第22話 荷馬車はどこで減る
パン屋の黒字が、総勘定元帳のどこにも残っていない。
その事実を突きつけられた翌朝も、レティシアの頭の中には事業別損益と総勘定元帳の差分が、そのまま重なっていた。
現場は立て直せる。
だが、立て直した分が家に残らない。
ならば、現場より先で金が消えている。
帳簿の上で見える“差分”は、必ずどこかの実物に繋がっているはずだった。紙の上で曖昧にされていても、積んだ荷、払った貨幣、運んだ人足までは消えない。
だからレティシアは、その日の午前、書庫ではなく馬屋へ向かった。
乾いた藁の匂いと、獣の体温のこもった空気が鼻を打つ。屋敷の奥まった廊下とはまるで違う、生きた現場の匂いだった。
「お嬢様がこちらへいらっしゃるのは珍しゅうございますね」
後ろについたマルガレーテが言う。
「珍しいことをしなければ、見えないものがあります」
レティシアはそう返して、馬屋の奥へ目を向けた。
そこにいたのが、馬丁頭のパウル・エーダーだった。
四十五ほど。肩幅の広い、日に焼けた男で、黙って立っているだけなら馬車の陰と見分けがつかないほど地味な佇まいをしている。だが、馬の足元へ目を落とす時も、手綱の革を撫でる時も、その動きには長年の慣れと注意深さがあった。
「パウル」
マルガレーテが呼ぶと、男は振り返り、すぐに帽子を取って一礼した。
「お嬢様」
短い声だった。
「穀物輸送の記録を見せてください」
レティシアが言うと、パウルは一瞬だけ黙った。驚いたというより、どこまで話してよいか測るような間だった。
「記録、ですか」
「ええ。積み込み数、到着数、経路、所要日数。残っているものをすべて」
パウルはすぐには答えず、手にしていた革手綱を木杭へ掛けた。それから無言で奥の小机へ向かい、引き出しから厚手の紙束を取り出す。
馬屋にある記録だから、書式は屋敷の帳簿ほど整ってはいない。だが、積載札の控え、馬車ごとの割り振り、出発日と到着日の覚え書きがきちんと残されていた。
思ったよりずっとましだ。
「これを誰が」
「俺と、若いのが少し」
パウルの答えは相変わらず短い。
「数字は得手ではねえんですが」
「十分です」
レティシアは紙束をめくった。
一台ごとに、積み込み時の穀袋数が書かれている。積載札の番号、御者名、出発時刻。倉庫受け入れ側の記録も、別紙で残っていた。
ルカも連れてきていたので、その場で照合を始める。
「出発時、三十二袋。到着時、三十袋」
「次は二十八が二十六」
「こっちは四十が三十八」
読み上げる数字に、レティシアは眉を寄せた。
減っている。
しかも、ただ減っているだけではない。
「二袋ずつ……?」
ルカが小さく呟く。
「多い時でも三、少ない時で一。ですが」
レティシアは紙を並べた。
「事故や破れの報告がない」
普通、輸送途中の損耗が本当に起きたなら、その理由が付く。袋が破れた、雨にやられた、馬車がぬかるみへはまった、盗賊を警戒して一部を置いた。どんな言い訳であれ、現場には跡が残るはずだ。
だが、この記録は妙に静かだった。
減った数字だけがあって、乱れた事情がない。
「パウル」
レティシアは顔を上げた。
「あなた、前からおかしいと思っていたのでは?」
男は答えるまでに少し時間をかけた。
口のきき方が不器用なのだろう。けれど、黙り方にごまかしの軽さはなかった。
やがて彼は、積載札の束の中から何枚かを選び出して机へ並べた。札の端には泥の跡が乾いてこびりついている。
「積んだ数と着く数が、毎度ぴたりと減るんです」
低い声だった。
それだけ言って、彼は別の証拠を出すように穀袋の封印の欠片を机へ置いた。
蝋封の割れた破片。
何でもないように見えるが、割れ方が妙だった。乱暴に破れているのではない。いったん剥がして戻したような、縁の揃いすぎた割れ方をしている。
「これは?」
「たまに、こういうのが混じる」
パウルは言葉少なに答えた。
「倉庫着きの時には、閉じて見える」
「でも開けた跡がある」
レティシアが言うと、パウルは短く頷いた。
「袋も、縫い戻しがきれいすぎる時がある」
そう言って彼は、壁際に積んであった空袋の一つを持ってきた。口の縫い目の一部だけ糸の色が違う。知らなければ見落とすほどの差だが、一度気づけば不自然だった。
マルガレーテが横から静かに覗き込む。
「屋敷の裁縫方ならともかく、荷運びの縫い直しにしては丁寧すぎますね」
「ええ」
レティシアは袋の口を指でなぞった。
「乱雑な事故の跡ではありません」
ルカが記録へ目を落としたまま言う。
「減る回数も、経路によって偏ってます」
「どこ」
「北の村回りより、川沿いです。倉庫へ入る前に一度、街道脇の中継小屋を使う便」
中継小屋。
レティシアはその単語を頭の中で留めた。
記録をさらに並べると、たしかに規則性が見えた。すべての便が減るわけではない。だが、特定の経路、特定の便、特定の規模で、必ず一袋か二袋、きれいに減る。
事故ならぶれる。
天候でも道の荒れでも、減り方にこんな規則は出ない。
「蹄も見ますか」
不意にパウルが言った。
「蹄?」
彼は黙って外へ出て、一台の荷馬車の横へ回った。乾いた泥が車輪と馬の蹄にこびりついている。指でその泥を崩し、下の色を見せた。
「これは街道の赤土じゃない。川沿いのぬかるみだ」
「予定経路と違うのですか」
パウルは頷き、それから少し考えて言葉を足す。
「近道、ってことにされることはある。でも、積荷が重い日に限って余計なぬかるみへ入るのは変だ」
説明は上手くない。
だが、見てきた者の確信があった。
彼は長年、馬を見て、車輪を見て、泥を見てきたのだろう。だから帳簿ほど滑らかに話せなくとも、違和感の形は知っている。
「なぜ今まで言わなかったの」
レティシアが尋ねると、パウルは少しだけ視線を落とした。
「言ったことはあります」
「誰に」
「上へ」
それ以上は言わなかった。
だが、それで十分だった。
上へ言った。
それで変わらなかった。
ならば、ただ現場の不注意で済まされてきたのではない。見えていて放っておかれた可能性が高い。
レティシアは積載札の束を順番に並べ直した。
出発時の袋数。
到着時の袋数。
封印の状態。
袋口の縫い直し。
車輪と蹄の泥。
全部は別々の証拠だ。けれど、向いている先は同じだった。
「事故ではありませんね」
レティシアが静かに言うと、ルカも頷いた。
「はい。少なくとも、全部を事故で説明するのは無理です」
マルガレーテが目を細める。
「規則的すぎますもの」
「ええ」
レティシアは紙の上の数字を指先で押さえた。
「減るなら減るなりの理由がある。けれど、自然な損耗にしては揃いすぎています」
穀袋は生き物ではない。
事故もまた、こんなに行儀よく起きはしない。
毎度ぴたりと減る。
その“ぴたり”こそが不正の匂いだった。
パウルは無言で、もう一枚の積載札を差し出した。端に黒くこすれた印があり、裏には小さく追記がある。
「これも」
「何ですか」
「札の書き換え跡です」
レティシアは目を凝らした。
最初の数字を削り、その上から別の数字を書いた薄い痕跡がある。しかも書き換えた後の数が、到着数とぴたり合う。
「出発時ではなく、途中で帳尻を合わせたのね」
ルカが低く言う。
「たぶん」
短い相槌だったが、その声は少し硬かった。
レティシアは彼を見た。彼はもう、何も知らないふりはできないところまで来ている。だが今は問い詰めない。言葉より先に証拠を積むべき時だ。
馬屋の外では、昼の光が白く乾いている。
その明るさに対して、机の上に並んだ紙と封印の欠片はやけに冷たく見えた。
「パウル」
レティシアは改めて男を見た。
「この記録、しばらく預かれますか」
「はい」
「それから今後、出発前の積載札の控えを必ず二枚取ってください。一枚はあなたが持つ。一枚はわたくしへ」
パウルは一瞬だけ驚いたように目を上げ、それから頷く。
「……わかりました」
「封印も、割れ方が不自然なものは残しておいて」
「はい」
「泥のついた車輪や蹄も、気づいた便は書き留めて」
そこまで言うと、パウルは少しだけ息を吐いた。
安堵に近い気配だった。ようやく“見ている者がいる”と伝わったのかもしれない。
「お前さんは」
オットーなら言いそうな、ぶっきらぼうな物言いではなく、ただ不器用に言葉を探す声だった。
「見て終わりじゃないんですね」
「当然です」
レティシアは即答した。
「見たなら、揃えます。揃ったら、使います」
パウルはそれ以上何も言わなかった。
だが、帽子を胸の前で握る手がほんの少しだけ緩んだのを、レティシアは見た。
帰り際、ルカが小さく言った。
「やっぱり、現場に出ると違いますね」
「ええ」
レティシアは積載札の控えを見下ろした。
「紙だけでも違和感は見えます。でも、車輪の泥や封印の割れ方までは、現場へ来なければ掴めません」
「帳簿の差分が、荷馬車の上に乗ってた」
「そういうことです」
書庫で見えた“消える金”は、ここでは“減る袋”になっていた。
形は違うが、本質は同じだ。
途中で抜かれている。
しかも偶然ではなく、規則的に。
レティシアはその夜、革手帖へ今日のことを書きつけた。
穀物輸送の記録と実際の到着数を照合。特定経路で一〜二袋ずつ規則的に減少。事故報告なし。
その下へ、さらに並べる。
穀袋の封印に剥がし戻しの痕。袋口に不自然な縫い直し。積載札に書き換え跡。蹄と車輪の泥は予定経路と合わない便あり。
そして最後に、迷いなく結論を書いた。
事故ではない。輸送経路のどこかで抜かれている。
紙の上の差分は、もうただの数字ではなかった。
荷馬車は、どこかで減る。
ならば次に見るべきは、どこで、誰の手で、どの顔の下で減るのか――その一点だけだった。




