第5話 八年後も、ユウジはアホだった
八年後。
ユウジはパーフェクト人間になっていた。
そして相変わらず、アホだった。
頭脳は、世界中のどの人工知能よりも速く、正確に回る。身体能力は、人類の記録という記録を、こっそり全部超えている。八年のあいだに見聞きした技術は、料理から医療から建築まで、ひととおり頭に入っている。
それでも本人は、ごく普通の八歳児として暮らしているつもりでいる。
つもりで、いるのである。
乳児室を卒業したユウジは、いまは生活グループ「こぶしの家」で、六人の子どもたちと一緒に暮らしている。地域の小学校へ通い、二年生になった。あの「完璧すぎる乳児」の観察記録は、いつのまにか職員の引き継ぎ資料の中で伝説と化しているが、本人は知らない。
知らないまま、今日も完璧な普通を目指している。
▽△▽
小学校、二時間目。算数のテストが返ってきた。
七十二点。
――よし。
ユウジは答案を眺めて、静かにうなずいた。狙いどおりの点数である。
目立ってはいけない。百点を取り続ける子どもは注目される。かといって低すぎれば心配される。学級の平均点、担任の採点傾向、前回からの自然な変動幅。すべてを計算した結果が、この七十二点だ。間違える問題も、間違え方も、事前に設計してある。
完璧な七十二点。我ながら、いい仕事である。
「ユウジくん、ちょっといい?」
放課後、担任に呼ばれた。
嫌な予感がした。
担任の机の上には、ユウジの答案の、最後のページが開かれている。文章題の五番。わざと計算ミスをする予定だった問題である。
予定だった、のだが。
あの問題には、問題文そのものに誤りがあった。条件がひとつ足りず、答えがひとつに定まらない。それに気づいた瞬間、ユウジの手は勝手に動いていた。困っている問題を、放っておけなかったのである。
余白には、こう書かれている。
――この条件では、答えを一つに定められません。理由は以下のとおりです。
以下、場合分けを尽くした完全な証明が、余白から裏面へ、裏面から計算用紙へ、三ページにわたって続いている。
「ここなんだけどね」
担任は、証明のページを指でとんとんと叩いた。
「先生も確認したら、たしかに問題文が間違ってました。それはごめんなさい。テストは作り直します。……で、ここだけ、中学生でも書かない説明になってるんだけど」
「偶然です」
「偶然で三ページ使わないよ」
「調子がよかったんだと思います」
「他の計算問題、三問間違えてるよね」
「調子に波がありました」
担任は、答案とユウジの顔を交互に見て、何かを言いかけて、やめた。
ユウジは無事に解放されたが、帰り道、深く反省した。
――困っている問題を見ると、手が出る。
八年鍛えた「普通の演技」の、いちばんの弱点がこれである。困りごとの前では、演技の設定を全部忘れる。プリンでも、加湿器でも、問題文でも、同じだった。
なお五時間目の体育でも、五十メートル走をクラス平均の九秒二で走りきった直後、転びそうになった隣の子を、〇・一秒だけ加速して支えている。
誰にも見られていない。本人は、そう思っている。
▽△▽
若葉園に帰ると、こぶしの家の居間には、いつもの行列ができていた。
行列といっても、並んでいるのは人ではない。物である。
腕の取れた恐竜のフィギュア。音の出なくなったゲーム機。ページの外れた図鑑。そして今日は、職員用のノートパソコンまで、メモ付きで置かれている。「起動しなくなりました。もし気が向いたら……」
園の誰もが、もう分かっているのである。ユウジの近くに壊れた物を置くと、直る。
ユウジは手を洗い、宿題を七分で終わらせ(八歳児の平均時間より少し遅いふりをするのに三分使った)、行列の処理に取りかかった。恐竜、三分。ゲーム機、五分。図鑑、二分。パソコンは部品の劣化なので、明日の朝までに手当てしておく。
夕食の時間になった。
今日のデザートはプリンである。
こぶしの家で、プリンは事件の火種と決まっている。案の定、いちばん年下の子が、スプーンを構えたところで容器を滑らせた。プリンは美しい放物線を描き、床で原形を失った。
泣き出す五秒前、とユウジの頭脳が判定する。
判定が終わるより早く、ユウジの手は自分のプリンをその子の前に置いていた。
「はい」
「……いいの?」
「うん」
その子は泣くのをやめて、プリンを食べ始めた。円満解決である。
職員の田村さんが、台所から新しいプリンを持ってきた。
「ユウジ、代わりのあるから。はい」
「俺はいらないから、それは冷蔵庫に戻しておくと、明日の分になるよ」
「ユウジも食べたかったでしょう」
「俺は大丈夫」
田村さんは、プリンを持ったまま、ユウジをじっと見た。
「あのね、ユウジ。その『大丈夫』が、先生たちは一番信用できないの」
「どうして?」
「どうしてでしょうね」
田村さんはプリンをユウジの前に置き、行ってしまった。
ユウジは首をかしげながら、プリンを食べた。おいしかった。おいしかったので、ますます分からなくなった。大丈夫だと言っているのに、なぜ信用されないのか。世界最高の頭脳が八年考え続けて、いまだに解けない問題である。
▽△▽
夜、消灯前。
ユウジは、廊下の突き当たりにある事務室の明かりを、そっと確認した。
園長先生が、まだ働いている。
ユウジは、ここ一年ほどの観察結果を、頭の中に並べる。
先生は、疲れやすくなった。階段を上るとき、踊り場で一度止まるようになった。止まったあと、何でもない顔で上り直す。食後に薬を飲んでいる。飲むところを子どもに見られないよう、湯呑みの陰で飲む。そして週に二度、書類を鞄に入れて持ち帰ろうとする。他の職員に見つかると「忘れ物よ」と笑って戻す。
全部、気づいている。
同時に、先生が「心配されたくない」と思っていることにも、気づいている。薬を隠すのも、鞄に隠すのも、笑ってごまかすのも、心配させないためだ。その気持ちは、ユウジには痛いほどよく分かる。自分がいつもやっていることと、同じだからである。
だから、ユウジの結論はこうなる。
――心配は、しない。その代わり、荷物を減らす。
ユウジは足音を消して事務室へ向かい、先生がお手洗いに立った数分のあいだに、机の上の書類の山を組み替えた。明日の会議の資料を上に、急ぎでないものを下に。計算の合わない集計表を、さりげなく正しい数字に。読みにくい手書きメモを、隅にそっと清書して。
ついでに、調子の悪い事務室のエアコンのフィルターと、がたつく椅子のネジも直しておいた。
戻ってきた先生は、机を見て、少し不思議そうな顔をした。
「……あら。私、こんなに進めてたかしら」
進めていたことにしておいてください。
廊下の角で、ユウジは満足してうなずいた。先生の今夜の残業は、これで四十分は短くなる。
ただ、ユウジの計算には入っていないことが、ひとつあった。
仕事が早く片づいた先生は、「まだ余裕がある」と判断して、来月の研修の企画書を、新しく鞄に入れたのである。
ユウジが荷物を減らす。先生が荷物を増やす。八年かけて完成した、誰も気づいていない永久機関だった。
▽△▽
翌日の夕方。
ユウジが園庭で年下の子の自転車を直していると、門の外に、見慣れた白い車が停まった。
児童相談所の車である。
ユウジは手を止めた。あの車が来る日は、たいてい、誰かの人生の大きな日だ。八年前、自分もあの車に乗って、この門をくぐった。
後部座席の扉が開く。
降りてきたのは、自分と同じくらいの背丈の少女だった。
小さなボストンバッグを、両手で、胸に抱えるように強く握っている。職員が出迎えて何か話しかけても、うなずきもしない。園舎も、園庭も、桜の木も見ない。誰の顔も、見ようとしない。
ただ、バッグを握る手の甲だけが、白くなっている。
ユウジは、その手を見た。
――あの持ち方は、知っている。
中身が大事なんじゃない。それを取り上げられたら、もう何も残らないと思っている手だ。
少女が、玄関へ向かって歩き出す。
夕日が、小さな影を長く伸ばしている。
チナツが、若葉園へやってきた。




