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パーフェクト人間ユウジ  作者: よんまるよん
第一部 帰ってきたユウジ

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4/10

第4話 完璧な乳児は記録に残る

 完璧な赤ん坊を演じる。


 そう決意したユウジは、翌日から全力で取り組んだ。


 まず、夜泣きをしない。理由もなく泣いて職員を起こすのは、完璧な赤ん坊のすることではない。


 空腹になる時刻は、体内時計で正確に分かる。おむつの状態も、当然、自分がいちばんよく分かっている。だからユウジは、必要が生じても、すぐには声を出さない。職員の巡回時刻と業務の切れ目を計算し、いちばん来やすいタイミングまで待ってから、控えめに「あー」と知らせる。


 夜勤の職員の仮眠時間には、絶対に泣かない。


 ミルクは残さず飲む。げっぷは一発で出す。寝かしつけは三十秒で寝たふりに入る。


 我ながら、完璧である。


 最初のうち、職員たちの評判は上々だった。


「ユウジちゃん、ほんとに育てやすい子ねえ」


「夜勤が楽って、みんな言ってます」


 ユウジは毛布の中で、静かに満足していた。


 誰の手も煩わせない。誰にも心配をかけない。計画どおり。


 異変に気づいたのは、経験の長い看護師だった。


▽△▽


 その看護師は、ある夜、業務記録を書く手を止めた。


 読み返してみる。ここ数週間、自分がユウジについて書いた記録。


 ――夜間、ほとんど泣かない。


 ――空腹時、職員が動きやすい時間帯にのみ発声する傾向。


 ――職員が近づく前に目を覚ましている。


 ――申し送りの内容を理解しているように見える(気のせいだと思うが、念のため記録する)。


 ――他児が泣くと、自分は泣かず、その子の方向を指さす。


 看護師は、記録を最初から、もう一度読んだ。


 育てやすい、という言葉で説明できる範囲を、この子は少し超えている。手がかからないのではない。手がかからないように、されている。まるで、こちらの勤務表が見えているような。


 ……いや、まさか。


 看護師は首を振り、記録の最後に一行だけ足した。


 ――引き続き観察。


 その頃、ベビーベッドの中のユウジは、天井を見ながら反省会を開いていた。


 ――今日、申し送りにうなずいたのは、失敗だった。


 「ユウジちゃん、明日は健診よ」と言われて、つい、こくりとやってしまった。分かっている感を出してはいけない。分からないふりが基本。しかし分からないふりが過ぎると、今度は発達を心配される。


 泣かなすぎても心配される。泣きすぎても心配される。ちょうどいい量だけ泣くのが、いちばん難しい。


 ――普通って、何なんだ。


 世界最高の頭脳が、人類の平均に苦戦していた。


▽△▽


 その夜のことである。


 乳児室には、ユウジのほかにもう一人、月齢の近い子が眠っていた。


 深夜二時過ぎ。ユウジは、隣のベッドの呼吸の変化に気づいた。


 咳き込む音。続いて、吐き戻す気配。


 ユウジの頭脳が一瞬で状況を判定する。体位、呼吸音、危険度。今すぐ命に関わる状態ではない。ただし、大人がすぐ確認するべき状態ではある。吐き戻したまま仰向けは、よくない。


 ――職員を呼ぶ。


 方法は、泣く。乳児に許された唯一の緊急通報である。


 ここでユウジは、深刻な問題に直面した。


 ――普通の泣き方が、分からない。


 演技の泣きは採血のときに失敗している。しかし今は緊急時。質より音量である。ユウジは腹に力を込め、持てる肺活量で叫んだ。


「あーーっ! あーーっ!」


 音量は完璧だった。感情は、あいかわらず一グラムも乗っていなかった。深夜の乳児室に、火災報知器のように規則正しい「あー」が響き渡る。


 夜勤の職員が駆けつけた。


「ユウジちゃん!? どうしたの!?」


 ユウジは泣きやみ、無言で、隣のベッドを指さした。


 まっすぐに。迷いなく。人差し指で。


 職員は一瞬固まったが、すぐ隣のベッドを確認し、吐き戻しに気づいて対応した。体を起こし、口の中を確かめ、着替えさせ、検温する。応援の職員も来て、その子は大事に至らずに済んだ。


 処置が落ち着いてから、職員たちは、そろってユウジを振り返った。


 ユウジは、すやすやと眠っていた。もちろん、寝たふりである。


「……この子が、教えてくれたのよね?」


「指さしてましたもんね。はっきり」


「この月齢で、他の子の異変で泣く?」


「記録、書いておきます」


 書かないでほしい。


 寝たふりの下で、ユウジは頭を抱えていた。助けたのは正解。しかし記録が、また増える。完璧な赤ん坊への道は、思ったより渋滞している。


▽△▽


 数日後、乳児室の加湿器が壊れた。


 電源は入るが、蒸気が出ない。職員が予備機と入れ替えたので、生活に支障はない。業者への連絡は明日。緊急性のない、小さな故障。


 誰も困っていない。


 誰も困っていないのだが、ユウジには、動作音の変化だけで故障の原因が分かってしまった。内部の部品がひとつ、割れている。部品さえ何とかすれば、直る。しかも予備機は旧型で、加湿量がわずかに足りない。この季節、乳児室の湿度は大事だ。


 ――直そう。


 深夜。巡回の間隔を確認し、ユウジはベッドを抜け出した。


 二本足で、音もなく廊下を進む。目指すは倉庫。あそこに工具箱があることは、日中、職員の会話から把握済みである。


 倉庫の扉を開け、棚の工具箱に手を伸ばした、そのときだった。


 棚の下の段に、見覚えのあるものがあった。


 古い、ボストンバッグ。


 ユウジの手が、止まる。


 前世の自分が、旅立ちの朝に持っていくはずだった荷物。玄関に置かれたままだったあのバッグは、いつからか、ここに移されていたらしい。捨てられずに、埃よけの布までかけられて。


 ユウジは、そっとバッグを開けた。


 着替え。洗面道具。園のみんなに書いてもらった寄せ書き。十八年分にしては軽い、自分の荷物。


 その上に、見覚えのない封筒が、ひとつ載っていた。


 表には何も書かれていない。裏に、先生の字で小さく「ユウジへ」。


 ――これは。


 旅立ちの朝、先生が手に持っていたもの。渡される前に、あの事件が起きて、受け取らないまま死んだもの。


 ユウジは、封筒を開けた。


 便箋一枚。先生の、丁寧な字。


 ――困ったら、いつでも連絡しなさい。


 ――あなたが元気なときでも、帰ってきてかまいません。


 ――帰ってくるのに、理由はいらないのよ。


 倉庫の薄暗がりで、ユウジは、その短い手紙を三回読んだ。


 あの朝、先生が言いかけて、言えなかった言葉。「困ったことがあったら来る」と答えた自分に、先生が渡そうとしていた答え。


 元気なときでも、帰ってきていい。


 理由は、いらない。


 胸の奥が、熱くなる。乳児の小さな心臓が、どくどくと鳴っている。


 ――言おうか。


 今すぐ先生のところへ行って、手紙を読んだと、帰ってきたと、俺だと。理由がいらないなら、名乗るのに資格もいらないんじゃないか。


 ユウジは便箋を持ったまま、長いあいだ、動かなかった。


 やがて、ゆっくりと手紙を畳み、封筒へ戻す。


 ――だめだ。


 この手紙は、死んだユウジに宛てたもの。今それを名乗り出れば、先生は喜ぶ前に、あの日のことを全部思い出す。せっかく前を向いて、新しい赤ん坊を「この子はこの子」と育てようとしているのに。


 だから、結論はこうなる。


 ――もう心配をかけないように、もっと役に立とう。


 手紙は「帰ってきていい」と言っている。役に立てとは、ひとことも言っていない。理由はいらない、とまで言っている。


 世界最高の頭脳は、その一点だけを、今夜も読み落とした。


 ユウジはバッグを元どおりに戻し、布をかけ直し、工具箱を抱えて乳児室へ戻った。


▽△▽


 加湿器の修理は、二十分で終わった。


 割れた部品を取り出し、倉庫にあった端材から代用品を削り出す。強度、耐熱、安全性、すべて確認済み。仕上げに動作テストを三回。蒸気は完璧に出る。新品のときより静かなくらいである。


 ――よし。


 達成感とともに、ユウジは気がついた。


 手紙のことを考えながら作業していたせいで、体力配分を間違えた。乳児の体は、パーフェクトでも乳児である。連日の完璧な赤ん坊業務と、深夜の精密作業。まぶたが、急速に重くなっていく。


 せめてベッドに戻らなければ。工具箱も、片づけなければ。


 片づけなければ……。


▽△▽


 翌朝。


 出勤してきた保育士は、乳児室で信じがたい光景を見た。


 直っている加湿器。きちんと閉じられた工具箱。


 そしてその横で、小さなドライバーを握りしめたまま、安らかに眠っている乳児がひとり。


 保育士は、しゃがんで、そっと聞いた。


「……ユウジちゃんが、直したの?」


 目を覚ましたユウジは、状況を〇・二秒で把握し、選び抜いた返事をした。


「ばぶ」


「違うの?」


「……ばぶ」


「今、考えたよね?」


 考えていない。考えていないったら、考えていない。


 ユウジは無心の顔でドライバーを振ってみせた。赤ん坊はよく物を振る。振っておけば、だいたいそれらしい。


 保育士は、加湿器と、工具箱と、ドライバーを振る乳児を順番に見て、記録簿を開き、しばらく迷ってから、こう書いた。


 ――加湿器、自然に復旧。原因不明。


 大人にも、書けない記録というものがある。


▽△▽


 その日から、若葉園に、小さな習慣が生まれた。


 壊れた玩具が、ユウジのベッドの近くに、そっと置かれるようになったのである。


 最初は偶然だった。片づけ忘れの壊れたオルゴールが、翌朝、直っていた。次は職員が半信半疑で置いた、鳴らなくなった音の出る絵本。これも翌朝、直っていた。


 職員たちは、誰もそのことを正面から話題にしない。


 ただ、壊れた玩具の置き場所が、なんとなく、ユウジの近くに決まっていく。


 ユウジも、置かれれば直す。頼まれてはいない。頼まれてはいないが、壊れた玩具は、直るのを待って困っている。ユウジの目には、そう見えるのである。


 完璧な赤ん坊の演技は、こうして、また少しずつ記録に残っていく。


 なお、当のユウジの目下の悩みは、そんな記録の山ではなく、「普通の泣き方」がいまだに習得できないことだった。


 世界最高の頭脳に、できないことは、ほとんどない。


 ほとんど、ない。

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