第6話 チナツが来る日
大人の言葉には、翻訳が必要だ。
チナツは九歳にして、その辞書をほぼ完成させていた。
「あとでね」は「やらない」。
「考えておくね」は「忘れる」。
「ちゃんと迎えに行くから」は「行けたら行く」。
そして「相談して決めようね」は、「もう決めてあるけど、あなたが納得した形にしたい」。
だから、若葉園の応接室で、児童相談所の職員と園の職員がかわるがわる説明してくれるあいだ、チナツはずっと黙っていた。
部屋のこと。学校のこと。食事のこと。電話のこと。お母さんとの面会のこと。
どれも、「これから相談して決めようね」。
――出た。
チナツは膝の上のバッグを、少し強く抱え直す。
相談なんてしない。大人はもう決めている。決めた上で、子どもがうなずくのを待っている。うなずくまで、優しい声で待ち続ける。あの優しい声が、チナツはいちばん苦手だ。怒鳴られるほうが、まだ分かりやすい。
「チナツさん、何か聞いておきたいことはある?」
「ないです」
質問をすれば、覚えられる。覚えられれば、期待される。期待されれば、いつか失望される。何も聞かないのが、いちばん安全である。
大人たちは顔を見合わせて、「じゃあ、ゆっくり慣れていこうね」と言った。
翻訳するなら、「今日はここまで」。
それくらいは、チナツにも分かった。
▽△▽
「こぶしの家の中は、ユウジが案内してくれるって」
職員にそう言われて出てきたのは、同い年くらいの男子だった。
昨日、園庭で自転車を直していた子だ。車の中から見えていた。
「ユウジです。八歳」
「……チナツ」
「うん。行こう」
それきり、ユウジは黙って歩き出した。
チナツは警戒しながら、半歩後ろをついていく。
新しい場所で最初に近づいてくる子どもには、たいてい目的がある。いじめの品定めか、子分探しか、先生への点数稼ぎか。どれが来ても対応できるよう、チナツは返事を最小限にする構えを取った。
ところが、ユウジは何も聞いてこなかった。
どこから来たの、とも。お父さんとお母さんは、とも。なんでここに来たの、とも。
かわいそうだね、とも言わない。
ここは居間。ここはお風呂。洗濯機は使い方にコツがある。夕飯は六時。この階段は三段目がきしむ。説明は、場所と事実だけで進んでいく。
洗面所で、ユウジは棚から新品の歯ブラシを二本取り出した。
「歯ブラシ、青と黄色があるけど、どっちがいい?」
「どっちでもいい」
どっちでもいい、は便利な答えだ。希望を言わなければ、奪われることもない。大人ならここで「じゃあ青ね」と勝手に決める。それでいい。決めてもらったものなら、失っても痛くない。
しかしユウジは、決めなかった。
「じゃあ、決まるまで俺が持ってる」
二本の歯ブラシを持ったまま、突っ立っている。
「……は?」
「急がなくていいよ。歯磨きは夜だから」
本気で夜まで持っている顔だった。冗談でも、意地悪でもなく、ただ待つつもりの顔。チナツの辞書に、この顔の翻訳は載っていない。
「……黄色」
「分かった」
ユウジは黄色をチナツのコップに立て、青を棚に戻した。それで終わりだった。よく選んだね、とも、黄色が好きなんだ、とも言わない。
チナツは、コップの中の黄色い歯ブラシを見た。
自分で選んだものが、そこにあるのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
――変な奴。
警戒の段階が、ひとつ上がった。
▽△▽
部屋への移動中、事件が起きた。
ユウジが、チナツのバッグに手を伸ばしたのである。
「持つよ」
「自分で持てる」
「うん」
うん、と言いながら、バッグはもうユウジの手の中にあった。動きが速すぎて、取られた瞬間が見えなかった。
「じゃあ返して」
「重そうだったから」
「話聞いてる? 返して」
「分かった」
ユウジは素直に返した。あっさりしすぎていて、逆に調子が狂う。
チナツはバッグを抱え直し、階段を上り始めた。
このバッグの中身は、着替えと、あとは少しだ。重くなんかない。でも、これを他人に持たせるくらいなら、腕がちぎれたほうがましだ。これを手放したら、チナツには何も残らない。
三段目がきしむ、と言われていた段を踏んだとき、バッグの重みで体が少し傾いた。
あ、と思った瞬間には、腕を支えられていた。
しっかりした、それでいて痛くない支え方。傾いた分だけ、正確に戻される。
チナツが振り向いたときには、ユウジは一段下を、普通の顔で上っているところだった。距離にして二段分は離れていたはずなのに。
「……今の、何」
「何が?」
「今、支えた」
「階段、三段目がきしむから」
「答えになってない」
「気をつけて」
会話も、かみ合っていない。
チナツは残りの階段を、手すりを握って上った。腕には、支えられた感触だけが残っている。バッグには、指一本触れられていない。
――バッグは、取らないんだ。
そのことに気づいて、チナツは少しだけ混乱した。
▽△▽
夕食は、こぶしの家のみんなと食べた。
六人の子どもと、職員がひとり。チナツは端の席で、できるだけ気配を消して食べた。新入りが目立って、いいことは何もない。
デザートはプリンだった。
斜め前の席の、小さい子がスプーンを構えた瞬間、容器がつるりと滑った。プリンは机の縁で一回転して、床に落ちた。
小さい子の顔が、ゆがんでいく。
その前に、ユウジのプリンが、すっとその子の前に置かれた。
「はい」
「……いいの?」
「うん」
職員が台所から声をかける。
「ユウジ、代わりあるからね」
「俺はいらないから、明日の分にして」
――ああ、そういうこと。
チナツは、心の中でうなずいた。
いい子アピールだ。先生の見ている前で、優しい子を演じる。施設ではそれが有利だと、この男子は知っているのだ。八歳で処世術が完成している。たいしたものだ。むしろ尊敬する。
翻訳完了。ユウジの正体は、点数稼ぎのプロ。
そう結論づけたチナツだったが、その夜、結論は早くも揺らぐことになる。
消灯前、廊下の奥で、ユウジが床に膝をついていた。誰もいない廊下で、年下の子が昼間に壊して隠したらしいおもちゃの車を、黙々と直している。
直し終えると、その子の部屋の前に、そっと置いた。
メモも付けない。名乗りもしない。直したことを、誰にも言わないまま、自分の部屋へ戻っていく。
チナツは、暗がりでそれを全部見ていた。
――誰も、見てないのに。
点数は、誰が付けるのだ。
▽△▽
夜。消灯後。
チナツは眠れなかった。
新しい天井は、いつだって眠れない。今までに何度も見てきた、知らない家の、知らない天井。ここが何番目の天井なのか、数えるのはやめにしている。
代わりに、チナツは実験をすることにした。
あの男子の化けの皮を剥ぐ実験である。
部屋の外の共用スペースに、ユウジがまだいるのは分かっていた。チナツは戸を少し開けて、声をかける。
「ねえ」
「何?」
「水」
「分かった」
ユウジは台所へ行き、コップに水を入れて持ってきた。
チナツはそれを見て、言った。
「やっぱりいらない」
「分かった」
ユウジは戻っていき、水を流して、コップを洗って、伏せた。
怒らない。ため息もつかない。
チナツはもう一度呼んだ。
「ねえ」
「何?」
「水」
「分かった」
二杯目の水が来た。
「やっぱりいらない」
「分かった」
三回目も、同じだった。
四回目を呼ぼうとして、チナツは、自分の声が少し震えているのに気がついた。
「……なんで怒らないの?」
「水、いる?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、何に困ってる?」
チナツは、言葉に詰まった。
困ってなんかいない。怒らせようとしただけだ。怒られれば、安心できたのだ。ほら、やっぱりこの男子も、他の大人と同じ。優しいのは最初だけ。そう確認できれば、この場所に期待しないで済む。期待しなければ、裏切られない。
なのに、この男子は怒らない。
何回呼んでも、同じ速さで水を持ってくる。
「……別に。困ってない」
「そう。困ったら呼んで」
ユウジは自分の部屋へ戻っていった。足音が、廊下の奥に消える。
チナツは布団に入り、暗い天井を見つめた。
嘘をつく大人なら、見抜ける。優しいふりなら、剥がせる。九年間、それで生きてきた。
でも、あの男子には、剥がすものがない。
裏が、ない。
――それが、誰より信用できない。
チナツの若葉園での一日目は、こうして終わった。
辞書に載らない男子のいる場所で、これから暮らすことになる。




