第24話 書庫の奥の古い契約
徴税台帳の欄外に滑り込まされた手数料と冬道整備費。その増え始めた時期が、灰色の背表紙の帳簿――前任会計官の記録が途切れた三か月と重なっていると気づいた夜、レティシアは眠る前に革手帖へ一本の線を引いた。
まだ、点と点を繋ぐには材料が足りない。
けれど、帳簿の空白、輸送途中で減る穀袋、欄外の上乗せ、そしてドレスナー商会長カミルが持ち込んできた“良すぎる契約草案”が、別々の顔をしながら同じ方向へ流れていることだけは、もう見誤りようがなかった。
ならば次に見るべきは、契約そのものだ。
翌朝、レティシアは書庫へ向かう前に、屋敷の執事を呼んだ。
ヨアヒム・フェルナー。
五十八になる古参の執事で、屋敷運営の責を長く担ってきた男である。姿勢はきっちりと伸び、歩く音ひとつうるさくない。目立つ人ではないが、古い鍵の在り処や、今では誰も使わぬ帳面の分類まで覚えているような人だった。
「お呼びでございますか、お嬢様」
「ええ、ヨアヒム。古い仕入れ契約書を見たいのです」
そう告げると、彼はすぐには返事をしなかった。驚いたというより、どこまで遡るおつもりかを量るような沈黙だった。
「どのあたりのものでございましょう」
「できれば、前任会計官がいた頃から。穀物や小麦粉、運搬、保管に関わるものを中心に」
ヨアヒムのまぶたが、ほんのわずかに下がる。
「……承知いたしました」
あっさりした返答だったが、その声の底には、何かを覚悟するような重さがあった。
書庫へ入ると、いつもの机のあたりではなく、ヨアヒムはさらに奥へ進んだ。高い棚が影を落とす一角を抜け、窓もない壁際まで来たところで、彼は立ち止まる。
そこには、他の棚よりひとまわり古く見える収納棚があった。濃い木材に金具のついた扉がつき、普段使いの帳簿棚とは明らかに扱いが違う。
マルガレーテも無言でついてきている。ルカは書類を抱えて少し後ろに控え、そして今日はクラウスも同席していた。彼は昨夜のうちにレティシアから「古い契約を探します」とだけ伝えられていたらしく、事情は半分ほどしかわかっていない顔をしている。
「こちらは本来、家宰しか開けられぬ棚でして」
ヨアヒムは静かに言った。
その一言で、書庫の空気が少し変わった。
クラウスが思わず眉を動かす。
「そんな場所が、ここに……」
「ございます」
ヨアヒムはそれ以上の説明をせず、懐から鍵束を出した。細身の古い鍵を一本選び、錠へ差し込む。金属の擦れる乾いた音が、静かな書庫によく響いた。
扉が開くと、中には封蝋つきの書類束や、年季の入った箱が幾つも収められていた。紙と蝋と古い木の匂いが、ゆっくりとこぼれ出る。
「仕入れ契約は、こちらの箱に」
ヨアヒムがひとつの平たい箱を取り出す。
蓋を開けると、紐でまとめられた契約書の束が整然と重ねられていた。今の屋敷の雑然とした帳面の印象からは、少し意外なくらいきれいな保存状態である。
「残っていたのですね」
レティシアが言うと、ヨアヒムはごく控えめに頷いた。
「捨ててはならぬものだけは、古い屋敷ほど奥へ仕舞います」
その返答は、執事というより古い秩序そのものが喋っているようだった。
机へ移し、順に紐を解いていく。
穀物保管庫の修繕契約。
馬具の更新。
村の粉挽き場への備品納入。
運搬補助の取り決め。
そして、何枚目かで、ルカの手が止まった。
「……これ」
差し出されたのは、他より厚手の紙で仕立てられた契約書だった。封蝋は一度開かれているが、もとの印がまだ鮮やかに残っている。蝋の紋は、見慣れた侯爵家のものと、もうひとつ――絡む麦穂を意匠化した商会印。
ドレスナー商会だ。
レティシアは黙って書面を開いた。
表題は簡潔だった。
穀物・粉類ならびに付随運搬業務に関する専属供給契約
専属。
その語が、紙の上で妙に重たく見えた。
「独占契約……」
クラウスが低く呟く。
その声音には、明らかな動揺が混じっていた。知っていて確認した声ではない。初めて見た者の反応だった。
レティシアは文面へ目を走らせる。
領内の主要な穀物および小麦粉の供給を、一定期間、ドレスナー商会が優先的かつ排他的に担うこと。運搬は提携先を含め同商会の指定に準ずること。通常損耗は一定範囲で免責とすること。価格調整は市場事情を理由に随時協議可能とすること。
あまりに覚えがあった。
昨夜まで手元に置いていた、カミルの新しい契約草案と骨格が似ている。言い回しは整えられ、条文の位置も変わっているが、曖昧さを差し込む場所がほとんど同じだ。
「お嬢様」
ルカが小さく呼ぶ。
レティシアは返事をせず、最終頁を開いた。
そこに署名欄がある。
侯爵家側代表――
ゲオルク・アウグスト・フォン――
伯父の名だった。
その瞬間、レティシアの指先が紙の上で止まる。
声は出なかった。
怒りでも驚きでもなく、もっと深く沈むような静けさが胸へ落ちる。予感はあった。身内がまったく関わっていないとは、もはや思っていなかった。だが、こうして古い契約書の署名欄に伯父の名を見れば、疑いは顔を持つ。
ゲオルク。
現当主代行として屋敷を回し、最近ではカミルに対してどこか弱腰に見えた男。その名が、封蝋の下にきちんと残っている。
「……そんなはずは」
クラウスが半歩、机へ寄った。
「伯父上が、こんな契約を?」
彼の声には、否定したい気持ちがまだ残っていた。だが、紙は言い逃れを許さない。署名は本人の手になるものだし、日付も、あの帳簿の空白期とほとんど重なっている。
「ご存じなかったのですね」
レティシアが静かに問うと、クラウスはすぐに答えられなかった。
「俺は……少なくとも、こういう形の契約だとは」
言葉を切り、息を飲む。
「仕入れは商会任せの方が早い、としか」
それはたぶん本心なのだろう。現場にいない者から見れば、仕入れ先をまとめるのは効率化に見える。だが、独占と曖昧な損耗免責と運搬指定が一体になれば、話は別だ。
ルカが脇から小さく言った。
「これがあるなら、輸送途中の便まで商会側の影響下です」
「ええ」
レティシアは短く答えた。
穀袋の封印、積載札の書き換え、蹄の泥。あれらは単独の現場不正ではないのかもしれない。契約が最初から回路を用意していたのなら、現場はその上を流れるだけになる。
「ヨアヒム」
レティシアは顔を上げた。
「この契約の存在を、今の屋敷で把握している者は?」
執事は少しの間を置いて答えた。
「正確には存じません。ですが、少なくとも若い使用人たちは知らぬでしょう」
「あなたは?」
「保管場所を知っていた、というだけでございます」
声に嘘はなかった。執事は、見たくないものの在処まで管理する。それが役目なのだろう。
マルガレーテが契約書の端をそっと見つめる。
「随分と、よくできておりますね」
「ええ」
レティシアは頷く。
「露骨に奪うための契約ではありません。正しく見えるよう整えた上で、抜け道だけを残してあります」
「だから、長く気づかれなかった」
クラウスの声が、少し掠れた。
彼は紙から目を離せないでいる。何も知らなかったことへの戸惑いと、知った以上は見ぬふりができないという自覚が、同時に顔へ出ていた。
「おかしいと思うところは、他にも」
ルカが控えめに指摘した。
「価格調整条項です。“市場事情に応じて随時協議”って、ほとんど上限がない」
「その上、運搬も指定です」
レティシアは頁をなぞる。
「供給、運搬、損耗。三つを同じ相手に握らせれば、どこで減っても帳面の上では説明がついてしまう」
事故にもできる。
市場変動にもできる。
冬道整備にも、保管事情にも、輸送の手間にも化ける。
何もかもが、曖昧な名目の受け皿になる。
クラウスが拳を握った。
「伯父上は、これを承知で?」
その問いに、誰もすぐには答えなかった。
承知していたのか。
押し切られたのか。
あるいは、最初は都合のよい契約としか見ていなかったのか。
今この場で断じるには、まだ材料が足りない。だが、署名がある以上、“無関係”では済まない。
レティシアはしばらく無言で署名欄を見ていた。
怒りをぶつけるのは簡単だ。けれど、今それをしても紙は増えない。必要なのは、感情より先に回路を確かめることだった。
「持ち出します」
やがてレティシアは言った。
「写しを作って、現行の草案と比較します」
「はい」
ルカがすぐ応じる。
「原本は私が保管いたしましょうか」
ヨアヒムが問う。
「ええ。ただし、わたくしの許しなく戻さないでください」
「承知いたしました」
執事の返事は静かだったが、そこにははっきりとした重みがあった。鍵を渡す側の人間が、何かを決めた時の声だった。
クラウスはまだ立ち尽くしている。
「……レティシア」
「何かしら」
「俺は、本当に知らなかった」
弁解にも、誓いにも聞こえる声だった。
「そうでしょうね」
レティシアは淡々と返した。
「知っていた人の顔ではありませんもの」
その言い方に、クラウスはかえって苦く眉を寄せた。慰めではなく事実として言われたとわかったのだろう。
書庫の奥の棚は、再び静かに閉じられた。
だが一度開いた以上、その中身はもう“なかったこと”には戻らない。
ドレスナー商会への独占契約。
封蝋。
曖昧な条項。
そして、伯父ゲオルクの署名。
点は、もうかなり近いところまで集まってきていた。
部屋へ戻った後、レティシアは革手帖を開く。
書庫奥の封印棚より古い契約書を確認。ドレスナー商会への専属供給契約あり。供給・運搬・損耗免責を一体化。
その下へ、少し間を置いて書き足す。
署名欄にゲオルク伯父様の名。
そこだけ、筆圧がわずかに強くなった。
だが、書いた後はすぐに平らな字へ戻す。
現行草案と骨格が酷似。偶然ではない。身内が回路の内側にいる可能性が濃い。
手帖を閉じると、指先にまだ古い蝋の匂いが残っている気がした。
それは高価な香油の残り香よりも、ずっと重く、ずっと冷たかった。




