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婚約破棄で破滅予定の悪役令嬢ですが、赤字領地を黒字にしてみせます  作者: gachapin2223


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19/51

第19話 領民がくれた一枚の紙

ドレスナー商会長カミルから受け取った契約草案は、その夜のうちに三度読み返した。


金の縁取りの名刺は机の端へ伏せて置いたままだ。上等な紙と高価な香油の残り香は、部屋の空気の中にまで薄く残っている気がして、どうにも落ち着かない。


数量の定義。


損耗の扱い。


支払猶予の但し書き。


どこも表向きは整っている。整っているからこそ、曖昧さの置き方がいやに巧妙だった。


そして、それ以上に気にかかるのは伯父ゲオルクの反応だった。


カミルが答えるより先に目を逸らしたこと。


支払猶予の話で指先を強張らせたこと。


あれは単に商人へ気を遣う顔ではない。もっと切実で、もっと後ろ暗い沈黙に見えた。


「……借り、かしら」


そう呟いてみても、まだ証拠はない。


帳簿の空白も、契約草案の違和感も、今はまだ点のままだ。けれど、どの点も同じ方角を向いているように思えてならなかった。


翌朝、レティシアは契約草案を革手帖と一緒に鞄へ入れ、いつも通りパン屋へ向かった。


店先には、もう朝の客が並び始めている。朝市限定の札は、今や珍しさだけではなく、きちんと人を呼ぶ札になっていた。


黒パンの焼き上がりを待つ者、小さい食事パンを二つだけ買っていく者、試食を覗き込む子ども。人の流れができている。


その光景はたしかに心強い。


だが今日は、店先の賑わいがどこか遠く見えた。


「お嬢様、顔が怖いです」


帳場の横でルカが静かに言った。


「そうかしら」


「昨日のお客様ですか」


「ええ」


レティシアは鞄の上から契約草案に触れた。


「良い話ほど、後ろを確かめたくなります」


「いつも以上に、ですね」


「いつも以上に、です」


ルカはそれ以上聞かなかった。代わりに記録帳を開き、朝の売れ行きを拾い始める。察しのよい沈黙はありがたかった。


昼前になると、朝の混雑は一度やわらぐ。


エルザが空いた籠を下げ、オットーは次の焼き上がりを見ている。客足が切れたわずかな時間、店先に一人の女が立っているのが見えた。


年は三十を少し越えたくらいだろうか。質の落ちた外套をきちんと繕って着ている。頬は痩せているが、みすぼらしさより先に、身なりを崩すまいとする意地のようなものが見えた。


その足元に、七つほどの男の子と五つほどの女の子が寄り添っている。


女はすぐには中へ入ってこない。


何度か店の中を見て、こちらと目が合いそうになるたびに少しだけ視線を伏せる。帰ろうとして、けれど帰らず、子どもの手を引いたまま立ち尽くしていた。


レティシアはそれを見て、店先へ出た。


「何か御用でしょうか」


声をかけると、女の肩がわずかに震えた。


怯えさせた、とレティシアはすぐに気づく。


評判が少し変わったとはいえ、領民にとって侯爵家の令嬢はまだ十分に“近づきにくい側”の人間なのだ。


「……あの」


女は低い声で言った。


声を荒げるでも、泣き崩れるでもない。ただ、腹の中で長く押し留めてきたものを、慎重に外へ出そうとするような話し方だった。


「少し、お時間をいただけますか」


「ええ。中へどうぞ」


そう促すと、女は一瞬だけ迷った後、子どもたちを伴って戸口の内側へ入った。だが奥までは進まず、入口近くで足を止める。その位置取りが、用心深さそのものだった。


エルザもルカも、何事かと視線を向ける。オットーは窯前から動かなかったが、耳だけは明らかにこちらを向けていた。


「お名前は」


「イーダ・ノルデン、と申します」


やはり三十代半ばほどに見えた。三十四、と言われれば納得する顔立ちだ。疲れはあるが、弱々しさだけではない。歯を食いしばって立ってきた人間の骨の強さがあった。


「イーダさん」


レティシアはできるだけ平らに呼んだ。


「どうされました」


イーダはすぐには答えず、手に持っていた擦り切れた銅貨袋をぎゅっと握った。袋の口紐は何度も結び直された跡があり、布地の角は薄くなっている。


やがて彼女は、その袋と一緒に、皺だらけの紙を差し出した。


「これを」


受け取ると、それは領収証だった。


紙質は粗く、四つ折りにされていたせいで折り目が擦り切れかけている。だが印章は確かに領内徴税のものだ。


レティシアの指先が自然と硬くなる。


「今年のものですか」


「はい」


「畑の分?」


「ええ。小さな麦畑と、家の裏の菜園だけです」


レティシアはその場で目を走らせた。


納付者名、地番、課税区分、徴収額、納付済印。


一見して、整っている。


だが次の瞬間、違和感が数字になって立ち上がった。


「……高い」


思わず、声が漏れた。


イーダはその反応を見て、初めてわずかに顔を上げた。


「やはり、でございますか」


「この面積で、この額は」


レティシアは紙の下段を見た。


基本税額の他に、細かな追記がある。保全費。道路整備協力分。運搬手数。しかも、そのいくつかが本来の徴税票にはない書式で、あとから書き足されたように見えた。


「これは、どなたから受け取ったのです」


「村の取りまとめ役を通してです」


「毎年同じ?」


イーダは一度、子どもたちの方を見た。


泣き言を言う母親ではいたくないのだろう。背筋を崩さないまま、静かに答える。


「間違いかと思ったんです。でも毎年、少しずつ……」


その言葉は大きくなかった。


けれど、レティシアの胸にははっきり落ちた。


毎年、少しずつ。


それは一番見えにくく、一番長く続くやり方だ。


急に倍にはしない。悲鳴が上がるほど一度に取らない。だが文句を言いにくい程度ずつ、じわじわ上げる。


パン屋で見た“慣習”とは違う。


こちらは、人が気づきにくい線をわかってやっている匂いがあった。


「去年の領収証はありますか」


レティシアが問うと、イーダはかすかに首を横に振った。


「全部は残せませんでした。冬に薪代が足りなくて、古紙に混ぜてしまって……」


「そう」


責める気にはなれなかった。


残せなかったのではない。残す余裕がなかったのだ。


銅貨袋の擦り切れ方を見ればわかる。きっと彼女は、袋の中身を何度も数え、足りるか足りないかを確かめながら冬を越えてきたのだろう。


「ご主人は」


問いながら、子どもの顔を見てしまってから、レティシアは少し遅れて察した。


イーダは表情を大きく変えなかった。


「三年前に病で」


「……失礼しました」


「いいえ」


彼女の返しは穏やかだった。慣れた痛みの扱い方を知っている声だった。


「誰にでも話すことではありませんが、隠しても変わりませんので」


店の中は静かだった。


エルザも、いつの間にか手を止めてこちらを見ている。ルカの目は紙へ落ちていたが、その沈黙はいつもより硬い。


「どうして、わたくしにこれを」


レティシアが尋ねると、イーダは少しだけ迷ってから答えた。


「……パン屋のことを聞きました」


「パン屋?」


「変な札を出して、数字を見て、前より無駄を減らした、と」


エルザが微妙な顔をする。変な札、という言い回しが町で定着しつつあるらしい。


「それで?」


「数字を見る方なら、紙も見てくださるかもしれないと」


その後に、ほんのわずかな間があった。


「ただ」


「ただ?」


「もし違っていたらと思うと、怖くて」


その“怖い”は、きっと紙の間違いを指すのではない。


訴えた相手が侯爵家の側で、逆に目をつけられるかもしれないこと。村で生きていく中で、面倒な女と見なされるかもしれないこと。そういう現実の怖さだ。


だからこそ、今日まで我慢してきたのだろう。


領民たちは、まだレティシアを信じ切ってはいない。


助けを求めるより先に、怯えの方が立つ。その距離を、レティシアは痛いほど理解した。


「違っておりません」


レティシアは領収証を見たまま、はっきりと言った。


「少なくとも、この額は正規のままでは説明がつきません」


イーダの指先が、銅貨袋の口紐をぎゅっと握る。


ほっとしたのか、余計に怖くなったのか、そのどちらも混じった顔だった。


「では」


「すぐに断定はいたしません」


レティシアは先回りして言った。


「ですが、調べます。この紙は預かっても?」


イーダは一瞬だけ子どもたちを見て、それから頷いた。


「はい」


「代わりに控えを作ります」


ルカへ振り向く。


「筆記具を」


「はい」


彼はすぐに動いた。帳場から紙とペンを持ってきて、手際よく控えの体裁を整え始める。その横顔は静かだが、目だけが鋭かった。


「イーダさん」


レティシアは改めて彼女を見た。


「今日ここへ来たことを、むやみに人へ話す必要はありません」


「……はい」


「ただ、もし他にも似た紙を持つ方がいれば、その方のお名前だけでも後で知らせてください」


「わかりました」


イーダは慎重に答えた。


安請け合いはしない。だが、できることならやるという響きだった。


その慎重さに、レティシアはかえって信頼を覚えた。


感情の勢いだけで動く人ではない。だからこそ、この一枚の紙を持ってくるまで、長く迷ったのだろう。


控えを書き終えたルカが、領収証をそっと布に挟んで差し出す。


「皺をこれ以上増やさないようにします」


その言い方に、イーダがほんの少しだけ目を見開いた。


たぶん彼も、この紙の重さを理解している。


ただの紙切れではない。


一人の未亡人が、何年も違和感を飲み込みながら、それでも捨てずに持っていた証だ。


イーダは控えを受け取り、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


「礼はまだ早いです」


レティシアは静かに言った。


「これが何につながるか、まだわかりませんから」


「それでも」


イーダは顔を上げた。


「見てくださって、ありがとうございます」


その一言だけは、抑えた声の奥に確かな重みがあった。


彼女が子どもたちを連れて去った後も、店の中にはしばらく静けさが残った。


最初に口を開いたのはエルザだった。


「……あれ、本当に高いの?」


「高いわ」


レティシアは即答した。


「少なくとも、正規だけではああなりません」


「でも印も押してあった」


「だから厄介なのです」


印がある。書式も一応は整っている。村を通して徴収されている。つまり、雑な横領ではない。もっと日常に紛れた形だ。


ルカが低く言う。


「毎年、少しずつ、ですか」


「ええ」


レティシアは布に包んだ領収証を見た。


毎年、少しずつ。


帳簿の空白と同じ匂いがする。急激にではなく、だが確実に底を抜くやり方。


オットーが腕を組んだまま、珍しく難しい顔をしていた。


「店の赤字どころじゃねえ話だな」


「ええ」


レティシアは頷く。


「これは個人の嘆きで終わる話ではありません」


むしろ、入口だ。


皺だらけの領収証一枚。


擦り切れた銅貨袋ひとつ。


そこから領地全体の不正へ続く道があるのだとしたら、見逃すわけにはいかなかった。


レティシアは革手帖を開き、今日のことを書きつける。


未亡人イーダ・ノルデンより領収証を預かる。正規より高い徴税額。追記項目に不自然あり。本人いわく「間違いかと思ったんです。でも毎年、少しずつ……」


そして、その下にもう一行。


個人の我慢の中に、領地全体の歪みがある。


書き終えた時、胸の奥は奇妙なほど静かだった。


怒りはある。違和感も、警戒もある。


けれど今は、感情より先に数字が道を示していた。


一枚の紙は軽い。


だが、その軽さで領地ひとつを崩すこともあるのだと、レティシアはもう知り始めていた。

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