第2話 パーフェクト人間、病院へ連れていかれる
病院というところは、赤ん坊にとても優しい。
そして、赤ん坊のふりをしている元十八歳には、とても難しい場所だった。
ユウジは処置室のベッドに寝かされ、健康状態の確認を受けている。推定月齢、生後間もない。栄養状態、良好。目立った外傷なし。置き去りにされた経緯は不明。
経緯なら本人がいちばんよく知っているのだが、説明する手段がない。
――俺は前世でこの近くの施設で育って、園長先生をかばって死んで、神様にパーフェクト人間にしてもらって、若葉園の前に転生してきました。
仮に話せたとして、健康な大人が言っても病院に連れていかれる内容である。乳児が言えば、もっと大きな病院に連れていかれる。
黙っているのが、正解だ。
若い医師が聴診器を手に取り、息をハーッと吹きかけて温めている。冷たいと赤ん坊が驚くからだ。いい先生である。
ユウジは協力しようと思った。診察がスムーズに進めば、みんなの仕事が早く終わる。
だから、聴診器が来る前に、自分で肌着の裾をめくった。
「……あら?」
看護師が首をかしげる。
「この子、今、自分で服を……」
「偶然でしょう。手が動いただけですよ」
医師は笑うが、看護師はまだユウジを見ている。ユウジは慌てて手を離し、意味もなく宙を掴む動作をした。赤ん坊はよく宙を掴む。事前に観察済みである。
――あぶない。協力も、しすぎてはいけない。
パーフェクトな頭脳が、教訓をひとつ刻む。この体で親切をすると、怪しまれる。
▽△▽
次は採血だった。
乳児の採血は、大人が思うよりも大仕事である。看護師が二人がかりで準備をして、「ごめんねえ、ちょっとチクッとするからねえ」と何度も声をかけてくれる。
針が入る。
ユウジは痛みを感じなかった。パーフェクトな肉体は、この程度の刺激を痛みとして処理しない。
なので、泣かなかった。
処置室が、しんとする。
「……泣かない?」
「泣きませんね」
「感覚の検査、追加しておきましょうか」
――まずい。
泣かない乳児は、心配される。心配されると、検査が増える。検査が増えると、みんなの仕事も増える。
ユウジは全力で泣くことにした。
「……あー」
しかし、痛くないのに泣くのは、想像の十倍難しい。前世でも嘘が下手だったユウジである。出てきたのは、感情のこもらない、平坦な「あー」だった。
「あー。あー」
看護師二人が、顔を見合わせる。
「今……タイミングを考えなかった? この子」
「考えてないでしょう。赤ちゃんだもの」
「そうよねえ」
そうです、とユウジは心の中でうなずく。赤ちゃんだもの。考えてないもの。
考えてないふりを、必死で考えているだけだもの。
▽△▽
同じ頃、若葉園の応接室では、赤ん坊の今後についての話し合いが進んでいた。
児童相談所の担当職員と、園長先生。机の上には書類がひと揃い。
若葉園には、乳児を受け入れられる設備と人員がある。看護師も保育士もいる。発見場所が園の玄関前であることも考え合わせ、児童相談所は、若葉園への一時保護委託を候補にしていた。
ただし、と担当職員は書類から顔を上げる。
「園長先生。ひとつ、確認させてください」
「どうぞ」
「同じお名前のお子さんを、亡くされたばかりです。この時期に同じ名前の乳児をお預かりになることが、先生ご自身のお気持ちに、どう影響するか」
遠回しな言い方をやめて、職員は続けた。
「亡くなったユウジ君の代わりとして、見てしまう可能性は、ありませんか」
園長先生は、すぐには答えなかった。
誠実に考えたからだ。
同じ名前。同じ玄関。同じ毛布の包み。抱き上げた瞬間に泣きやんだ、あの目。救急車を見送ったあと、玄関に立ち尽くしていた自分。
可能性がない、と言い切れるだろうか。
先生は、二十年の仕事の中で、たくさんの子どもを見送り、たくさんの子どもを迎えてきた。その経験のすべてを使って、ゆっくりと答える。
「正直に申し上げます。同じ名前を呼ぶたびに、あの子を思い出すと思います」
「はい」
「でも、同じ名前でも、この子はこの子です。亡くなった子の代わりにはしません。……してはいけないことを、私がいちばん、よく知っています」
職員は先生の目を見て、それから小さくうなずいた。
「この子には、この子に必要な生活を用意します。それが、うちの仕事ですから」
書類の上で、手続きがひとつ、前に進んだ。
▽△▽
数日後。
赤ん坊のユウジは、一時保護委託というかたちで、若葉園に戻ってきた。
児童相談所の車から、保育士の腕に抱かれて降りる。空は晴れている。門から玄関までの短い道を、ユウジは首をねじって、隅から隅まで眺めた。
桜の木。砂場。雨どいの曲がり。前世で三回ぶつかった門柱。
――帰ってきた。今度こそ、帰ってきた。
玄関には、園長先生が立っていた。
ユウジの胸の中で、十八年と数週間ぶんの気持ちが、いっぺんに膨らむ。言うべき言葉は決まっている。この玄関で言うと決めていた言葉が、ひとつだけある。
ユウジは、口を精一杯動かした。
「たーいま」
ただいま、と言ったのである。
魂を込めて、言ったのである。
しかし乳児の口から出た音は、世界最高の頭脳の制御をもってしても、
「あーうー」
にしかならなかった。
園長先生は、ふわりと笑って、ユウジの顔をのぞきこむ。
「こんにちは、ユウジちゃん」
――こんにちは。
ユウジは、少しだけ落ち込んだ。
ただいまと言ったのに、こんにちはと返された。この差は大きい。ただいまには、おかえりが返ってくるはずなのだ。
もっとも、落ち込んだ顔も乳児の顔筋では表現できず、先生には「ふにゃっとした」ようにしか見えなかった。
「あら、眠いのかしら」
違います。感傷です。
▽△▽
こうして、ユウジの二度目の若葉園生活が始まった。
まずは乳児室に案内される。ベビーベッド、沐浴槽、調乳の設備。看護師と保育士が、交代で世話をしてくれる。
「ユウジちゃん、ここがユウジちゃんのベッドよ」
把握しました。
「お腹がすいたら、泣いて教えてね」
三時間おきですね。承知しています。
「おむつが濡れたら――」
それも泣いてお知らせします。ご安心ください。
全部理解している。しかし、理解している顔をしてはいけない。病院で刻んだばかりの教訓である。
そこでユウジは、話しかけられるたびに、意味もなく手を振ることにした。赤ん坊はよく手を振る。手を振っておけば、だいたいそれらしい。
「はーい、ユウジちゃん、お話わかるー?」
ぶんぶん。
「あらあら、ごきげんねえ」
ぶんぶん。
ユウジは手を振りながら、心の中でひとつの言葉を発見していた。
――「ばぶ」は、便利だ。
まだ発音できる月齢ではない。しかしいずれ、あの言葉が使える日が来る。肯定にも否定にも聞こえて、実際にはどちらでもない、完璧な返事。世界最高の頭脳は、獲得すべき語彙の第一位に「ばぶ」を登録した。
なお第二位は「ただいま」である。順位については、本人の中で議論の余地がなかった。
▽△▽
夜。
乳児室の常夜灯だけが、オレンジ色に灯っている。
ユウジは眠っていなかった。パーフェクトな肉体は、乳児に必要な睡眠時間を、乳児の半分で済ませてしまう。残りの時間は、天井を見ながら今後の計画を立てるのが日課になりつつある。
廊下から、静かな足音が近づいてきた。
この歩幅、この速さ。園長先生だ。
先生は、ベビーベッドのそばに立った。夜の見回りにしては、長い。柵に手を置いたまま、眠っている(ことになっている)ユウジの顔を、じっと見下ろしている。
ずいぶん経ってから、先生は、とても小さな声で言った。
「あなたは、あの子ではないのよね」
独り言だった。誰かに聞かせる声ではない。自分の胸の中の、まだ片づいていない何かを、そっと置き直すための声。
ユウジの心臓が、跳ねた。
――俺だよ。
言おうと思った。声にならなくても、目を開けて、先生の指を握って、何度でも伝えればいい。あの子だよ。ユウジだよ。帰ってきたんだよ。先生、俺、帰ってきたんだよ。
目を開ける。
そして、先生の顔を見た。
常夜灯の逆光の中で、先生は、笑っていなかった。泣いてもいなかった。ただ、四十九日のあいだ玄関のボストンバッグを片づけられなかった人の顔で、静かに、ユウジを見ていた。
――もし、俺があの子だと分かったら。
先生は喜ぶかもしれない。でも、思い出すことになる。銃声を。赤いシャツを。腕の中で目を閉じた自分を。また失うかもしれないと、これから毎日、怖くなるかもしれない。
神様の話をしても、きっと混乱させる。
だったら。
――黙って、そばにいればいい。黙って、役に立てばいい。
ユウジは、伸ばしかけた手を、そっと戻した。
代わりに、赤ん坊らしく、ふにゃ、と寝返りを打ってみせる。
先生は少し笑って、毛布を掛け直し、部屋を出ていった。
足音が遠ざかる。
ユウジは天井を見つめる。
――先生を、困らせちゃいけない。
それは、転生後最初の、大きな判断だった。
優しさから出た判断であることは、間違いない。
そして、これから長い時間をかけて育っていく、いちばん大きな間違いの、最初のひとつぶでもあった。
パーフェクトな頭脳は、何億通りもの未来を計算できる。
けれどその夜のユウジは、「先生に正体を明かした未来」を、一通りも真剣に計算しなかった。
計算するまでもなく、自分が我慢すれば済む話だと思っていたからである。




