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婚約破棄で破滅予定の悪役令嬢ですが、赤字領地を黒字にしてみせます  作者: gachapin2223


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第11話 開店前の戦争

一か月の期限を切った翌朝、レティシアはいつもよりさらに早く町外れのパン屋へ着いた。


空はまだ群青をわずかに残し、通りにはほとんど人がいない。店の戸を開ける前から、中ではすでに窯の熱が立ち上がっているらしく、うっすらと小麦と焦げの匂いが漏れていた。


開店前の店は、静かではない。


むしろ戦場に近い。


昨日までもそうだったが、今朝は意識して見たせいか、なおさらそう思えた。


「ルカ、焼き上がりの札は持ってきた?」


「はい」


青年は小さな木札の束を差し出した。表に品名、裏に時刻を書けるようにしただけの簡素なものだ。昨夜、屋敷へ戻ってからレティシアが急ぎで作らせた。


「親方は?」


「もう中です」


店の奥へ踏み込むと、案の定、そこには開店前特有の混乱が渦巻いていた。


オットーは窯の前で焼き具合を見ながら、同時に次の生地の様子も気にしている。エルザは帳場と作業場のあいだを何度も往復し、包み紙を探したかと思えば、今度は陳列用の籠を抱えて戻ってくる。見習いの少年は粉袋の置き場に迷い、捏ね台の脇で誰かの邪魔になっていた。


狭い店の中で、人が互いを避けながら動いている。


だが、その避け方が悪い。


半歩ずつ譲り合うたびに手が止まり、探し物のたびに歩数が増え、焼き上がりを待つ間に別の作業が詰まる。


個々は働いているのに、全体として流れていない。


「……やっぱり」


小さく呟くと、オットーが振り向きもせず言った。


「朝っぱらから嫌な顔するな」


「嫌な顔ではありません」


レティシアは店の隅へ寄り、壁際の小机に紙を広げた。


「確認です」


そこへ描かれているのは、店内の簡単な配置図だ。昨夜のうちに記憶を頼りに引いた作業台の配置図である。捏ね台、窯、粉袋置き場、成形台、焼き上がりを置く棚、包み紙の引き出し、表の陳列棚、帳場。人がどう動いているかを書き込めるよう、余白を多く取ってある。


レティシアはルカへ目を向けた。


「今日の最初の一刻、誰がどこを何度往復したか印をつけて」


「往復、ですか」


「ええ。数えられる範囲で構いません」


ルカは少しだけ面食らった顔をしたが、すぐに頷いた。


「わかりました」


「また始まったよ……」


エルザが包み紙の束を抱えたままぼやく。


「今日は何を数えるの、お嬢様」


「無駄足です」


「無駄足?」


「はい。売上と廃棄だけでは足りませんもの」


レティシアは配置図を指で押さえた。


「開店前に何がどれだけ滞っているか、見えなければ直しようがありません」


オットーが鼻を鳴らす。


「こっちは毎朝こうだ。今さら図なんか描いても、狭い店が広くなるわけじゃねえ」


「ええ、広くはなりません」


レティシアは平然と返した。


「ですが、狭いなりにぶつからない方法はあります」


「そんな都合よくいくか」


「試す前から決めつけるのはおやめください」


ぴしゃりと言うと、オットーは不満げな顔をしながらもそれ以上は返さなかった。


その間にも、見習いの少年が焼き上がりを置く棚の前で立ち止まり、エルザとぶつかりかける。エルザが避け、包み紙を一枚床へ落とし、拾うためにまたしゃがむ。その横でオットーが「そこ邪魔だ」と低く唸る。


なるほど、戦争だ。


声を荒げてはいないが、皆が皆、目の前の仕事だけで手いっぱいになっている。


レティシアはしばらく黙ってそれを見た。


まず黒パンが窯へ入る。


その間に小さい食事パンの成形を進めるはずが、成形前の盆が捏ね台の奥に置かれていて、見習いが毎回回り込んでいる。


包み紙は帳場横の引き出しにあるが、朝の忙しい時間帯にエルザは作業場と表を往復するため、そのたびに取りに戻っている。


焼き上がりを仮置きする棚は窯に近すぎて、人が滞留する。


しかも、どの品が何時頃に焼き上がるのかをエルザ以外が把握していない。だから店先で「次はまだか」と聞かれるたび、彼女がいちいち奥へ確認に来る。


「親方」


レティシアは口を開いた。


「何です」


「黒パンの次に小さい食事パンを入れるまで、少し間が空いていますね」


「窯は一度に何でも好きに入れられるもんじゃねえ」


「ええ。ですが、成形済みの盆が遠すぎます」


そう言って捏ね台の脇を指す。


「今の位置ですと、窯前へ運ぶたびに人が回り込みます」


オットーがちらりとそちらを見る。


「だから?」


「その盆をこちらへ移してください」


焼き上がり棚の手前、今は空の木箱が積んである場所を示す。


「窯前の通り道が塞がる」


「今よりは塞がりません」


レティシアは配置図へ簡単な線を引いた。


「それから包み紙は、朝だけでも表と奥に分けましょう。エルザが取りに戻る回数が多すぎます」


「二か所に置いたら、どっちに何枚あるかわからなくなるわよ」


エルザが言う。


「ですから朝の分だけ札をつけます」


ルカへ向き直る。


「品名の札とは別に、枚数札も作れますか」


「はい、多分」


「十枚刻みで」


「わかりました」


エルザは半信半疑の顔をしたままだが、反対はしなかった。連日の記録で、レティシアが思いつきだけで言っているのではないと、さすがに学んだのだろう。


最初の一刻が終わる頃には、ルカの紙には黒い印がいくつも増えていた。


「多いですね」


彼が配置図を見ながら呟く。


「ええ」


レティシアも覗き込み、指先で経路を追う。


「エルザが帳場と包み紙で七往復。見習いが粉袋と成形台のあいだを六往復。親方は窯と焼き上がり棚の前で三度待たされています」


「待たされてるって言い方は気に食わねえな」


オットーがむっとする。


「失礼。足を止められている、の方が正確ですね」


「同じだろうが」


「似ておりますが、責めている相手が違います」


レティシアはさらりと言った。


「親方を責めているのではなく、配置を責めています」


エルザがふっと吹き出しそうになり、慌てて口を押さえる。オットーはますます不機嫌そうになったが、反論はしなかった。


レティシアは作業台の配置図へ新たな線を書き込む。


「変えるのは三つだけです」


指で順に示す。


「成形済みの盆を窯寄りへ移す。包み紙を朝だけ二か所に分ける。焼き上がりを仮置きする棚の位置を半歩ずらす」


「半歩で変わるか?」


「変わります」


「ずいぶん言い切るな」


「今より悪くなるなら元へ戻せばよろしいだけです」


オットーは腕を組み、しばし考え込むように黙った。


その沈黙のあいだに、ルカが小さな札へ時刻を書き始める。六つ時、六つ半、七つ。品名の裏へ焼き上がり予定を記しただけの簡素な札だ。


「それは?」


エルザが覗き込む。


「焼き上がり時刻の札です」


レティシアが答えた。


「表に出しておけば、次に何がいつ頃出るか、いちいち奥へ聞きに来ずに済みます」


「そんなもん、客は見るかしら」


「見ない方もいるでしょう。でも、見る方が一人でもいれば、その分だけあなたの足が止まらずに済みます」


エルザは札を手に取って眺め、それから少しだけ眉を上げた。


「……これ、あってもいいかも」


「でしょう?」


ようやく小さく頷いた彼女に、レティシアはわずかに胸を緩めた。


派手な改革ではない。


だが、こういうものほど現場には効く。


午前の販売が始まる前に、三つの配置換えは済んだ。


木箱をどけ、成形済みの盆を窯寄りへ。包み紙は半分を奥の小棚へ移し、十枚刻みの札を添える。焼き上がりの仮置き棚は壁際へ寄せ、窯前の通り道を少しだけ広くした。さらに表の陳列棚には、焼き上がり時刻の札を品名ごとに置く。


たったそれだけだ。


本当に、たったそれだけだった。


だが二刻目が始まった途端、その違いははっきり見えた。


「エルザ、包み紙!」


「ある!」


いつもなら帳場へ走るところで、今日は手元の小棚からすぐ取れる。


見習いが成形済みの盆を運ぶ時も、窯前を大きく回り込まずに済む。焼き上がりの棚をずらしただけで、人がひとり立ち止まる余白ができ、オットーが次の作業へ移るまでの流れが切れにくい。


表でも、小さな変化があった。


「次の黒パンはいつだい?」


客の女が尋ねると、エルザが答える前に、隣の客が札を見て「あら、七つ半だって」と言ったのである。


その一往復が消えただけで、エルザの足取りが少し軽くなる。


昼前、ひと息ついたところで、オットーがぼそりと言った。


「……今日は、いつもより騒がしくねえな」


「人は同じだけ動いています」


レティシアはルカの配置図を見ながら答える。


「ただ、ぶつかっていないだけです」


実際、印の数は減っていた。


エルザの往復は七から四へ。見習いは六から三。親方が窯前で足を止めた回数も明らかに少ない。


その差は小さく見える。


だが、小さい差こそ毎日積み重なる。


「数字にすると?」


意外にも、先に聞いたのはオットーだった。


レティシアは顔を上げる。


「まだ一日目ですから断言はできません」


「それでもだ」


「そうですね」


レティシアは配置図の余白へ簡単に書きつける。


「無駄な往復が減れば、開店前に成形できる数が増えます。焼き上がりの遅れも減る。結果として、朝の売れ筋を逃しにくくなる」


「そんなに違うもんか」


「朝の黒パンを二つ多く出せるだけでも違います」


レティシアは陳列棚へ目を向けた。


「動線改善は地味ですが、地味だからこそ数字に効きます」


ルカがその横で、配置図と札を見比べていた。


しばらく無言だったが、やがて小さく口を開く。


「……机上の話じゃなかったんですね」


唐突とも取れる一言だった。


だが、その声には皮肉も軽視もない。ただ純粋な驚きがあった。


レティシアは彼を見る。


「何がですか」


「こういうの」


ルカは木炭筆の先で、作業台の配置図をそっと示した。


「図を描いて、線を引いて、順番を変えて。もっと、紙の上だけの理屈かと思っていました」


レティシアは少しだけ目を細めた。


「紙の上だけで済むなら、世の中はもっと楽でしょう」


「……そうですね」


ルカは珍しく、ほんのわずかに笑った。


それはすぐ消える程度のものだったが、最初に会った時よりずっと柔らかい顔だった。


エルザがそのやりとりを横で聞いて、むっとしたように言う。


「何それ。最初から疑ってたの」


「疑うでしょう、普通」


「まあ、そうだけど」


エルザは口を尖らせつつも、表の札を見た。


「でも確かに、今日はちょっと楽だったかも」


「ちょっと、ではございません」


レティシアは訂正する。


「こういう“ちょっと”が月末に差になります」


「はいはい、またそれ」


呆れたように返されても、以前ほど刺々しさはない。


オットーも不承不承といった顔で棚を見やった。


「朝の丸パン、二つ余らせずに済んだのは、その札のおかげかもしれねえな」


「客が待てるなら、焼き上がりをずらせますから」


「だったら最初からそう言え」


「昨日も申し上げました」


「言い方が面倒なんだよ」


「親方もでございます」


ぴしゃりと返すと、エルザが今度こそ声を立てて笑った。


オットーは渋い顔のままだが、怒ってはいなかった。


午後、店を閉めた後、レティシアは今日の記録をまとめた。


作業台の配置図には、朝と昼の動線の違いがはっきり残っている。焼き上がり時刻の札も、汚れはしたが十分使えた。品切れを尋ねられる回数も少し減り、エルザの足が止まる場面が減っている。


売上が劇的に伸びたわけではない。


廃棄が急に消えたわけでもない。


だが、“前より詰まらない”という変化は確かにあった。


その差は、数字の芽になる。


「明日も続けますか」


ルカが帳面を閉じながら問う。


「もちろん」


レティシアは頷いた。


「一日だけでは偶然かもしれませんもの」


「そうですよね」


彼はそれ以上何も言わなかったが、配置図をたたむ手つきは丁寧だった。


紙切れ一枚の扱いにしては、少し大事にしすぎているくらいに。


店を出る前、レティシアは焼き上がり時刻の札をまとめて小箱へ戻した。木札の角には指の跡がつき、早くも日々の道具らしい顔になり始めている。


作業台の配置図も折りたたみ、革手帖へ挟み込む。


派手さはない。


誰かが称賛するような出来事でもない。


ただ、朝の混乱が少し整理されただけだ。


けれど、そういうものこそ店を支えるのだと、レティシアは知っていた。


泣く代わりに立て直すと決めた以上、こういう地味な一手を積み上げるしかない。


そして今日、職人たちの目はほんの少しだけ変わった。


まだ信頼とは呼べない。


だが少なくとも、“何も知らないお飾り令嬢”を見るだけの目ではなくなっている。


それで十分だった。


レティシアは革手帖を開き、今日のまとめを短く記した。


作業導線の整理で、開店前の無駄足が減少。焼き上がり時刻の札は有効。動線改善は数字に変わる。


その下へ、迷いなくもう一行書き足す。


現場は配置でも変わる。感覚ではなく、流れを見ること。


夕方の風が、町外れの通りを静かに抜けていった。


小さな配置換えひとつで、変わるものがある。


ならば、この店はまだ動く。


そう思えるだけの手応えが、今日は確かに残っていた。

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