第13話 一番安いパンが一番高くつく
売れ残り表に時間帯別の簡易メモ札を重ねる作業にも、少しずつ手が慣れてきた頃だった。
朝の黒パンは相変わらずよく動く。
小さい食事パンも、焼き数を微調整してからは無駄な残り方が減ってきた。大きい丸パンは二つ減らしただけでも、夕方の棚の景色が前よりましになっている。
目に見える変化が出始めたのは喜ばしいことだった。
だがその一方で、レティシアの手元には別の紙が増えていた。
原価計算の走り書きである。
粉まみれの帳面の端、使い古した紙片の裏、革手帖の余白。小麦、塩、水、酵母、薪、焼き時間、成形の手間。きちんとした計算表と呼ぶには荒いが、それでも見えてくるものはあった。
「……やっぱり、おかしいわね」
朝の仕込みが一段落した頃、レティシアは帳場の小机に肘をつき、走り書きを見下ろした。
横から覗き込んだルカが、静かに問う。
「何がですか」
「黒パンよ」
店の主力商品である小さな黒パン。朝一番によく動き、常連も多い。値も手頃で、労働者でも買いやすい。いわばこの店の顔だ。
だが、その顔がどうにも怪しかった。
「売れている数は一番多いのに、残る利益が薄すぎるの」
「薄い、ですか」
「ええ。ほとんど残っていないか、日によっては消えているわ」
ルカが目を細める。
「計算、見せてもらっても?」
レティシアは紙を差し出した。そこにはかなり荒い字で、黒パン一個あたりの材料量と概算の費目が並んでいる。小麦の割合、ふすま、塩、水、薪代の按分、成形にかかる時間の目安。
ルカはしばらく黙って数字を追い、それから低く言った。
「……本当ですね」
「売れているから安心、ではなかったのよ」
レティシアは指で黒パンの欄を叩いた。
「一番安いものが、一番店を支えているように見えて、その実いちばん苦しい」
そこへ、ちょうどオットーが窯の確認から戻ってくる。
「何を難しい顔してやがる」
「親方、黒パンのお値段について伺いたいことがあります」
その一言で、オットーの眉がぴくりと動いた。
「値段?」
「ええ」
「何だ、今さら。あれは昔からあの値だ」
「昔から、では答えになりません」
レティシアは原価計算の走り書きを示した。
「材料と薪、それに成形の手間を入れて見直すと、黒パンは売れても利益がほとんど残っておりません」
オットーは紙を受け取らず、腕を組んだまま鼻を鳴らした。
「そんな細けえ計算で店は回らねえよ」
「細かく見なければ潰れます」
「黒パンはうちの看板だぞ」
「承知しています」
「だったら話は終わりだ」
ぴしゃりと言われたが、レティシアは引かなかった。
「終わっていません。看板ならなおさら、赤字で出してはなりません」
その時、表から戻ってきたエルザが会話の最後だけを聞きつけたらしく、不穏な顔をした。
「何が赤字なんですか」
「黒パンです」
「は?」
彼女は目を丸くし、それから一歩こちらへ詰め寄った。
「嘘でしょう。あれが一番売れてるのに」
「売れていても、儲かるとは限りません」
「でも安いからみんな買うのよ」
「ええ。だから問題なのです」
レティシアは静かに言った。
「安いから回る。けれど、安いままでは店が持たない」
エルザは露骨に顔をしかめた。
「まさか値上げする気ですか」
「選択肢のひとつではあります」
「駄目よ」
反射のように返ってきたその声に、店の空気がぴんと張る。
「朝の人たちは、あれだから買えるの。あれまで高くしたら、もっと安い店に行くか、買わなくなるかもしれないじゃない」
「わかっています」
「わかってないわ」
エルザは珍しく、かなり強い調子だった。
「お嬢様は、客を見てるって言ったけど、ほんとに見てるならわかるでしょう。あれを買う人って、値段を一番最初に見るのよ」
その言葉に、レティシアは黙った。
わかる。
それは、この数日で自分も見てきた。仕事前に立ち寄る職人、荷運び、女手ひとつで子を育てていそうな母親。彼らが迷わず黒パンへ手を伸ばすのは、味だけではない。値が重くないからだ。
だからこそ、簡単に値上げしていいものではない。
けれど、このままでも続かない。
「親方」
レティシアは改めてオットーへ向き直った。
「黒パン一個あたりの仕込み量、少し多すぎませんか」
「何だと」
「大きさにばらつきがあります。重めのものが混じると、その分材料を食います」
「そりゃ多少は出る」
「その多少が積もるのです」
オットーはあからさまに不快そうな顔をした。
「今度は焼き方に口を出すのか」
「いいえ。揃え方に口を出しています」
レティシアは紙の上に並んだ数字を見た。
同じ黒パン一個でも、やや大きい日と小さい日がある。職人の感覚で丸めている以上、ぶれは当然だ。だが主力商品が大量に出るなら、そのぶれはそのまま原価のぶれになる。
「それに、あの形」
レティシアは続けた。
「少しだけ見直せるかもしれません」
「形ぃ?」
「丸めを浅くして、厚みをほんの少し抑えるのです。見た目の損を最小限にして、生地の使い方を安定させる」
エルザが半信半疑で首を傾げた。
「そんなので変わるの?」
「大きくは変わりません。でも、毎日出る品だからこそ、小さな差が残ります」
オットーはまだ不満げだったが、完全に話を切るほどではなかった。ここまでの記録で、レティシアが数字をごまかしていないことは理解しているのだろう。
「値上げは最後です」
レティシアははっきりと言った。
「一番安いパンほど、なくしてはいけません。ただし、赤字のままでは続きません」
その言葉が落ちた瞬間、エルザの表情がわずかに変わった。
反発だけではない。戸惑いと、少しの安堵が混じる。
彼女は値上げを恐れていたのだ。客のためでもあり、店のためでもあり、そして多分、自分の知っている日常がまたひとつ重くなることへの反発でもあった。
「……なくす、なんて」
エルザが小さく呟く。
その一言に、レティシアの胸の奥で何かがひやりとした。
なくす。
足りないから、なくなる。
安いから、維持できない。
続かないから、消える。
その連なりを想像しただけで、喉の奥がきゅっと狭くなる。空の籠。減っていく食べ物。大丈夫だと言いながら、足りなくなるもの。
駄目だ、とレティシアは心の内で短く言った。
今はそこへ落ちていってはいけない。
「……ですから、なくさない方法を探しているのです」
わずかに間を置いてそう言うと、ルカがこちらをちらりと見た。何かに気づいたような目だったが、何も言わない。
助かった、とレティシアは思う。
オットーがようやく紙をひったくるように受け取り、難しい顔で見た。
「材料を減らせばまずくなる」
「減らし方によります」
「都合のいい話だな」
「都合よくはありません」
レティシアは淡々と返す。
「少し配合を見直すのです。食感を大きく損なわず、腹持ちも落とさず、ぶれを減らす方向で」
「そんなもん簡単に言うなよ」
エルザが口を挟む。
「味が変わったら常連さん、すぐ気づくわ」
「ええ。ですから、一度に大きくは変えません」
レティシアは原価計算の走り書きとは別の紙を出した。昨夜、自室で整理した試案である。
「まずは三つです。ひとつ、成形の大きさを揃える。ひとつ、焼き色のぶれを減らして“損した感じ”を出さない。ひとつ、配合はごく小さく試す」
「ごく小さく?」
「十個だけ別に焼いてみましょう」
オットーがじろりと睨む。
「実験台にするってのか」
「違います。比較です」
「言い方の問題じゃねえ」
「では、親方のお言葉なら何と?」
「試し焼きだ」
「結構です。試し焼きにしましょう」
あっさり引かれて、オットーは少し拍子抜けした顔をした。
その隣でルカが、紙の余白へ簡単な欄を作り始める。
「比較するなら、いつもの黒パンと、試し焼きの分を分けて記録しますか」
「お願い」
「味の感想も取ります?」
「ええ。エルザ、常連の反応を拾えますか」
「……やるけど」
まだ不承不承といった顔ではあるが、完全な拒絶ではない。
「でも、変な感じだったらすぐ言いますからね」
「もちろん。そのためにあなたに頼むのです」
エルザは少しむっとし、それから観念したように肩を落とした。
「ほんと、何でも人を使うんだから」
「使える観察は使うべきです」
「褒められてるのかしら、それ」
「褒めています」
レティシアが即答すると、エルザは何とも言えない顔でそっぽを向いた。
その日の午後、試し焼きは本当に十個だけ行われた。
小さな黒パン。見た目はほとんど変わらないようにしながら、成形を少しだけ均一にし、厚みを控えめに整える。配合も本当にごく小さな調整に留めた。誰が見ても別物だと思うようでは意味がないからだ。
焼き上がったそれを見て、オットーは腕を組む。
「……悪くはねえ」
「まずそう、ではないですか」
「そこまでは言ってねえ」
「十分です」
エルザは一つ手に取って、半分に割った。
「見た目はそんなに変わんない」
「そこが大事なのです」
「食べた感じは……ちょっとだけ軽い?」
ルカも黙って一口かじり、考え込むように言う。
「腹持ちが急に悪くなる感じはしません」
「なら候補にはなりますね」
完全な解決ではない。
それでも、値上げ以外の道があると示せただけで大きい。
レティシアは走り書きの紙へ、新しく数字を足した。原価の差はわずかだ。だが主力商品で、それが毎日積み重なれば月末には無視できなくなる。
「明日から全部変えるわけではありません」
レティシアは紙をまとめながら言った。
「まず数日、試し焼きで様子を見ます。反応が悪ければ戻す。良ければ少しずつ広げる」
「面倒くせえな」
オットーはそう言いながらも、完全には反対しなかった。
「でも、値上げよりはましね」
エルザがぽつりと言う。
「客が離れるのは困るもの」
「ええ」
レティシアは頷いた。
「安いことは武器です。ただし、武器が持ち主を傷つけては意味がありません」
ルカがその言葉を聞いて、何か考えるように目を伏せた。
店の外では、夕方の光が少しずつ薄れていく。棚の上に残るパンは、昨日までより少ない。けれど、売れればいいという話でもないのだと、今はもう皆が少しずつ理解し始めていた。
数が出るものほど危ういことがある。
一番安いものほど、守り方を間違えれば店を削る。
だから、安売りが正義とは限らない。
その当たり前のようで難しい事実を、レティシアは革手帖へ書きつけた。
黒パンは主力だが、利益が薄すぎる。値上げは最後。まずは大きさ・形・配合の微調整で原価を下げる道を探る。
その下へ、少しだけ筆を止めてから、もう一行。
なくしてはいけないものほど、続けられる形に直さなければならない。
書き終えた時、胸の奥に残る冷えはまだ消えていなかった。
けれど今は、それでよかった。
怖いと思うなら、なおさら数える。
失くしたくないのなら、なおさら続く形へ変える。
そうしてしか、守れないものがあるのだと、レティシアはもう知り始めていた。




