはり何もない。
ルカが別の束をめくり、低く言った。
「こっちにも、その後の届けがありません。退職金も、身元引受も」
「失踪扱いにも見えませんね」
「はい。いなくなったのに、処理だけが薄い」
薄い、という言い方が妙に正確だった。
人ひとりが屋敷の会計官の座から消えたにしては、跡がなさすぎる。大騒ぎした痕跡もなければ、きちんと畳んだ痕跡もない。ただ、ある日を境に紙が静かになる。
まるで、最初から触れぬことにしたように。
「突然、姿を消したのね」
レティシアが言うと、ヨアヒムが少しの間をおいて答えた。
「私が若い頃、しばらくそのような噂はございました」
「噂?」
「“会計方の一人が急に見えなくなった”と」
執事はあくまで噂として語る。断定を避けるその慎重さが、かえって不穏だった。
「逃げたとか、病だとか、色々申す者はおりましたが、確かなことを口にする者はおりませんでした」
「あなたは、どう思っていたの」
レティシアが問うと、ヨアヒムは視線を下げた。
「執事は、思うより先に残った仕事を回しますゆえ」
それは答えになっていない。
だが、答えぬことで示していることはある。あの頃の屋敷では、余計なことを知っても口にしない方が生き延びやすかったのだろう。
箱の底をさらに探っていたルカが、今度は小さく息を呑んだ。
「お嬢様、これも」
彼が持ち上げたのは、半分ほど破れた記録用紙だった。帳面からちぎれたのか、端がぎざぎざになっている。インクもところどころ擦れていたが、残った部分には走り書きのような文字が見える。
レティシアは慎重に受け取った。
数行しか残っていない。
上の方は破れ、日付も差出もわからない。ただ、下段に一文だけ、妙にはっきりした筆致で残っていた。
帳簿より荷印を見ろ
その短い文を見た瞬間、レティシアとルカの視線がぶつかった。
「荷印……」
「積載札や封印のことですね」
ルカが言う。
「ええ。帳簿ではなく、荷そのものに残る印」
ハインリヒも、そこへ辿り着いていたのだ。
帳簿をいくら整えても、後から書き換えられる。だが荷印――封印、札、袋口の縫い目、積み込み時の印は、現場にしか残らない。
だから彼は“帳簿より”と書いたのだろう。
紙の上ではなく、荷を見ろと。
「これ、本人の字でしょうか」
ルカが低く問う。
「断定はできません」
レティシアは破れた紙を光にかざした。
「でも、タイミングは合いすぎている」
前任会計官がいた時期。
帳簿の空白。
輸送途中で減る穀袋。
そして“荷印を見ろ”という断片。
不気味なくらい、線が寄ってくる。
しばらく黙っていたルカが、不意に言った。
「おれも前に一度、似たことを言って黙らされました」
レティシアはゆっくり彼を見る。
「……いつ」
「だいぶ前です。帳場の下働きだった頃」
彼は紙束に視線を落としたまま続けた。
「積み込みの数と、着いた数が合わない日が続いて。おかしいんじゃないかって、上の人に」
「誰に?」
問いかけたが、ルカは少し首を振った。
「そこまでは」
言いたくない、ではない。まだ言えない、という顔だった。
「笑って済まされたわけではなさそうね」
「ええ」
短い返事。
「二度と言うな、ってほどでもなかったんです。ただ……」
「ただ?」
「帳場の子どもが、余計なことを覚えるなって」
その言い回しに、レティシアは小さく息を止めた。
怒鳴られたのでも、殴られたのでもないのだろう。もっと静かで、もっと根の深い黙らせ方だ。分をわきまえろ。口を閉じていろ。そうやって、気づいた者から順に沈めていく。
「それで、今まで黙っていたの」
ルカはすぐには頷かなかった。
だが否定もしない。
「……全部が全部、口にしていい空気じゃなかったんです」
彼の声は、いつもより少しだけ固かった。
「パン屋の帳面なら、まだよかった。でも、屋敷の金や荷の話になると、皆、急に耳がなくなる」
耳がなくなる。
実にこの屋敷らしい表現だとレティシアは思った。聞こえていないふりをする。知らない顔をする。気づいても、記録に残らぬよう横を向く。
そうして人は消え、紙だけが薄くなる。
ハインリヒも、そうして消えたのだろうか。
逃げたのか。
追い出されたのか。
もっと別の形で“いなくなった”のか。
今はまだわからない。
だが、少なくとも彼が荷印に何かを見たことだけは、この破れた紙が告げていた。
「ありがとう、ルカ」
レティシアが言うと、彼は少しだけ驚いた顔をした。
「何がです」
「今、そこまで言ったことに対してです」
ルカは視線を逸らし、小さく息をついた。
「半分です」
「ええ」
「まだ、半分しか言ってません」
「十分です」
今はそれでよかった。無理に全部を引きずり出す時ではない。彼が自分の言葉で“前に告げたことがある”と認めた、それだけでも大きい。
書庫の空気は相変わらず冷たい。
けれど、破れた記録用紙の上に残るたった一文だけが、やけに熱を持って見えた。
帳簿より荷印を見ろ。
前任会計官が消える前に掴んだらしい、その方向だけはもう疑いようがない。
レティシアは革手帖を開き、今日のことを書きつける。
前任会計官ハインリヒ・ヴァルナーの記録を確認。ある時期を境に配置換え辞令のみ残り、理由・後任別紙・退職処理が不自然に欠落。事実上、突然姿を消したと見るべき。
その下へ、破れた紙の文言をそのまま写す。
「帳簿より荷印を見ろ」
さらに、少し迷ってからもう一行。
ルカは以前、同種の違和感を口にして黙らされたことがある。屋敷は前から、知った者を黙らせる。
書き終えた後、レティシアは手帖を閉じた。
人が消え、紙が破れ、言葉が半分で止まる。
それでも残る断片はある。
その断片を拾える限り、まだ追える。
そう確かめるように、彼女は破れた記録用紙をもう一度だけ見つめた。




