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婚約破棄で破滅予定の悪役令嬢ですが、赤字領地を黒字にしてみせます  作者: gachapin2223


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第18話 仕入れ商の笑顔

灰色の帳簿に残された三か月の空白は、その夜もレティシアの頭から離れなかった。


背表紙の色が違う一冊。


欠落した月次帳。


前任会計官ハインリヒという、今はもういないらしい男の名。


まだ何も繋がってはいない。けれど、繋がっていないままにしておくには、あの空白はあまりにも都合がよすぎた。


だから翌朝、ゲオルクから「良い話がある」と呼びつけられた時、レティシアは反射的に身構えた。


良い話、という言葉ほど、帳簿の外では信用しづらいものはない。


応接間へ入ると、伯父は珍しく機嫌のよさそうな顔をしていた。


「来たか、レティシア」


「お呼びと伺いました」


「ああ。お前のパン屋の件、聞いているぞ」


ゲオルクは重たそうな身体を椅子へ預けたまま、ひとつ咳払いする。


「単月黒字を出したそうだな。たいしたものだ」


「ありがとうございます」


レティシアは淡々と頭を下げた。


褒められて悪い気はしない。だが、その先に続く“良い話”の方が気になる。


「実はな、その成果を見て、ぜひ話したいと言ってきた方がおられる」


そう言ってゲオルクが視線を向けた先に、客人がいた。


すでにソファへ腰かけていたその男は、年の頃三十代半ばほど。暗い色の上等な上着を着こなし、指先までよく手入れが行き届いている。整えられた黒髪、柔らかな微笑、そして近づいた瞬間にふわりと漂う高価な香油の匂い。


甘すぎず、だが覚えやすい香りだった。


「初めてお目にかかります、レティシア様」


男はゆるやかに立ち上がり、実に洗練された所作で一礼した。


「ドレスナー商会の会長、カミル・ドレスナーと申します」


差し出された名刺には、金の縁取りがあった。


紙質も厚く、印字も美しい。商会の紋章が控えめに押されている。見せびらかす寸前で止めたような上品さだが、そこにかけられた金が安くないことは一目でわかる。


「レティシアです」


受け取りながら、レティシアは相手の微笑を正面から見た。


如才ない、という言葉がぴたりと当てはまる顔だった。


不快ではない。


むしろ親しみやすい部類だろう。だが、親しみやすさの内側に何を隠しているかまでは、その笑顔は教えてくれない。


「パン屋の立て直し、お見事でございます」


カミルは穏やかに言った。


「町でも、随分と噂になっておりますよ。冷たい令嬢が変な令嬢になった、と」


最後を軽い冗談めかして言うあたり、距離の詰め方がうまい。


「不名誉ですが、害はなさそうですね」


「ええ、商売では“気になる”が何よりの呼び水になりますから」


さらりと出た言葉に、やはりこの男は商人だとレティシアは思った。


人の目線をよく知っている。


「それで、良い話とは?」


レティシアが促すと、カミルは待っていたように手元の書類を開いた。


「単刀直入に申し上げましょう。侯爵領内の小麦および小麦粉の仕入れを、今後は弊商会で一括してお引き受けできればと考えております」


契約草案が机上へ置かれる。


端正な字で整えられた文面。供給量、納期、単価、輸送手配、支払期日――一見しただけなら、驚くほど悪くない。むしろ好条件に見える。


現行より少し安い。


輸送もまとめて持つ。


不足時の追加供給にも応じる。


町外れのパン屋だけでなく、領内の他の小口店舗まで視野に入れた内容だった。


「破格ですね」


レティシアが言うと、カミルは謙遜するように微笑んだ。


「いえいえ。今回、レティシア様が示された改善は実に興味深いものでしたので。こちらとしても、ぜひ長いお付き合いをさせていただきたく」


「長いお付き合い、ですか」


「ええ。双方に益のある形で」


その“双方”に、どこまでが含まれているのか。


レティシアは契約草案を手に取り、頁をめくった。


文面は整っている。だからこそ、細部が気になる。


供給数量は“積載単位を基準とする”とある。


搬入時の検収は“著しい不足または損傷を除き受領扱い”。


保管中の損耗は“通常範囲に含む”。


そして、その“通常範囲”の定義が、曖昧だ。


「……こちら」


レティシアはある一文を指先で押さえた。


「積載単位とは、袋数ですか。それとも重量ですか」


カミルは微笑みを崩さず答える。


「通常は袋数で考えていただいて差し支えありません」


「通常は、では困ります」


「おや」


「袋ごとに詰め方が異なれば、同じ十袋でも中身は揃いませんでしょう」


その瞬間だった。


カミルが返答するよりほんのわずか早く、ゲオルクが先に目を逸らした。


一瞬だけ。


けれど、はっきりわかるほど自然ではない動きだった。


レティシアはその横顔を見た。


なぜ、伯父が先に視線を外すのか。


問いを向けられたのは商会長のはずなのに。


「ご明察です」


カミルは笑みを深める。


「ですが、そこは商慣行の範囲と申しますか。多少の誤差は出るものでして」


「誤差、ですか」


「はい。小麦は生き物のようなものですから。湿り気、保存状態、輸送距離……多少の損耗は流通には付きものでして」


柔らかな口調で、さらりと言う。


だがその一言が、レティシアの中で妙に引っかかった。


多少の損耗。


その“多少”を誰が決めるのか。どこで線を引くのか。袋数で受け、重量を曖昧にし、損耗を当然のように流すなら、実数と帳簿のあいだにいくらでも霧が立つ。


パン屋で見てきた曖昧さに似ている。


ただし、こちらはもっと大きく、もっと意図的に見えた。


「検収はどなたが?」


レティシアが問う。


「現場ごとの受け取り担当です」


「重量は量らないのですか」


「必要があれば」


「必要があるかどうかを、誰が決めます?」


ゲオルクがわずかに身じろぎした。


「レティシア」


「はい、伯父様」


「そこまで細かくせずとも、ドレスナー商会は信用のおける――」


「信用のおける相手だからこそ、最初の線引きが必要です」


レティシアは伯父を見た。


その視線を受けて、ゲオルクはまた口をつぐむ。


やはりおかしい。


伯父の方が、客人に気を遣っている。屋敷の主が商人に応対するというより、機嫌を損ねぬよう先回りしているような気配がある。


それは単なる懇意の商会だからか。


それとも、もっと別の理由があるのか。


「ごもっともでございます」


カミルが静かに割って入った。


「数字を扱う方は、どうしてもそこが気になりますよね」


「ええ」


「素晴らしい姿勢だと思います。実に頼もしい」


褒め言葉のはずなのに、レティシアは少しも気を許せなかった。


相手は不快な顔ひとつしない。


むしろ、こちらの警戒を歓迎しているようにさえ見える。それが余計に不気味だった。


「では、重量基準での検収条項も追加いたしましょうか」


カミルはさらりと言う。


「受領時に一定以上の差があれば、その場で記録し、調整できるようにする。そうすればご不安も減るのでは?」


反応が早すぎる。


用意していた代案のように、淀みがなかった。


つまり、最初の草案で曖昧にしていた点を、指摘されれば整える腹積もりだったのだろう。


では、指摘しなかった相手にはどうしてきたのか。


「親切ですね」


レティシアが言うと、カミルは肩をすくめた。


「商いとは、信頼を形にする作業ですから」


美しい言葉だ。


美しいが、それだけに注意が要る。


契約草案の末尾に視線を滑らせると、支払期日の注記に細かな但し書きがある。一定期間を超えた遅延時には、供給条件の見直し。ごく当たり前の内容に見えるが、今の侯爵家の資金繰りを知っていれば、その重さは変わる。


そこでふと、ゲオルクの沈黙が別の意味を帯びた。


もし伯父が、すでにこの商会に何らかの負い目を持っているとしたら。


借りがあるのか、借金があるのか、あるいは単に首が回らぬのかはわからない。だが、少なくとも対等な空気ではない。


「侯爵家側の支払猶予については、これまで通り柔軟に」


カミルが何気なく言ったその一言で、レティシアは確信に近いものを覚えた。


これまで通り。


つまり、既に何かしらある。


そしてその瞬間、ゲオルクの指が膝の上でわずかに強張るのが見えた。


「柔軟に、とは」


レティシアが穏やかに問うと、ゲオルクが口を開くより早く、カミルが答える。


「細かな運転の都合は、どの家にもございますから」


「侯爵家にも?」


「もちろんでございます」


微笑みは崩れない。


だが、これ以上この場で踏み込めば、伯父の顔を潰すだけでなく、相手にこちらの手の内まで見せることになる。


レティシアは契約草案を閉じた。


「お話はわかりました」


「では、前向きにご検討を?」


カミルが柔らかく身を乗り出す。


「持ち帰って拝見します」


即答ではない返事に、応接間の空気がほんの少しだけ止まった。


ゲオルクが何か言いたげに口を開きかけるが、レティシアは先に続ける。


「数量の定義、検収条件、損耗の扱い、支払猶予条項。確認すべき点がございますので」


「ごもっともです」


カミルはあっさりと引いた。


「むしろ、その慎重さに安心いたしました」


「そうですか」


「ええ。数字を曖昧にしない方が、私も好みです」


その言葉が本心かどうかはわからない。


だが少なくとも、この男は簡単に尻尾を見せる相手ではない。


香油の匂いがふわりと揺れる。甘く、上品で、だが妙に残る香りだ。金の縁取りの名刺と同じ種類の印象だった。美しく整っていて、手に取った後も指先に違和感だけが残る。


応接間を辞した後、廊下で契約草案を抱えたまま、レティシアはひとつ息を吐いた。


「良い話、ではないのですか」


後ろからついてきたルカが小さく問う。


「良すぎます」


レティシアは短く答える。


「良すぎる話は、たいていどこかで帳尻を取ります」


「やはり、怪しいと」


「まだ断定はしません」


そう言いながらも、胸の内の感覚はかなりはっきりしていた。


帳簿の空白。


前任会計官。


そして、損耗を当然のように曖昧へ押し込む商会長。


まだ糸は結ばれていない。けれど、それぞれが同じ方向の匂いを放ち始めている。


「草案、詳しく見ます」


レティシアは言った。


「数字で追えるところは、必ず追うわ」


ルカは静かに頷いた。


「はい」


手元の契約草案は、上質な紙のわりにひどく冷たかった。

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