第21話 黒字の先で消える金
パン屋の壁に掛けられた記録板は、もう誰かに言われなくても朝ごとに白墨の跡を増やしていくようになっていた。
焼き上がり、売切れ、廃棄、持ち帰り。エルザが書き、ルカが拾い、オットーが渋い顔で眺めながらも翌日の焼き数へ反映させる。たった一軒の店だが、そこには今、数字が生きていた。
味方になった店。
そう呼べる場所ができたことは、レティシアにとって小さくない意味を持っていた。
だが、その足場を得たからこそ、逆に見えてしまうものもある。
屋敷へ戻った途端、空気はまた冷える。
使用人たちの視線は礼儀正しく伏せられるが、そこに親しみはない。廊下の角に残る気配も、昨日マルガレーテが足を止めた一瞬も、気のせいで片づけるには静かすぎた。
そして何より、帳簿が静かすぎた。
翌朝、レティシアは書庫の閲覧机へ、パン屋の月末帳簿と領地の総勘定元帳を並べた。
片方には、先日ようやく刻まれた小さな黒字の数字。
もう片方には、領地全体の収支をまとめた重たい元帳。
店が黒くなったなら、本来はほんのわずかでも家の呼吸が楽になるはずだった。ひと月に一軒の店が生む利益など、大きな財政から見れば滴ほどでしかない。それでも、滴なら滴なりに水面は揺れる。
ところが、揺れていない。
「ルカ」
レティシアは頁を押さえたまま呼んだ。
「はい」
「パン屋の月末の残り、こちらへ写して」
ルカはすぐ隣に立ち、店の帳面から数字を読み上げる。
「売上、支出、試食分補正後……差引、黒です」
「ええ」
レティシアはそれを、別紙に整理した事業別損益の表へ書き入れた。パン屋だけを切り出して見れば、収支は間違いなく黒へ転じている。動線改善、売れ残りの調整、試食会、朝市限定品、配合の小調整。その全部が積み重なった結果だ。
数字はきれいだ。
きれいすぎるほどに。
「次に、総勘定元帳」
重たい帳簿を開く。
今月の現金繰越、各事業からの納入、領地支出、臨時補填、未収、仮払。大きな流れを追うだけでも頭が痛くなる量だが、パン屋で毎日数字を揃えてきた今のレティシアには、以前より見えやすかった。
見えやすいからこそ、違和感が刺さる。
「……おかしいわね」
つい口に出る。
ルカが静かに視線を落とした。
「何がですか」
「パン屋の黒字分が、ここに残っていないの」
レティシアは総勘定元帳の月末残高を指した。
「増えていてよいはずの分が、見えません」
たしかに他の支出もある。領地全体を支える金の流れは、パン屋ひとつの利益で左右されるほど軽くはない。だが、それでも差分が消えすぎている。
レティシアは別紙の横に線を引き、簡易的に照合を書き始めた。
パン屋の事業別損益では、今月は黒。
ならばその黒の分だけ、少なくとも屋敷側の手元資金か繰越に薄く反映されるはず。
ところが総勘定元帳を見ると、同時期に別の名目の支出が妙に増えている。額は大きくない。だがいくつもに分かれ、ちょうど黒字分を吸い取るように並んでいた。
「運搬補填、保管調整、臨時雑費……」
レティシアは低く読み上げた。
「何ですか、この“調整”という言葉は」
「昔から、よくあります」
ルカの答えは短い。
「便利な言葉ですね」
「……はい」
便利な言葉。
帳面の上で意味をぼかしたい時、人はよくそういう言葉を使う。パン屋の頃なら“何となく”で済まされていた部分だが、領地全体の元帳でそれをやられると話が変わる。
レティシアはさらに頁をめくった。
前月。前々月。その前。
似たような小さな名目が、季節も事業も関係ない顔で差し込まれている。ひとつずつは小さい。だが積めば無視できない。
「……店は黒いのに、家計が赤い……どこで消えているの」
呟くと、書庫の空気が少しだけ重くなった気がした。
ルカは返事をしない。
レティシアは手を止め、彼を見た。
「あなた、前から気づいていたのではありませんか」
唐突に問われても、ルカは大きく動かなかった。ただ、視線だけがほんのわずかに泳いだ。
「どうしてそう思われるんです」
「今の返事が早すぎませんでしたもの」
「……そうですか」
「それに、“昔から、よくあります”とあなたは言ったわ」
レティシアは静かに続ける。
「見慣れていなければ出ない言い方です」
ルカはしばらく黙っていた。
書庫の高窓から落ちる薄い光が、彼の横顔を白く切り取っている。隠し事が得意な人間には見えない。けれど、言えないことを抱えて黙る顔には見えた。
「……帳場の下働きでも、見るものは見ます」
やがて彼は低く言った。
「ただ」
「ただ?」
「知っていても、口にしていいことばかりじゃありません」
その声音は粗くない。むしろ、いつもより慎重だった。
「誰にとって?」
レティシアが問う。
「……皆にとって、です」
曖昧な答えだった。
だが、はぐらかしだけではない。そこには本当に何かを恐れている気配があった。
レティシアは追い詰めるような真似をしなかった。
今ここで無理に吐かせても、言葉の価値が薄れるだけだとわかる。彼は黙っているのではなく、黙らざるを得ない線の上に立っている。
「わかりました」
そう言うと、ルカが一瞬だけ顔を上げた。
「聞かないんですか」
「今は、です」
レティシアは総勘定元帳へ視線を戻す。
「けれど、聞かなくて済むとは思っていません」
そのまま、差分の洗い出しを続けた。
パン屋の黒字が、どこで消えるのか。
どの勘定科目に吸われているのか。
“調整”や“補填”の名で動く金は、何と引き換えに出ていくのか。
事業別損益の紙と総勘定元帳を並べると、ずれはますます鮮明になった。店単体では立て直せている。にもかかわらず、総体は沈んだままだ。
ならば原因は現場の赤字ではない。
別の場所だ。
もっと上流で、もっと帳面の中で、何かが金を食っている。
昼前、マルガレーテが茶を運んできた時も、レティシアは机から動かなかった。
「お嬢様、少しはお休みを」
「まだです」
「目が赤うございます」
「数字がもっと赤いのです」
その返しに、マルガレーテはわずかに困ったような、それでいて止めても無駄だと知っているような顔をした。
「何か見えましたか」
「ええ」
レティシアは別紙を示した。
「パン屋の黒字が消えています」
「消える、とは」
「残るべきところへ残っていないのです」
マルガレーテは書かれた差分を見て、静かに目を細めた。
「それは……妙でございますね」
「妙、で済めばよいのですが」
事実として並べれば並べるほど、嫌な確信に近づいていく。
帳簿の空白。
カミルの契約草案。
イーダの領収証。
そして今、事業別損益と総勘定元帳の差分。
別々に見えたものが、少しずつ同じ場所へ収束している気がした。
「パン屋は黒字になりました」
レティシアは静かに言う。
「それなのに屋敷の息が少しも楽にならない。なら、問題は現場ではありません」
「どこか別のところで」
「ええ」
レティシアは指先で総勘定元帳の欄外を叩いた。
「どこかで金が抜かれている」
その言葉は、書庫の石壁に吸い込まれるように消えた。
誰もすぐには何も言わなかった。
だが沈黙そのものが、もう否定にはなっていない。
レティシアは革手帖を開き、今日の結論を書きつける。
パン屋の事業別損益は黒字。だが総勘定元帳にその改善が反映されず、差分が“調整”“補填”名目で消えている。
そして、その下へ迷いなく続けた。
現場の赤字ではない。どこかで金が抜かれている。
書き終えた時、胸の内には妙な静けさがあった。
怒りより先に、輪郭が見えた静けさだ。
問題が大きいことはわかっている。
けれど大きい問題も、最初は小さな差分からしか掴めない。
一軒の黒字が家に残らないなら、その途中に何かがいる。
そう確信したまま、レティシアは次の頁をめくった。




