第23話 税率より恐ろしいもの
荷馬車の積載札に残った書き換え跡と、剥がし戻された穀袋の封印。その不自然な規則性を胸にしまったまま、レティシアは翌朝、書庫のいちばん奥の閲覧机へ向かった。
今日は穀物輸送ではない。
イーダ・ノルデンから預かった、あの皺だらけの領収証を確かめる日だった。
擦り切れた銅貨袋ごと差し出された紙は、今も薄布に包んで革手帖へ挟んである。紙そのものは軽い。だが、そこに書かれた数字は重い。あの未亡人が「間違いかと思ったんです。でも毎年、少しずつ……」と口にした時の声まで、数字の横に張りついて離れなかった。
「徴税台帳は、こちらでよろしいですか」
ルカが抱えてきた帳簿を机へ置く。
厚い革表紙に金具のついた、いかにも役所仕事らしい重たい台帳だった。年ごとの徴収区分、村ごとの取りまとめ、土地面積、法定税率、納付済みの印。形式だけ見れば、きちんとしている。
「ええ。まずはイーダさんの村から」
頁をめくる。
乾いた紙の匂いと、インクの古いにおいが立った。整った字で並ぶ地番と氏名。その中にノルデンの名を見つけた時、レティシアは指先をそっと止める。
「ありました」
ルカが覗き込む。
「面積は領収証と一致していますね」
「ええ。課税区分も」
そこまでは問題ない。
問題はその先だった。
正式な徴税台帳に記されている法定の税額を計算し、イーダの領収証に記された実際の徴収額と見比べる。差額は、やはりある。しかも勘違いでは済まない程度に、きっちりと。
「税率は合法でも、この名目は何ですの」
レティシアは低く言った。
ルカが視線を落とす。
徴税台帳の欄外、正規の税額とは別に、小さな追記があった。本文の行から少し外れたところへ、後から書き足したような細い字で、
冬道整備費
徴収手間賃
保全協力分
といった言葉が並んでいる。
どれも、いかにももっともらしい。
法定税率そのものは台帳通りだ。そこだけを見れば、違法ではないと言い張れるだろう。けれど欄外へ滑り込ませた名目不明の上乗せ分が、領民の首をじわじわ締めている。
「正式な勅令や領内通達に、こうした追加負担の規定は」
「少なくとも、僕は見ていません」
ルカの答えは慎重だった。
「“冬道整備費”なら、豪雪の年に臨時で集めた例は昔あったかもしれません。でも、毎年のように固定で載るなら変です」
「ええ。しかも」
レティシアはもう一度、イーダの領収証を開いた。
皺だらけの紙の下段にも、同じような字で追記がある。本来の徴税票の欄ではなく、余白に寄せるような書き方だ。誰かが、正式な帳面の形を壊さずに余計な金だけ足す方法を心得ている。
「正面から税率を上げれば目立ちます」
「だから欄外に逃がした」
「そういうことでしょうね」
台帳をさらに遡る。
前年、前々年、そのまた前。
少額の上乗せは、確かに少しずつ増えていた。最初は“道路補修分”だけだったものが、翌年は“運搬補助”が加わり、その次は“冬道整備費”と“徴収手間賃”が顔を出す。
一つひとつは、絶望するほどの額ではない。
だが、だからこそ質が悪い。
悲鳴を上げるほど一度に奪わず、我慢できる範囲で、しかし確実に削っていく。未亡人ひとり、子ども二人の暮らしから見れば、その“少し”が冬の薪になり、薬草になり、次の種になる。
レティシアの胸の奥で、静かな怒りがじわりと立ち上がった。
合法を装うことは、不正を見えにくくする。
帳面の上で正しい顔をしていれば、人は疑いにくい。領民の側も、「決まりなら仕方ない」と思い込まされる。あるいは、間違いだと思っても、自分ひとりが細かいことを言っているだけだと飲み込んでしまう。
イーダがそうだった。
毎年、少しずつ。変だと思いながらも、声にすれば面倒になる。侯爵家に訴えても、逆に睨まれるかもしれない。だから黙る。黙るうちに、少しずつ削られる。
また"足りるはずのもの"が削られている。
その思いが不意に胸を刺した。
足りるはずのもの。
冬を越すために取っておくべき粉。
子どもに回るはずの一切れ。
数えていれば足りるはずだったものが、気づかぬところで減っていく。
飢えは、ある日突然やって来るのではない。こういう小さな削り取りの積み重ねの先で、人は“気づいた時には足りない”場所へ追い詰められるのだと、レティシアの身体はどこかで知っていた。
思い出しかけた冷たさを振り払うように、彼女は台帳へ視線を戻した。
「お嬢様」
ルカが静かに呼ぶ。
「……お顔の色が」
「大丈夫です」
少し短く返しすぎたかもしれない。だが今は、心配されるより先に数字を揃えたかった。
「これを見て」
レティシアは欄外の印を指した。
「冬道整備費の印がある家と、ない家があります。同じ村でも」
「本当だ」
ルカが身を寄せる。
「しかも面積の大きい家より、小さい家に載ってることがある」
「取りやすい相手を選んでいるのかもしれません」
「反発しにくい相手、ですか」
「ええ。未亡人、年寄り、小作寄りの家、声を上げにくい家」
言葉にした瞬間、怒りの輪郭がもう一段はっきりした。
これはただの雑な上乗せではない。
制度の隙間を知り、法に触れぬ顔を保ち、なおかつ反発の弱い相手から静かに取る。そういうやり方だ。
それは税率より恐ろしい。
税率が高ければ、人はまだ怒れる。帳面に明記され、誰の目にも見えるからだ。だが名目不明の手数料や整備費は、まるで霧のように暮らしへ入り込み、気づけば銅貨袋の底を薄くする。
「許せませんね」
ルカが珍しく、はっきり言った。
「ええ」
レティシアも頷く。
「法の顔をしているから、なおさら」
午前のうちに、二人は同じ村の他の家の記録も抜き出していった。欄外手数料の有無、名目の違い、増え方の推移。きれいに揃ってはいない。むしろ、揃いすぎぬようわざと散らしているように見える。
「一律じゃないのが、逆に厄介です」
ルカが言う。
「決まりだと言われると、比較しにくい」
「ええ。村の中でも、人は自分の家の分しか見ませんもの」
「横に並べないと気づけない」
「だから横に並べます」
レティシアは別紙に家ごとの一覧を書き始めた。名前、地番、法定税額、実徴収額、欄外名目。たった数件並べるだけで、見え方が変わる。
数字は、並べて初めて声を持つ。
その感覚はパン屋でも学んだ。売れ残りを時間帯で分けた時も、朝市限定品を通常品と切り離して見た時もそうだった。領地の徴税も同じだ。単独の紙では“そういうもの”に見える。だが並べれば、誰が、どこで、どの名目で余計に取られているかが浮く。
昼過ぎ、マルガレーテが茶を持って来た時、机の上には何枚もの比較表が広がっていた。
「まあ」
侍女頭は静かに目を細めた。
「また随分と紙が増えましたこと」
「増やさねば見えませんでした」
レティシアはイーダの領収証を示した。
「この方の違和感は正しかったのです。税率自体は法の範囲内。けれど、欄外で削られている」
マルガレーテは控えめに紙へ目を落とし、すぐに事情を察したらしい。
「それは、反論しにくうございますね」
「ええ。“決まりだ”と言われれば終わる」
「決まりの形をしていれば、皆さま飲み込まれてしまいますもの」
その言い方が、レティシアには少し痛かった。
飲み込まれてしまう。
制度は本来、人を守るためにあるべきだ。だが形だけの正しさを被せれば、人を黙らせる檻にもなる。
「お嬢様」
マルガレーテが静かに続ける。
「お怒りでございますね」
問いではなく、確認するような声だった。
レティシアは少しだけ息を置いた。
「ええ」
否定はしなかった。
「数字の問題でもありますが、それだけではありません」
「はい」
「これは、暮らしを削るやり方です」
冬道整備費、と書けば正しく聞こえる。
徴収手間賃、と書けば仕方なく見える。
保全協力分、と書けば善意の顔さえする。
だが、削られているのは現実だ。薪代、粉代、靴底、子どもの口に入るはずの一口。その一口一口を、帳面の欄外で奪っていく。
それがどれほど卑劣か、レティシアにはわかった。
午後、さらに数冊の徴税台帳を見比べるうちに、ひとつの傾向が見えてきた。欄外の名目が増え始める時期が、あの灰色の背表紙の帳簿――様式の違う三か月分の空白が出た頃と、おおむね重なっているのだ。
まだ断定はできない。
だが、偶然にしては気味が悪い。
「この時期から、ですね」
ルカが比較表の端を指す。
「ええ」
「前任会計官の帳簿が途切れた頃と近い」
「そう」
レティシアは短く答えた。
点が、また一つ増えた。
帳簿の空白。
輸送途中で減る穀袋。
欄外で上乗せされる手数料。
どれもまだ、ひとつの線では結べない。けれど、同じ時期、同じ方向で、領地から“足りるはずのもの”を削っている。
それだけは確かだった。
夕方、書き上げた比較表をまとめながら、レティシアは革手帖を開く。
正式な徴税台帳を確認。税率自体は法定範囲内。だが欄外に名目不明の手数料、冬道整備費、徴収手間賃等が上乗せされている。
その下に、少し強く筆を置く。
違法を避け、合法を装う搾取。税率より恐ろしい。
さらに、最後にもう一行だけ書き足した。
また"足りるはずのもの"が削られている。
書いた瞬間、胸の奥に冷たいものがよぎった。
深追いはしない。まだ、そこへ落ちていくには早い。
けれど、構造は似ている。
人は飢える前に、まず少しずつ削られるのだ。
手帖を閉じた時、レティシアの怒りはもう熱ではなく、輪郭のある決意に変わっていた。
税率が合法だからといって、見逃す理由にはならない。
むしろ、合法の顔をした搾取こそ、帳面の上から引きずり出さねばならなかった。




