第1話 四十九日後、玄関に赤ん坊
ユウジが死んで、四十九日が経つ。
若葉園の小さなホールで、ささやかな法要が営まれた。集まったのは職員と、ユウジと親しかった卒園者だけ。子どもたちに参列を強いることはしない。それぞれの子が、それぞれのやり方で、ユウジの死を受け止めている最中だからだ。
線香の匂いが、まだ廊下に残っている。
園長先生は、玄関の隅に目をやる。
そこには、古いボストンバッグがひとつ、置かれたままになっている。
ユウジが持っていくはずだった荷物。十八年分の暮らしにしては軽すぎる、あの日のままのバッグ。
片づけなければ、と思う。もう四十九日も経ったのだから。施設長として、いつまでも玄関に置いておくわけにはいかないのだから。
思うだけで、手が動かない。
あのバッグを動かしたら、ユウジがいなくなったことが、本当になってしまう気がする。もう十分に本当なのに、まだどこかで、本当にしていない自分がいる。
「せんせい」
振り返ると、こぶしの家のいちばん小さい子が、パジャマのまま立っている。この子は毎朝、起きるとまず玄関を見に来るのだ。
「ユウジ、帰ってこないね」
「……そうね」
「困ったことがあったら来るって言ってた。ぼく、いっぱい困ってるのに」
先生は、しゃがんで目線を合わせる。
もう帰ってこないのよ、とは言えない。
いつか帰ってくるよ、という嘘も言えない。
だから先生は、その子の背中に手を当てて、朝ごはんの匂いのするほうへ、一緒に歩くことしかできなかった。
▽△▽
翌朝。まだ空が薄い青色の時間。
玄関の呼び鈴が鳴った。
一度きり。遠慮がちな、短い音。
早番の先生が事務室から出るより先に、園長先生が玄関にいた。理由は自分でも分からない。強いて言えば、あの呼び鈴の鳴らし方に、聞き覚えのようなものがあった。
扉を開ける。
誰もいない。
視線を下げると、足元の敷石の上に、毛布の包みがひとつ。
包みの中で、何かが動いている。
「――っ」
先生は息を呑み、それでも体は正確に動いた。膝をつき、毛布をそっと開く。赤ん坊。呼吸、ある。顔色、悪くない。手足、動いている。体は温かい。置かれてから、そう時間は経っていない。
「田村さん! 救急車と警察! それから児相に連絡!」
事務室に向かって声を張る。自分の声が、思ったよりも冷静なことに驚く。二十年以上この仕事をしてきた体が、勝手に手順をなぞってくれている。
赤ん坊が泣き出した。
先生は毛布ごと抱き上げようとして、そこで気づく。
毛布の端に、小さな布の名札が縫い付けてある。
手が、止まった。
名札には、拙い字でこう書かれていた。
――ユウジ
周りの音が遠くなる。朝の鳥の声も、廊下を走ってくる職員の足音も、全部が一度、消える。
十八年前。まだ若い児童指導員だった自分が、この同じ玄関で、同じように毛布の包みを抱き上げた。あのときの毛布にも、同じ名前の名札が付いていた。
――ユウジ。
腕の中で、赤ん坊はまだ泣いている。
先生は、ゆっくりと抱き上げた。
赤ん坊が目を開ける。
黒い、まっすぐな目が、先生を見上げる。
泣き声が、ぴたりと止んだ。
▽△▽
――先生だ。
赤ん坊は、そう思っていた。
正確に言えば、赤ん坊の姿をしたユウジは、そう思っていた。
ユウジの記憶は、先生の腕の中で終わっている。銃声と、赤いシャツと、「だいじょうぶ?」と聞いた自分の声。そこで一度途切れて、白い空間と泣いている神様があって、気がついたら毛布に包まれて、この玄関の前にいた。
そして今、目を開けたら、また先生の腕の中にいる。
――帰ってこられた。
ユウジは安心して、笑った。
世界最高の頭脳は、すでにフル回転している。自分の体が生後間もない乳児であること。筋力も声帯も未発達であること。この状況が客観的にどう見えるか。全部、計算済みだ。
それでも、腕の中の温かさの前では、どんな計算も後回しになる。
先生は、笑ったユウジの顔を見て、一瞬だけ息を止めた。
その笑い方を、知っている気がしたのだ。プリンを譲ったあとの、褒められる理由が分からないという顔で笑う、あの――。
……いいえ。
先生は小さく首を振る。赤ん坊は、みんなこんなふうに笑う。ただの見間違い。ただの、思い出しすぎ。
遠くから、サイレンの音が近づいてくる。
▽△▽
それからの若葉園の玄関は、めまぐるしかった。
救急隊が赤ん坊の状態を確認する。警察官が周辺の状況を調べ、置かれていた位置や毛布について質問する。児童相談所の職員も到着し、今後の手続きの説明が始まる。
園長先生は、施設長として、すべてに正確に対応した。
この子をこのまま預かりたい、とは言わない。言ってはいけないことも、言う立場にないことも、よく分かっている。赤ん坊はまず病院へ。身元の調査。一時保護の判断。すべては手続きの先にある。
年配の警察官が、名札を手に、少し言いにくそうに尋ねた。
「こちらに……同じ名前のお子さんが、いらしたそうですね」
「いました」
「偶然、でしょうか」
先生は、一拍おいて答える。
「……偶然です」
言いながら、自分がその言葉を、警察官に向けて言ったのか、自分に向けて言い聞かせたのか、分からなくなった。
同じ玄関。同じ毛布の包み。同じ名札。同じ名前。
そして、抱き上げた瞬間に泣きやんだ、あの目。
偶然です、と先生はもう一度、心の中だけで繰り返す。繰り返すほど、言葉は薄くなっていく。
▽△▽
赤ん坊のユウジは、救急隊員の手で、ストレッチャーの上の小さな保育器に乗せられた。
――なるほど。病院で健康状態の確認。それから警察の調べと、児童相談所の一時保護。正しい手順だ。
ユウジの頭脳は、これから起きることを完全に理解している。乳児が置き去りにされた場合の標準的な対応。関わる機関。おおよその日数。何も問題はない。全部、必要な手続きである。
理解している。
理解しているのだが。
先生の腕から離された瞬間、ユウジは、生まれて(二度目に生まれて)初めて慌てた。
――待って。
せっかく帰ってきたのに。やっと帰ってきたのに。また、ここから連れていかれる。
手足をばたつかせてみる。乳児の手足は、情けないほど短い。声を出してみる。
「あーっ! あーっ!」
「おや、元気だねえ」
救急隊員が優しく笑う。違う。元気の確認ではなく、抗議である。しかし乳児の声帯では、抗議も元気も同じ音になる。パーフェクトな頭脳をもってしても、この体から「帰りたい」の三文字を出す方法だけは、どうしても計算できない。
救急車の扉が閉まる直前、ユウジは首を精一杯ねじって、玄関を見た。
先生が、立っている。
こちらを、じっと見ている。
その顔が少しだけ、あの日の――ユウジを抱き起こした日の顔に似ていて、ユウジは手足をばたつかせるのをやめた。
――先生を、困らせちゃだめだ。
ユウジはおとなしくなる。いい子の赤ん坊の顔をする。
扉が閉まり、救急車が走り出す。
▽△▽
揺れる車内で、ユウジは天井を見つめながら、今後の計画を立て始めた。
まず病院で健康を証明する。次に一時保護。若葉園には乳児を受け入れる設備がある。手続きが順調なら、戻れる可能性は十分ある。よし。何も心配はいらない。
そこまで考えて、ユウジは人生二度目の、重大な事実に気がついた。
――神様は、俺を若葉園の玄関前に置いてくれた。
――そこから先の手続きは、何もしてくれていない。
健康診断も、身元調査も、一時保護の判断も、全部これから、人間の制度がひとつずつ進めていく。神様の仕事は、玄関前まで。きっちり、玄関前まで。
願いどおりと言えば、完全に願いどおりである。「若葉園の前に置いてください」と頼んだのは、ほかならぬユウジ自身なのだから。
――もうちょっと、ちゃんとお願いすればよかった。
パーフェクト人間ユウジ、生後推定数週間。
生まれ変わって早々、社会制度に連れていかれた。




