第7話 迎えに来るという約束
電話は、食堂の隣の小さな部屋でかかってきた。
職員に付き添われて、チナツは受話器を耳に当てる。
『チナツ? 元気にしてる?』
母の声は、明るかった。明るい日の母の声は、砂糖みたいに甘い。
『ごめんね、いろいろ。でもね、今度の面会、ちゃんと行くから。今度こそ、ちゃんと迎えに行くから』
「うん」
『新しいお仕事もね、頑張ってるの。だからもう少しだけ待ってて』
「うん」
『チナツの好きなドーナツ、買っていくね』
「別に、いらない」
電話を切ったあと、職員が「よかったね」と言った。
チナツはうなずかなかった。
辞書は、とっくに引き終わっている。
「ちゃんと迎えに行くから」は、「行けたら行く」。
九年間、改訂の必要がなかった翻訳である。期待なんて、していない。期待していないから、平気だ。
平気なはずなのに、その夜、チナツは自分のバッグを開けて、一枚しかないよそいきのワンピースを取り出し、しわを伸ばして、ハンガーにかけた。
――寒かったら嫌だから、出しただけ。
誰にも聞かれていない言い訳を、心の中でしながら。
▽△▽
面会の前日の夜。
チナツは洗面所の鏡の前で、髪と格闘していた。
母は、チナツの髪を結ぶのが上手だった。機嫌のいい朝は、編み込みまでしてくれた。だから明日は、自分で結んでいく。ちゃんとしてる、って思われるように。心配いらない、って思われるように。
しかし、後ろ髪は見えない。ゴムは滑る。おまけに古い髪留めは、金具に髪が絡まって、引っ張ると痛い。
「痛……」
目の端に、じわりと涙がにじんだところで、横からすっと手が伸びてきた。
ユウジだった。
歯磨きに来たらしい。ユウジは何も言わず、チナツの手から絡まった髪留めを受け取ると、金具を眺め、どこをどうしたのか、三秒で髪を傷めずに外した。ついでに曲がっていた金具を指先で直し、洗面台の上に置く。
「はい」
直った髪留めは、新品みたいに滑らかに開閉した。
チナツは身構えた。来るぞ、と思った。誰に会うの、とか。明日、面会なんだって、とか。楽しみだね、とか。
ユウジは歯を磨き始めた。
聞かない。
明日のことも、髪を結ぶ理由も、何も。
チナツは鏡の中の自分に向き直り、直った髪留めで、前髪を留めてみた。
悪くない、と思った。
▽△▽
面会当日。
チナツは約束の三十分前から、面会室にいた。
早く来たわけではない。通りかかったら空いていたから、座っただけである。そういうことにしてある。
壁の時計は、見ない。
見ないが、秒針の音は聞こえる。六十回で一分。チナツは膝の上で指を組み、音を数えないように数えた。
約束の時間が、来た。
過ぎた。
十分。二十分。
扉は、開かない。
三十分を過ぎた頃、家庭支援専門相談員の職員が、静かに部屋へ入ってきた。電話を確認してきたらしい。チナツの隣に、少し間を空けて座る。
「お母さん、お仕事を抜けられなくなったって。さっき連絡がありました」
「そう」
「新しい職場で、まだお休みが言い出しにくいみたい。お母さんも、すごく謝ってた」
職員は、母を責める言い方をしなかった。嘘つきだとも、ひどい親だとも言わない。かといって、仕方ないよね、我慢しようね、とも言わない。
ただ、チナツの顔を見て、こう言った。
「来られなかったことを、平気なふりをしなくていいよ」
「……別に」
チナツは、時計を見ないまま立ち上がる。
「やっぱりって、思っただけ」
辞書どおり。翻訳どおり。何も驚くことはない。
部屋を出るとき、ドーナツのことを一瞬だけ思い出して、思い出したことに腹が立った。
▽△▽
その頃、ユウジは考えていた。
面会室の前の廊下を、一往復だけした。中には入らない。入る理由がない。ただ、扉の向こうの秒針の音と、身動きひとつしない気配は、廊下からでも分かった。
――チナツが、困っている。
ユウジのスイッチが、入ってしまった。
困りごとがあるなら、原因がある。原因があるなら、取り除けばいい。パーフェクトな頭脳が、集められる情報を組み上げていく。職員たちの会話の断片。電話口から漏れた言葉。書類仕事の申し送り。チナツの持ち物、服のサイズの変わり方、送られてこない荷物。
母親の状況が、輪郭を結んでいく。
勤め先は変わったばかり。休みを言い出せない職場。収入は不安定。住まいは狭く、同居している交際相手は、チナツの入所の経緯に関わっている。
全部を並べれば、答えは単純だった。
安定した仕事。子どもと暮らせる広さの住居。交際相手との距離。この三つの条件が揃えば、チナツは母親と暮らせる。揃える方法も、ユウジにはもう見えている。求人の探し方も、住居の情報も、必要な手続きも、頭の中に全部ある。
――直せる。
チナツの困りごとは、直せる。
ユウジは、計算結果を三枚の紙にまとめた。八歳児の字に見えるよう、筆圧まで調整して。
▽△▽
夕方、ユウジは中庭のベンチにいたチナツを見つけて、紙を差し出した。
「これ」
「……何」
「これなら、お母さんと暮らせる」
チナツは紙を受け取り、目を走らせ、そして、動かなくなった。
母の仕事のこと。住まいのこと。あの男のこと。チナツが誰にも話していないことが、順序よく、対策つきで並んでいる。まるで、壊れた機械の修理手順みたいに。
「……何、これ」
「お母さんが迎えに来られない原因と、直し方。仕事はここなら条件が合うし、住むところも――」
「誰が頼んだの?」
声が、自分でも驚くほど尖った。
ユウジは、きょとんとしている。
「頼まれてないけど、でも、これで帰れるよ」
「私が帰りたいか、聞いた?」
「……お母さんと暮らしたいんじゃないの?」
その瞬間、チナツの中で、何かの栓が抜けた。
「分かんないから困ってるの!」
叫んでから、自分の言葉に自分で驚いた。
そうだ。分からないのだ。
母は好きだ。編み込みの朝の母も、ドーナツの約束も、好きだ。でも、約束の数だけ、待ちぼうけの面会室がある。帰りたい気持ちの隣には、また裏切られる怖さが、同じ大きさで座っている。帰りたいのか、帰りたくないのか、チナツ自身が、まだ答えを出せていない。
なのにこの男子は、答えのほうだけ、先に持ってくる。
「できるからって」
チナツは、三枚の紙をユウジの胸に押し返した。
「私の人生を、勝手に直さないで」
ユウジは、押し返された紙を持ったまま、立ち尽くしていた。
完璧な計算だった。どこにも間違いはないはずだった。なのにチナツは、直る前より困った顔をしている。
世界最高の頭脳が、初めての種類のエラーを、処理できずにいた。
▽△▽
その夜。
チナツは布団の中で、声を殺して泣いた。
悔しいのか、悲しいのか、それも分からない。分からないまま、涙だけが出る。ドーナツなんて、いらなかった。いらなかったのに。
廊下の奥の部屋で、ユウジは天井を見ていた。
泣き声は、聞こえている。パーフェクトな耳には、毛布越しの、殺した声まで届いてしまう。
――何か、しないと。
体が勝手に起き上がる。台所へ行き、コップに水を入れる。ここまでは、いつもの手順。困ったら呼んで、と言ってある。でも呼ばれていない。呼ばれていないのに行くのは、また「勝手に直す」ことになるんじゃないのか。
昼間のチナツの言葉が、頭の中で繰り返されている。
私の人生を、勝手に直さないで。
ユウジは、コップを持ったまま、チナツの部屋の前まで歩いた。
扉に手を伸ばしかけて、止める。
この扉の向こうは、チナツの場所だ。
泣くのも、泣きやむのも、帰りたいか分からないままでいるのも、全部チナツのもので、俺が直していいものじゃ、ないのかもしれない。
ユウジは、コップを廊下の床に、音を立てずに置いた。
こぼれないように、扉の邪魔にならないように、でも朝になれば必ず目に入る場所に。
そして、自分の部屋へ戻った。
泣き声は、まだ少し続いて、やがて、眠りに変わった。
▽△▽
翌朝。
チナツは、腫れぼったい目で扉を開けて、足元の水に気がついた。
コップ一杯の、ただの水。
メモもない。名乗りもない。誰が置いたのかなんて、考えるまでもない。
チナツはしゃがんで、コップを持ち上げた。
一晩置かれた水は、ぬるくなっている。
――呼んでないのに、来たんだ。
そこまでは、いつもどおりの、おせっかいな男子だ。
でも。
チナツは、閉まっている自分の部屋の扉を、振り返って見た。
「……そこは、入ってこないんだ」
小さなつぶやきは、朝の廊下に落ちて、誰にも聞かれずに消えた。
チナツはぬるい水を一口飲んで、洗面所へ歩き出す。
前髪には、直してもらった髪留めが、まだ留まっている。




