第12話 売れ残りには理由がある
開店前の混乱が少しだけ落ち着いた翌日も、レティシアはいつも通り早い時間に店へ入った。
窯の熱気、小麦の匂い、木箱の軋む音。もうこの店の朝の音には、少しだけ耳が慣れてきている。以前のような混乱一色ではなく、どこで流れが止まり、どこで人が余計に動いているのかが見えるようになった。
そして見えるようになったからこそ、今度は別のものが気になり始めていた。
売れ残りである。
「親方、昨日の残りはこれだけですか」
店の奥、廃棄かごのそばでレティシアが問うと、オットーが振り向きもせず答えた。
「見りゃわかるだろう」
かごの中には、大きい丸パンが三つ。少し固くなった焼き菓子が二枚。小さな食事パンはない。黒パンも残っていない。
昨日だけの偶然ではない。
数日見てきた限り、この傾向はかなりはっきりしていた。
「やはり、大きいものほど残りますね」
「そういう日もある」
「そういう日が、多すぎます」
オットーがむっとした顔を向けるが、レティシアは構わず帳面を開いた。
今日は新しく、売れ残り表を作ってきている。品目ごとに、焼いた数、売れた数、残った数、時間帯、最後に売れた時刻。それだけの簡素な表だが、これまでの記録より一歩踏み込んでいた。
「ルカ、昨日までの分も写して」
「はい」
ルカはもう慣れた手つきで木炭筆を走らせる。粉まみれの帳面の隣に、売れ残り表が並んだ。
その横で、エルザが包み紙を整えながら覗き込む。
「まだ数えるんですね」
「まだ、ではなく、ここからです」
レティシアは表の空欄を指先で押さえた。
「前は何が減ったかを見ました。今度は、何がいつ止まるのかを見ます」
「止まる?」
「売れ行きが鈍る、という意味です」
口にした瞬間、自分の中で別の言い回しが浮かぶ。
回転が悪い。
その方が、ずっとしっくりきた。
朝のうちに動く品と、昼以降まで棚に残る品。その差は単なる人気の有無ではない。棚の上で長く滞る品は、それだけ資金も場所も縛る。回転が悪いものを同じ調子で焼き続ければ、数字は必ず鈍る。
そういう考え方があまりに自然に頭へ浮かぶ自分に、レティシアはほんの一瞬だけ目を伏せた。
だが、すぐに顔を上げる。
今は言葉の出どころより、使い道の方が大事だ。
「今日は売れた時刻も拾います」
レティシアが言うと、エルザが少し眉をひそめた。
「そんなの、忙しい時にいちいち書けるかしら」
「ですから簡易メモ札を使います」
小机の上に、小さな札を並べる。時間帯別の簡易メモ札だ。朝、昼前、昼過ぎ、夕方前――大まかに区切っただけのものだが、売れた品ごとに札を移す形なら、いちいち文を書く必要はない。
「黒パンが売れたら朝の箱へ、小さい食事パンが昼前ならこちらへ。最後に数えれば、どの品がいつ動いたかがわかります」
エルザは札を一枚手に取って、表裏を見た。
「変なの」
「便利ですよ」
「便利かどうかはやってみないと」
「ええ、ですからやってみます」
そこへ、オットーが焼き上がりを運んできた。
「で、今日は何を減らす気だ」
「まだ減らしません」
レティシアは即答した。
「先に見ます」
「昨日まででも十分見ただろうが」
「無駄を見たのと、需要を見るのは別です」
レティシアは棚の上へ並んでいくパンを見た。
黒パン、小さい食事パン、大きい丸パン、焼き菓子。数は昨日と大きく変わらない。動線改善で朝の詰まりは減ったが、焼く中身そのものはまだ親方の感覚に委ねられている。
だからこそ、次に触るべきはそこだった。
開店すると、いつものように客がぽつぽつ入り始めた。
朝早いのは、仕事前の男たちと、家事の合間に寄る女たちだ。彼らが求めるものは驚くほどはっきりしている。すぐ食べられるもの、持ち運びしやすいもの、値が重くないもの。
黒パンと小さい食事パンがよく動く。
反対に、大きい丸パンの前では立ち止まっても、買わずに去る客が多い。
「今の方、丸パンを見てお帰りになったわね」
レティシアが小さく言うと、エルザが頷いた。
「朝はああいう人、多いです」
「どうして?」
「切り分けるのが面倒なのよ。あと、急いでると重いし」
その言い方に、レティシアは目を向けた。
「前からわかっていたの?」
「そりゃ、見てれば」
エルザは少し怪訝そうな顔をした。
「朝は職人さんとか荷運びの人が多いから、量よりすぐ持っていける方がいいんです」
「……今、もう一度言って」
「え?」
「量より、のあたりから」
エルザはきょとんとしつつも、言い直した。
「お嬢様、朝の客は量より早さです」
その一言が、すとんと胸へ落ちた。
量より早さ。
まさにそうだ。
朝の客にとって必要なのは、腹を満たす最大量ではない。待たずに、迷わず、すぐ買えること。大きな丸パンは家族向きであって、朝の個客向きではない。
レティシアは思わず札の余白へそのまま書きつけた。
「……何ですか、それ」
エルザが覗き込む。
「大事な観察よ」
「そんなの、みんな何となく知ってることだと思ってた」
「何となく、で終わらせてきたから、今こうして見直しているのです」
レティシアは静かに言った。
「あなたは客を見ているのね」
エルザが一瞬だけ言葉に詰まる。
「見てるっていうか……売る側なんだから、普通でしょう」
「普通ではありません」
レティシアは売れ残り表へ新しい欄を足した。
客層。
「ルカ、品目と時間帯の横に、客の種類もざっくり分けて記して」
「職人、主婦、子ども、使い走り……そのくらいでいいですか」
「ええ、十分です」
ルカは素直に書き込みながら、ちらりとエルザを見た。
「助かりますね」
「何がよ」
「感覚で終わらせないで済むので」
エルザは少しだけ頬を赤くした。
「別に褒められるようなことじゃないわ」
「褒めています」
レティシアが言うと、彼女はますます落ち着かない顔になる。
けれど、その目つきは前よりずっと真剣だった。
昼前になると、朝とは客層が変わる。家で食べる分を買い足す女たち、学校帰りの子ども、少し遅れて出てきた老人。ここでも動くのはやはり小さいものだ。大きい丸パンは数人が立ち止まるものの、買うのは限られる。
焼き菓子は子どもに動くが、数が多い日は確実に残る。
「親方」
昼の合間にレティシアが声をかける。
「大きい丸パン、今日は何個焼きましたか」
「十二だ」
「明日は十にしてください」
オットーが眉をひそめた。
「もう減らすのか」
「二つだけです」
「そんな半端な数字に意味があるか?」
「意味があります。急に半分にして外せば、ただの賭けです。二つ減らし、その分、小さい食事パンを四つ増やしてください」
「四つ?」
「ええ。朝の回転が違います」
またその言葉が自然に出る。
回転。流れ。滞留。
この世界の商売人が使わないわけではないだろうが、レティシアの中では妙に手馴染みが良かった。
オットーは不満げに鼻を鳴らした。
「小さいのを増やして売れ残ったら?」
「その時は戻します」
「ずいぶん簡単に言うな」
「試さずに最適な数はわかりません」
レティシアは売れ残り表を見せた。
「ただし、もう“何となく”では決めません」
オットーは紙を覗き込み、苦い顔をする。
そこにはここ数日の数字が並んでいた。大きい丸パンが毎日いくつ残り、小さい食事パンは朝のうちにどれだけ消え、焼き菓子がどの時間帯で鈍るのか。今まで空気のように過ぎていったことが、もう逃げられない形で並んでいる。
「……ちっ」
舌打ちまではしなかったが、それに近い息を漏らしてから、オットーは肩をすくめた。
「わかったよ。明日は二つ減らす」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いでもねえ」
「協力に対して礼を述べただけです」
それを聞いたエルザが、包み紙を折りながら小さく笑う。
「お父さん、最近ちょっと押されてる」
「うるせえ」
そのやりとりの最中にも、レティシアは客の動きを見ていた。
誰がどこで迷うか。
どの札の前で足が止まるか。
焼き上がり時刻の札を見て待つ客はどれくらいいるか。
単に棚を見るのではなく、客を見る。
それを意識した途端、店の景色は少し違って見えた。
午後、売れ残り表を整理していると、ルカが帳面を差し出してきた。
「時間帯別に分けると、はっきりしますね」
「ええ」
レティシアは頷いた。
「同じ一個でも、朝に売れる一個と夕方に残る一個では意味が違います」
「それ、親方にもわかるようにまとめますか」
「そうね。明日からは品目ごとに色印をつけましょうか」
「色?」
「黒パンは丸、小さい食事パンは線、大きい丸パンは三角。視認性を上げます」
「……また妙な言葉を使いますね」
ルカが小さく言った。
「何かしら」
「いえ。お嬢様の考え方って、たまに……」
そこで彼は言葉を切る。
「たまに?」
「変に整理されてるな、と」
レティシアは一瞬だけ黙り、それから淡く微笑んだ。
「整理されている方が、お好みではありませんか」
「嫌いではないです」
「なら結構」
それ以上は深追いさせないように返すと、ルカもまた無理には続けなかった。
夕方、店を閉める頃には、今日の売れ残りもかなり形が見えていた。
大きい丸パンはやはり残る。
だが全部ではない。時間帯と客層を見れば、必要な量はある。ただ、今の焼き数が多すぎるのだ。
焼き菓子は波がある。
小さい食事パンは、朝の分が足りない日がある。
そして、それらを最も肌で掴んでいたのは、意外にもエルザだった。
「お嬢様」
片づけの最中、彼女が少し言いにくそうに口を開く。
「朝の小さいの、たぶんあと二つ増やしてもいいです」
「根拠は?」
「今日、売り切れた後で二人断ったから」
レティシアは顔を上げた。
「覚えているのね」
「そりゃ、客が残念そうに帰ると気になるもの」
「では明日から、それも書きましょう」
「えっ」
「買えずに帰った客の数です」
エルザは一瞬ぽかんとした後、思わず吹き出した。
「そこまで数えるの?」
「そこまで見ないと、足りているかどうかわかりません」
「……本当に、何でも数字にするんですね」
「感覚を否定するためではありません」
レティシアは静かに言った。
「あなたの感覚を、店の武器にするためです」
エルザはしばらく何も言わなかった。
けれどその後、小さく「わかった」とだけ返した声には、最初の頃の刺はほとんど残っていなかった。
店を出る前、レティシアは売れ残り表と簡易メモ札を重ねて見直した。
まだ数日。まだ仮説の段階。
それでも、売れ残りには理由があると、もうはっきり言える。
売れないから残るのではない。
必要な形、必要な時間、必要な量に合っていないから残るのだ。
それはつまり、変えられるということでもある。
革手帖を開き、今日のまとめを記す。
売れ残りは品目の良し悪しではなく、時間帯・客層・大きさ・焼き数の不一致による。大きい丸パンは朝の回転が悪い。小さい食事パンは朝に不足気味。
その下へ、さらに一行。
エルザは客をよく見ている。感覚を記録へ落とせば強い。
書き終えた時、空になった夕方の棚が目に入った。
同じ空の棚でも、朝と夕では意味が違う。
無駄に空なのか、きちんと売れて空なのか。
その違いを見分けられるようになったことを、レティシアは小さな前進だと思った。
売れ残りには理由がある。
ならば、その理由を一つずつ潰していけばいい。
店はまだ、変われる。




