第18話 仕入れ商の笑顔
灰色の帳簿に残された三か月の空白は、その夜もレティシアの頭から離れなかった。
背表紙の色が違う一冊。
欠落した月次帳。
前任会計官ハインリヒという、今はもういないらしい男の名。
まだ何も繋がってはいない。けれど、繋がっていないままにしておくには、あの空白はあまりにも都合がよすぎた。
だから翌朝、ゲオルクから「良い話がある」と呼びつけられた時、レティシアは反射的に身構えた。
良い話、という言葉ほど、帳簿の外では信用しづらいものはない。
応接間へ入ると、伯父は珍しく機嫌のよさそうな顔をしていた。
「来たか、レティシア」
「お呼びと伺いました」
「ああ。お前のパン屋の件、聞いているぞ」
ゲオルクは重たそうな身体を椅子へ預けたまま、ひとつ咳払いする。
「単月黒字を出したそうだな。たいしたものだ」
「ありがとうございます」
レティシアは淡々と頭を下げた。
褒められて悪い気はしない。だが、その先に続く“良い話”の方が気になる。
「実はな、その成果を見て、ぜひ話したいと言ってきた方がおられる」
そう言ってゲオルクが視線を向けた先に、客人がいた。
すでにソファへ腰かけていたその男は、年の頃三十代半ばほど。暗い色の上等な上着を着こなし、指先までよく手入れが行き届いている。整えられた黒髪、柔らかな微笑、そして近づいた瞬間にふわりと漂う高価な香油の匂い。
甘すぎず、だが覚えやすい香りだった。
「初めてお目にかかります、レティシア様」
男はゆるやかに立ち上がり、実に洗練された所作で一礼した。
「ドレスナー商会の会長、カミル・ドレスナーと申します」
差し出された名刺には、金の縁取りがあった。
紙質も厚く、印字も美しい。商会の紋章が控えめに押されている。見せびらかす寸前で止めたような上品さだが、そこにかけられた金が安くないことは一目でわかる。
「レティシアです」
受け取りながら、レティシアは相手の微笑を正面から見た。
如才ない、という言葉がぴたりと当てはまる顔だった。
不快ではない。
むしろ親しみやすい部類だろう。だが、親しみやすさの内側に何を隠しているかまでは、その笑顔は教えてくれない。
「パン屋の立て直し、お見事でございます」
カミルは穏やかに言った。
「町でも、随分と噂になっておりますよ。冷たい令嬢が変な令嬢になった、と」
最後を軽い冗談めかして言うあたり、距離の詰め方がうまい。
「不名誉ですが、害はなさそうですね」
「ええ、商売では“気になる”が何よりの呼び水になりますから」
さらりと出た言葉に、やはりこの男は商人だとレティシアは思った。
人の目線をよく知っている。
「それで、良い話とは?」
レティシアが促すと、カミルは待っていたように手元の書類を開いた。
「単刀直入に申し上げましょう。侯爵領内の小麦および小麦粉の仕入れを、今後は弊商会で一括してお引き受けできればと考えております」
契約草案が机上へ置かれる。
端正な字で整えられた文面。供給量、納期、単価、輸送手配、支払期日――一見しただけなら、驚くほど悪くない。むしろ好条件に見える。
現行より少し安い。
輸送もまとめて持つ。
不足時の追加供給にも応じる。
町外れのパン屋だけでなく、領内の他の小口店舗まで視野に入れた内容だった。
「破格ですね」
レティシアが言うと、カミルは謙遜するように微笑んだ。
「いえいえ。今回、レティシア様が示された改善は実に興味深いものでしたので。こちらとしても、ぜひ長いお付き合いをさせていただきたく」
「長いお付き合い、ですか」
「ええ。双方に益のある形で」
その“双方”に、どこまでが含まれているのか。
レティシアは契約草案を手に取り、頁をめくった。
文面は整っている。だからこそ、細部が気になる。
供給数量は“積載単位を基準とする”とある。
搬入時の検収は“著しい不足または損傷を除き受領扱い”。
保管中の損耗は“通常範囲に含む”。
そして、その“通常範囲”の定義が、曖昧だ。
「……こちら」
レティシアはある一文を指先で押さえた。
「積載単位とは、袋数ですか。それとも重量ですか」
カミルは微笑みを崩さず答える。
「通常は袋数で考えていただいて差し支えありません」
「通常は、では困ります」
「おや」
「袋ごとに詰め方が異なれば、同じ十袋でも中身は揃いませんでしょう」
その瞬間だった。
カミルが返答するよりほんのわずか早く、ゲオルクが先に目を逸らした。
一瞬だけ。
けれど、はっきりわかるほど自然ではない動きだった。
レティシアはその横顔を見た。
なぜ、伯父が先に視線を外すのか。
問いを向けられたのは商会長のはずなのに。
「ご明察です」
カミルは笑みを深める。
「ですが、そこは商慣行の範囲と申しますか。多少の誤差は出るものでして」
「誤差、ですか」
「はい。小麦は生き物のようなものですから。湿り気、保存状態、輸送距離……多少の損耗は流通には付きものでして」
柔らかな口調で、さらりと言う。
だがその一言が、レティシアの中で妙に引っかかった。
多少の損耗。
その“多少”を誰が決めるのか。どこで線を引くのか。袋数で受け、重量を曖昧にし、損耗を当然のように流すなら、実数と帳簿のあいだにいくらでも霧が立つ。
パン屋で見てきた曖昧さに似ている。
ただし、こちらはもっと大きく、もっと意図的に見えた。
「検収はどなたが?」
レティシアが問う。
「現場ごとの受け取り担当です」
「重量は量らないのですか」
「必要があれば」
「必要があるかどうかを、誰が決めます?」
ゲオルクがわずかに身じろぎした。
「レティシア」
「はい、伯父様」
「そこまで細かくせずとも、ドレスナー商会は信用のおける――」
「信用のおける相手だからこそ、最初の線引きが必要です」
レティシアは伯父を見た。
その視線を受けて、ゲオルクはまた口をつぐむ。
やはりおかしい。
伯父の方が、客人に気を遣っている。屋敷の主が商人に応対するというより、機嫌を損ねぬよう先回りしているような気配がある。
それは単なる懇意の商会だからか。
それとも、もっと別の理由があるのか。
「ごもっともでございます」
カミルが静かに割って入った。
「数字を扱う方は、どうしてもそこが気になりますよね」
「ええ」
「素晴らしい姿勢だと思います。実に頼もしい」
褒め言葉のはずなのに、レティシアは少しも気を許せなかった。
相手は不快な顔ひとつしない。
むしろ、こちらの警戒を歓迎しているようにさえ見える。それが余計に不気味だった。
「では、重量基準での検収条項も追加いたしましょうか」
カミルはさらりと言う。
「受領時に一定以上の差があれば、その場で記録し、調整できるようにする。そうすればご不安も減るのでは?」
反応が早すぎる。
用意していた代案のように、淀みがなかった。
つまり、最初の草案で曖昧にしていた点を、指摘されれば整える腹積もりだったのだろう。
では、指摘しなかった相手にはどうしてきたのか。
「親切ですね」
レティシアが言うと、カミルは肩をすくめた。
「商いとは、信頼を形にする作業ですから」
美しい言葉だ。
美しいが、それだけに注意が要る。
契約草案の末尾に視線を滑らせると、支払期日の注記に細かな但し書きがある。一定期間を超えた遅延時には、供給条件の見直し。ごく当たり前の内容に見えるが、今の侯爵家の資金繰りを知っていれば、その重さは変わる。
そこでふと、ゲオルクの沈黙が別の意味を帯びた。
もし伯父が、すでにこの商会に何らかの負い目を持っているとしたら。
借りがあるのか、借金があるのか、あるいは単に首が回らぬのかはわからない。だが、少なくとも対等な空気ではない。
「侯爵家側の支払猶予については、これまで通り柔軟に」
カミルが何気なく言ったその一言で、レティシアは確信に近いものを覚えた。
これまで通り。
つまり、既に何かしらある。
そしてその瞬間、ゲオルクの指が膝の上でわずかに強張るのが見えた。
「柔軟に、とは」
レティシアが穏やかに問うと、ゲオルクが口を開くより早く、カミルが答える。
「細かな運転の都合は、どの家にもございますから」
「侯爵家にも?」
「もちろんでございます」
微笑みは崩れない。
だが、これ以上この場で踏み込めば、伯父の顔を潰すだけでなく、相手にこちらの手の内まで見せることになる。
レティシアは契約草案を閉じた。
「お話はわかりました」
「では、前向きにご検討を?」
カミルが柔らかく身を乗り出す。
「持ち帰って拝見します」
即答ではない返事に、応接間の空気がほんの少しだけ止まった。
ゲオルクが何か言いたげに口を開きかけるが、レティシアは先に続ける。
「数量の定義、検収条件、損耗の扱い、支払猶予条項。確認すべき点がございますので」
「ごもっともです」
カミルはあっさりと引いた。
「むしろ、その慎重さに安心いたしました」
「そうですか」
「ええ。数字を曖昧にしない方が、私も好みです」
その言葉が本心かどうかはわからない。
だが少なくとも、この男は簡単に尻尾を見せる相手ではない。
香油の匂いがふわりと揺れる。甘く、上品で、だが妙に残る香りだ。金の縁取りの名刺と同じ種類の印象だった。美しく整っていて、手に取った後も指先に違和感だけが残る。
応接間を辞した後、廊下で契約草案を抱えたまま、レティシアはひとつ息を吐いた。
「良い話、ではないのですか」
後ろからついてきたルカが小さく問う。
「良すぎます」
レティシアは短く答える。
「良すぎる話は、たいていどこかで帳尻を取ります」
「やはり、怪しいと」
「まだ断定はしません」
そう言いながらも、胸の内の感覚はかなりはっきりしていた。
帳簿の空白。
前任会計官。
そして、損耗を当然のように曖昧へ押し込む商会長。
まだ糸は結ばれていない。けれど、それぞれが同じ方向の匂いを放ち始めている。
「草案、詳しく見ます」
レティシアは言った。
「数字で追えるところは、必ず追うわ」
ルカは静かに頷いた。
「はい」
手元の契約草案は、上質な紙のわりにひどく冷たかった。




