第8話 靴を履いた鳥
その夜は、屋根を叩く雨の音で始まった。
梅雨の終わりの、居座るタイプの大雨である。夕方から降り始めた雨は、消灯の時間になっても弱まる気配がない。
異変が見つかったのは、夜九時過ぎだった。
「天井から水が……!」
こぶしの家の二階、奥の子ども部屋。天井の隅にできた染みから、ぽた、ぽた、と水滴が落ち始めている。
職員の動きは早かった。部屋の子どもたちを別室へ移し、床にバケツと雑巾を並べ、法人と業者へ連絡を入れる。夜間のため、屋根の調査は明朝一番。今夜はバケツで受けて様子を見る。手順として、何も間違っていない。
緊急対応、完了である。
完了なのだが。
布団の中で、ユウジは目を開けていた。
パーフェクトな耳は、雨音の中から、聞くべき音だけを拾い上げる。屋根を叩く音の、あの一角だけの濁り。水滴が天井裏を伝う経路。染みの広がる速さ。
――屋根の接合部だ。継ぎ目の防水が切れてる。
原因も、直し方も、もう分かってしまった。
このままバケツで朝を待てば、生活には支障がない。ただし天井裏の下地は、今夜のあいだも濡れ続ける。木材が水を吸えば、乾かすのに時間がかかるし、傷みも残る。修理の規模が、ひと回り大きくなる。
――今、上を塞げば、下地はほとんど無事で済む。
誰も困らせない。誰にも気づかれない。二十分で終わる。
ユウジは、そっと布団を抜け出した。
▽△▽
チナツは、トイレに起きた帰りだった。
廊下の窓の外を、白いものが横切った。
……は?
目をこすって、もう一度見る。雨合羽を着た小さな人影が、傘も差さずに、庭を横切っていく。手には工具箱。あの歩き方は、間違いない。
――あの男子、この大雨で何してるの。
チナツは廊下の窓に張りつき、雨で曇るガラスを袖で拭いた。
ユウジは建物の裏手に回ると、周囲をぐるりと見回した。誰もいないことを確認する動き。チナツは反射的に、窓枠の陰へ体を引っ込める。
次の瞬間、チナツは自分の目を疑うことになった。
ユウジが、壁を蹴った。
蹴った勢いのまま、雨樋にも梯子にも触れず、二階の屋根の縁へ、ひょいと跳び上がったのである。
高さにして、四メートル以上。
八歳児の垂直跳びの記録が何センチかは知らないが、あれでないことだけは確かだ。
チナツは、瞬きも忘れて見ていた。
屋根の上のユウジは、雨で濡れた斜面を、平地みたいに歩いていく。足は一度も滑らない。目当ての場所にしゃがみ込むと、工具箱を開け、手際よく作業を始めた。継ぎ目に何かを詰め、シートを当て、固定していく。雨は降り続いているのに、手元には一切の迷いがない。
二十分後、ユウジは作業を終え、屋根の縁から、ふわりと飛び降りた。
四メートルの高さから着地して、音は、ほとんどしなかった。
合羽の水を払い、工具箱を持って、何事もなかったように建物へ戻ってくる。
チナツは窓の下にしゃがみ込み、心臓の音を聞いていた。
――見た。
全部、見た。
でも、あれは、何を見たことになるんだ。
▽△▽
翌朝、業者が屋根を調査した。
結果は、こうである。
「雨漏りの原因箇所と思われる継ぎ目に……応急処置がしてあります。それも、かなり的確な」
「応急処置? 昨夜はバケツを置いただけですが」
「ですよね。うちもまだ何も。……どなたか、屋根に上られました?」
「この大雨に、まさか」
「ですよねえ」
職員と業者は、そろって首をかしげた。処置は完璧で、天井裏の下地もほぼ無事。本格修理は後日で問題なし。結論、原因不明の善意により、被害は最小で済んだ。
若葉園には、原因不明の出来事の記録が、また一件増えた。
一方、チナツは首をかしげていなかった。
原因不明なものか。原因なら、昨夜この目で見た。壁を蹴って屋根へ跳んで、雨の中で継ぎ目を塞いでいた、あの男子だ。
問題は、証拠がないことである。
正面から「屋根を直したでしょ」と聞いても、きっと、のらりくらりかわされる。目撃証言だけでは、「見間違い」で逃げられる。なら、動かぬ証拠を揃えるまでだ。九年間、大人の嘘を見抜いて生きてきたチナツである。嘘を暴く手順なら、体に染みついている。
それに、チナツには読みがあった。
業者が言っていた。今のは応急処置で、本格的な修理は後日、と。
昨夜のあの男子の手際を思い出す。雨の中で、迷いなく、正確に。あそこまでやる奴が、直しかけの屋根を業者待ちのまま放っておくだろうか。
――絶対、また出る。今度は本修理をしに。
チナツは、行動を開始した。
まず、昨夜の分の確認から。玄関のユウジの靴の底を、そっと調べる。屋根に上ったのなら、泥や屋根材の粉が残っているはず。
次に、罠を二つ。
罠その一。倉庫の工具箱の取っ手に、細い黒糸を一本、結んでおく。昨夜の修理に使った工具箱だ。また使えば、糸が切れる。
罠その二。ユウジの部屋の窓辺に、ベビーパウダーをうっすらまいておく。夜中に抜け出せば、足跡が残る。
我ながら、完璧な包囲網である。
その完璧な包囲網は、仕掛けたその日の夜のうちに、全部見つかっていた。
なぜならその夜、ユウジは、チナツの読みどおり、屋根の本修理に出たからである。
――糸。粉。それから、玄関の靴が、わずかに動かされた痕跡。
ユウジは倉庫の前で、腕を組んで考え込んでいた。
チナツが仕掛けたことは、分かる。匂いと指紋と糸の結び方で分かる。靴はもう調べられたあとだが、修理の夜のうちに洗って乾かしてあるので、あちらは問題ない。問題は、残った罠二つに、どう対応するかだ。
全部よけるのは、簡単である。糸に触れずに工具箱を開け、粉を踏まずに窓を使えばいい。
だが、待て。
罠を全部、完璧によける八歳児とは、何者だ。
それはそれで、異常に賢いことがばれてしまう。普通の八歳児は、罠に気づかない。気づかないから、引っかかる。つまり、完璧な普通を装うなら――。
――一個だけ、引っかかっておこう。
ユウジは熟考の末、糸を選んだ。糸なら切れても自然だ。工具箱は職員も使う。容疑者は自分に限定されない。
ユウジは、工具箱の糸を、わざと切った。
窓辺の粉は、綺麗によけた。
完璧な計画である。
▽△▽
翌日の放課後、チナツは中庭のベンチにユウジを呼び出した。
手には、切れた黒糸。
「工具箱の糸、切れてた」
「へえ」
「窓の粉は、踏まれてなかった。靴も綺麗だった」
「よかったね」
「よくない」
チナツは糸をつまんだまま、ユウジの目を見た。
「おかしいでしょ。夜中に工具箱だけ使って、窓は使ってないって。じゃあどこから出たの。それに、糸に気づかない人が、粉だけ綺麗によけるわけない。逆ならわかるけど」
「…………」
「つまりあんたは、罠に両方気づいた上で、一個だけわざと引っかかった。違う?」
完璧な計画は、一晩で崩壊した。
罠を見抜く側の技術で、罠のよけ方まで見抜かれるとは、ユウジの計算に入っていなかった。九年物の観察眼を、なめていたのである。
チナツは、本題に入った。
「おとといの夜、屋根にいたよね」
「いなかったよ」
「見たんだけど。この目で」
「見間違いじゃない?」
「壁蹴って二階まで跳んだのも?」
「鳥じゃない?」
「四メートル跳んで、工具箱持って、屋根を直す鳥?」
「最近の鳥は、いろいろできるから」
「ふうん」
チナツは、ポケットからもうひとつ、証拠を出した。業者が置いていった調査メモの切れ端。応急処置の写真の隅に、小さな足跡がひとつ写り込んでいる。
「子どもの靴の跡が、残ってたって」
「……靴を履いた鳥かも」
「靴を履いた鳥がいるなら、連れてきて」
「今日は忙しいから、また今度」
「いるんだ。靴を履いた鳥」
「…………」
沈黙が、答えだった。
チナツは、ため息をついた。呆れたのではない。少し、拍子抜けしたのである。
この男子、嘘が下手すぎる。
大人の嘘は、もっと上手だった。言い訳には理屈があり、逃げ道には準備があった。なのにこの男子ときたら、追い詰められた先の答えが「靴を履いた鳥」である。九年間の観察眼が、初めて同情している。
――そうか。
チナツは、気がついた。
この男子は、自分を守る嘘だけ、極端に下手なのだ。
他人のための隠しごとは、八年続けられるくせに。自分の身を守る場面になった途端、在庫が「鳥」しかなくなる。守る必要を、本気で分かっていないのだ。自分のことだけ、いつも計算の外にある。
▽△▽
チナツは、糸をポケットにしまい、最後にユウジの手を取った。
「ちょっと見せて」
「何?」
答えを待たずに、手のひらを開かせる。
小さな、子どもの手。おととい、雨の屋根の上で、割れた屋根材を素手で扱っていたはずの手。
傷ひとつ、なかった。
まめも、ささくれも、何もない。八歳の男子の手として、綺麗すぎる手のひらが、そこにあった。
チナツは、その手のひらと、ユウジの顔を見比べて、聞いた。
「あんた、何者なの?」
ユウジは、少し考えてから、答えた。
「八歳」
「そこは聞いてない」




