第17話 赤字帳簿の空白
パン屋が初めて単月黒字を出した翌日も、レティシアはいつも通り早く目を覚ました。
達成感で浮かれることはなかったが、だからといって何も感じなかったわけでもない。昨夜、月末帳簿に小さく刻まれていた黒い数字は、今もはっきり頭に残っている。
領地でも数字は応える。
その事実だけは、思っていた以上に重かった。
ならば、とレティシアは考える。
パン屋ひとつで終わらせる理由はない。動線、記録、廃棄、需要、原価――あの店で拾った考え方を、領地全体の帳簿にも向けられないだろうか。
問題の大きさは比べものにならない。
だが、大きいからといって、数えぬままでよいはずがない。
「ルカ」
朝食後すぐに呼びつけると、青年は少し驚いた顔で現れた。
「はい、お嬢様」
「今日はパン屋ではなく、書庫へ付き合っていただきます」
「書庫?」
「過去数年分の領地会計記録を見ます」
ルカが瞬きを一つする。
「……数年分、ですか」
「ええ。パン屋だけ整えても、領地全体の綻びは塞がりませんもの」
そう言うと、彼はほんの一拍だけ黙った。
止めるかと思ったが、結局は静かに頭を下げる。
「承知しました」
屋敷の書庫は、相変わらず冷えていた。
窓は高く、棚は古く、革と埃の匂いが沈んでいる。昨日まで小麦と窯の熱の中にいたせいで、その静けさはよけいに骨身へ染みた。
「領地の会計記録は、どのあたりかしら」
「奥の壁際です」
ルカは迷いなく歩き、背の高い棚の一角を示した。
「年ごとに並んでいます。たぶん」
「たぶん?」
「整理した方が何人か変わっているので、途中から少し雑です」
その言い方を、レティシアは聞き留めた。
だがまずは目の前の棚だ。
革張りの帳簿が、年ごとに重たく並んでいる。背表紙には年号と月。色も大半は濃い茶で揃えられていた。
「全部出すのは無理ね」
「はい。必要な年から絞った方が」
「まず三年分」
レティシアは答えた。
「急に悪化した時期を見たいのでしょう」
ルカの方が先に意図を口にした。
「ええ。直近だけでは流れがわかりません」
ふたりで何冊か引き出し、閲覧机へ運ぶ。どれも分厚く、持つだけで腕が重い。パン屋の帳面など比べものにならぬ重さだ。記されている数字の重さも、きっと同じなのだろう。
しばらくは黙々と頁をめくった。
収入。支出。穀物税。納入。修繕費。人足代。備蓄。各村からの上納。そこへ、季節ごとの変動、臨時支出、繰越が絡む。
パン屋と違い、項目は多い。だが基本は同じだ。
何が入り、何が出て、どこが減り、どこが曖昧か。
「……見づらいですね」
ルカが低く言う。
「ええ。わざとではないとしても、不親切です」
レティシアは帳面の余白に、自分なりの整理用の線を引き始めた。
月ごとの収支だけを抜き出す。
備蓄と現金支出を分ける。
急増した費目には印をつける。
パン屋の時と同じだ。まず、見える形に並べ替える。
「この年は、冬の薪代が跳ねています」
「寒かった年なのでしょう」
「でも翌年はもっと増えてる」
「量か単価か、どちらかですね」
「両方かもしれません」
数字を追っていくうちに、ぼんやりしていた流れが少しずつ輪郭を持ち始めた。
確かに領地財政はじわじわ悪くなっている。
だが“じわじわ”だけではない。ある時期を境に、落ち方が変わっている。坂を下る角度が急になるような、嫌な崩れ方だ。
「ここ」
レティシアは一冊の頁に指を止めた。
「この年の秋から冬にかけて、明らかに重くなっているわ」
ルカも身を寄せる。
「支出だけじゃなくて、繰越の減り方もきついですね」
「ええ。その前までは、まだ持ちこたえようとしている形がある」
「でもここから急に、余裕が消えてる」
その表現は正しかった。
赤字そのものより、余裕の消え方が不自然なのだ。パン屋でいうなら、売れ残りやおまけが積み重なって苦しくなるのとは違う。一度どこかで大きく体勢を崩し、その後は立て直せぬまま落ち続けている。
「始点を見たいわね」
レティシアが言うと、ルカは頷き、該当年の前後の帳簿をさらに引き寄せた。
その時だった。
青年の手が、棚の奥でぴたりと止まる。
「……どうしました」
「いえ」
ルカは一本の帳簿を抜き出し、表に埃を払った。
他の帳簿と同じくらいの厚さだが、背表紙の色が違う。周囲の濃茶に混じって、それだけ少し青みがかった灰色をしていた。綴じ方も、革紐ではなく細い金具寄りの留め方になっている。
ひどく浮いて見えた。
「それは?」
「たぶん同じ年のものです。でも――」
ルカは帳簿を机に置き、指先で背をなぞる。
「……この三か月分だけ、様式が違う」
レティシアは思わず身を乗り出した。
開いてみると、確かに違った。
普段の帳簿は、月ごとの収支が一定の順で並び、村ごとの数字も同じ欄に収められている。だがその三か月分だけは、項目の順が入れ替わり、書き手の癖も違う。欄外の注記も減っている。
それだけなら、まだよい。
問題は中身だった。
「……抜けていますね」
ルカが低く言う。
月次帳の肝心な部分――月末残高に繋がるはずの補助記録が欠けている。収入の総額はある。支出の総額らしきものもある。だが内訳を繋ぐはずの紙が、丸ごとない。綴じ跡だけが残り、そこに紙があったことだけを示していた。
「欠落した月次帳、ということ?」
「そうとしか思えません」
レティシアは頁を何度も行き来した。
抜けているのは一か所ではない。三か月分のうち、特に後半の二か月で、補助の紙束ごと消えている部分がある。単なる書き漏れでは済まない。
「誤って外れたにしては、きれいすぎるわね」
「ええ」
ルカの声音も固い。
「しかも、この後から元の様式に戻っています」
「つまり、たまたまではない」
「少なくとも、継続的な変更ではありません」
違和感が、じわりと形になる。
その三か月の直前まで、領地の収支は重いながらもまだ“持ちこたえる苦しさ”だった。だが空白の三か月を挟んだ直後から、数字の落ち方が変わる。繰越は薄くなり、臨時支出が常態化し、翌季の備蓄にまで食い込んでいる。
まるで、その空白の間に何かが起きたかのように。
「ルカ、前の年も見せて」
「はい」
比べる。やはり違う。
その三か月だけが、浮いている。
背表紙の色。綴じ方。様式。欠けた月次帳。
どれも小さい差だ。けれど、一つなら偶然で済ませられても、重なれば話は別になる。
「お嬢様」
背後から落ち着いた声がした。いつの間にか、マルガレーテが茶器を持って入ってきていたらしい。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
レティシアは視線を帳簿から外さぬまま答えた。
マルガレーテは机に茶を置き、広げられた帳簿の山を一瞥する。その観察する目つきは、やはり侍女頭らしく鋭い。
「ずいぶん昔のものまでお出しになりましたのね」
「領地財政の流れを見ています」
「まあ」
それだけ言ってから、彼女は灰色の背表紙の帳簿に気づいたのか、ごくわずかに眉を動かした。
「その綴じのものは、珍しゅうございますね」
「ご存じ?」
「昔、会計方におりました方が、一時だけ別様式でまとめるのを好んでいたと聞いたことがございます」
レティシアとルカが同時に顔を上げる。
「誰ですか」
「前任の会計官でございます」
マルガレーテはすぐに答えた。
「お嬢様がまだ幼い頃には、もうお見かけしなくなっておりましたが」
「辞めたの?」
「さあ。そこまでは存じません。ただ、“帳面に細かすぎる男だった”とは古株が申しておりました」
細かすぎる男。
その人物が一時だけ様式を変え、今はもういない。
そして、その様式の帳簿に限って、三か月分の中身が抜けている。
「名前は?」
レティシアが問うと、マルガレーテは少し考えた。
「確か……ハインリヒ、だったかと。ですが、はっきりとは」
「それで十分です」
マルガレーテはそれ以上詮索せず、一礼して下がった。必要な分だけ置いていく、いかにも彼女らしい距離の取り方だった。
扉が閉まると、書庫はまた静かになる。
「前任会計官、ですか」
ルカがぽつりと呟く。
「ええ」
「知っていましたか」
「いいえ」
レティシアは灰色の帳簿に手を置いた。
「でも、知らなかったこと自体が問題かもしれませんね」
パン屋の帳簿なら、誰がどう書いているか目で追えた。だが領地の会計は、人も年月も何層にも重なっている。今ある数字だけでは見えない手が、過去にはいくつもあったのだろう。
「この三か月の直後です」
ルカが別の帳簿を開き、数値の推移を指で追う。
「ここから、急に落ち方が変わっている」
「ええ。まるで坂の上で足を滑らせたみたいに」
「偶然、でしょうか」
「偶然で済ませたくはありません」
レティシアは欠けた綴じ跡を見つめた。
紙が失われたのか、抜かれたのか。
記録し忘れたのか、記録したくなかったのか。
まだ何も断定はできない。けれど、違和感だけははっきりしている。
あのパン屋の赤字は、見えぬまま積もった慣習だった。
だがこちらは違う。
空白がある。
しかも、その空白の後から領地全体が沈み始めている。
「……嫌な感じね」
レティシアは小さく言った。
「はい」
ルカも、珍しく即座に同意した。
ふたりはしばらく黙って帳簿を見ていた。
背表紙の色が違う一冊。
欠落した月次帳。
前任会計官の名だけが、薄い埃の向こうに残っている。
何があったのかはわからない。
だが、何もなかったはずもない。
窓の外はまだ明るいのに、書庫の中だけが少し冷えた気がした。
レティシアは革手帖を開き、短く書きつける。
三か月分のみ帳簿様式が異なる。背表紙の色・綴じ方も別。肝心の月次帳が欠落。
その下へ、間を置いてさらに一行。
この空白の直後から、領地財政の悪化が急になる。偶然とは思えない。
書き終えた後も、手はすぐには止まらなかった。
前任会計官。
今はいない細かすぎる男。
その存在まで含めて、この空白はあまりに静かすぎる。
静かだからこそ、なおさら不気味だった。




