プロローグ 優しいアホが死んだ
ユウジはアホだった。
本当にアホだった。
優しいアホだった。
勉強は得意ではない。テストの点はいつも真ん中より少し下。運動も苦手で、かけっこは後ろから数えたほうが早い。先生の説明を最後まで聞かず、途中で動き出しては失敗する。そういう子である。
ただひとつ、誰にも負けない特技がある。
誰かが困っていることを見つける速さだ。
幼い頃、年下の子がおやつのプリンを床に落とすと、ユウジは一秒で自分のプリンを差し出す。友達が掃除当番を忘れて帰ろうとすれば、黙って雑巾を二枚用意して待っている。職員が重い米袋を運んでいれば、自分の宿題を放り出して駆けつける。
そして、あとで必ずこう言うのだ。
「だって、困ってたから」
褒められたいわけではない。お返しも求めない。そもそも本人は、自分が親切をしたとすら思っていない。目の前に困っている人がいる。だから手を出す。ユウジの中では、雨が降ったら傘をさすのと同じくらい当たり前のこと。
問題は、その計算式のどこにも「自分」が入っていないことだった。
▽△▽
ユウジは赤ん坊の頃、「ユウジ」と書かれた名札とともに、児童養護施設・若葉園の玄関前で発見された。
行政上の正式な名前はあとから付けられている。けれど園では、最初からずっとユウジだ。
園長先生は、当時まだ若い児童指導員だった。
ユウジが熱を出した夜には、病院まで付き添ってくれた人。学校で花瓶を割ったときには、隣で一緒に頭を下げてくれた人。運動会でぶっちぎりの最下位になったユウジに、ゴールまで拍手を送り続けてくれた人。
高校三年になると、先生は何度もユウジと進路の話をする。
「大学もあるのよ。専門学校でもいい。あなたに合う場所を探しましょう」
「就職します。住み込みのところ」
「どうして?」
「俺が出れば、一人分空くから」
施設の入所は、そんな単純な仕組みではない。先生は制度の話を丁寧に説明する。ユウジは真剣な顔でうなずく。うなずくだけで、まったく理解していない。就職先を選び直す気配もない。
先生は書類を閉じて、静かに思う。
――この子は、自分がいなくなることだけを、誰かの役に立つ方法だと思っている。
▽△▽
卒業後、ユウジが若葉園を出る朝。
荷物は古いボストンバッグひとつ。十八年分の暮らしにしては、あまりに軽い。
玄関には、同じ生活グループ「こぶしの家」の子どもたちと、勤務中の職員が集まっている。
年下の子がユウジのシャツの裾を引っ張る。
「ユウジ、また来る?」
「うん」
「いつ?」
「困ったことがあったら」
「困ってなくても来てよ」
「困ってないなら、大丈夫だろ」
子どもは頬をふくらませる。大丈夫かどうかの話ではないのだ。けれどユウジには通じない。
園長先生が一歩前に出る。手には小さな封筒。
「ユウジ。帰ってくるのに、理由は――」
その言葉は、最後まで届かなかった。
門の外で、悲鳴が上がる。
▽△▽
近隣で強盗事件を起こした武装犯が、警察の包囲から逃れて、若葉園の敷地に入り込んでいた。
男の手には拳銃。目は追い詰められた獣のそれだ。
職員たちがすぐに動く。子どもたちを建物の奥へ。窓から離して。通報はすでに済んでいる。
男は逃走用の人質を探して、玄関のほうへ銃口を向ける。その先には、まだ避難しきれていない子どもたちの背中。
先生が両手を広げて、その前に立ちふさがった。
「子供たちに手を出さないで!」
いつも穏やかな先生の、聞いたことのない声。
男の視線が先生に移る。
「人質なら、私がなります。だから、この子たちには指一本触れないで」
男は先生の腕をつかむ。
先生は抵抗しない。それどころか、自分から玄関の外へ足を踏み出す。犯人を、子どもたちから一歩でも遠ざけるために。
ユウジは動けなかった。
膝が震えている。喉がからからに乾いている。
戦う力はない。速く走る力もない。頭のいい作戦なんて、一個も浮かばない。
助けたいのに、どうすれば助けられるのか分からない。
銃口が先生に向く。
そのとき、短い記憶がいくつも重なった。
熱を出した夜、手を握ってくれた先生。
最下位のゴールに、最後まで拍手をくれた先生。
就職用の革靴を、一緒に選んでくれた先生。
――先生が、困ってる。
それだけで、いや、その一点だけで、ユウジの体は動くのだ。
▽△▽
警察官の制止。職員の悲鳴。
全部を振り切って、ユウジは走る。
作戦はない。勝算もない。あるのは「先生が困っている」という事実だけ。
ユウジは先生に体当たりし、犯人の腕から引き剥がす。
乾いた音が響く。
撃たれたのは、ユウジだった。
先生が射線から外れた瞬間、警察が一斉に犯人を押さえ込む。
先生はユウジを抱き起こす。シャツに広がる赤。震える手。
ユウジは自分の傷を見ていない。先生の顔だけを見ている。
「せんせい……」
「しゃべらないで。救急車が来るから。すぐ来るから」
「せんせい……だいじょうぶ?」
撃たれた側が、聞くことではない。
でも、先生に怪我はない。それが分かると、ユウジはほっと息を吐く。
よかった。
安心しきった顔のまま、ユウジは目を閉じた。
▽△▽
目を開けると、そこは真っ白な空間だった。
上も下もない。あるのは、目の前で号泣している、やたら威厳のありそうなおじいさんだけ。長いひげ。光る衣。どう見ても神様である。
神様は、ぼろぼろ泣いていた。
「おまえ、なんであんなことしたんだよ!」
「先生は?」
「助かったよ! 無傷だよ!」
「よかった」
ユウジは心の底から笑う。自分が死んだことには、ほとんど反応しない。
神様はますます泣く。神様が人間の死に方でここまで泣くのは、相当めずらしいことなのだが、ユウジはそれを知らない。
「何か欲しいものはないのか」
「特にないです」
「遠慮するな。生まれ変われるんだぞ。金持ちでも、天才でも、勇者でも、何でもできるぞ」
「何でも?」
ユウジは考える。
思い出すのは、さっきの玄関だ。膝が震えて、何もできなかった自分。もし警察が間に合わなかったら。もし体当たりが失敗していたら。先生を守れなかったかもしれない。
あんな思いは、もう二度としたくない。
欲しいものなら、ある。
「パーフェクト人間になりたいです」
「パーフェクト人間?」
「何でもできて、誰でも助けられる人です」
神様はひげを拭いながら、うむ、とうなずく。
「よかろう。して、どこに生まれ変わりたい」
「もう一度、若葉園の前に置いてください」
「……また捨てられたいのか?」
「はい」
「どうしてだ」
ユウジは、不思議そうな顔で答える。聞くまでもないことを聞かれた、という顔で。
「あそこが、俺んちだから」
神様は、また泣いた。
▽△▽
神様は約束を守った。
世界最高の頭脳。何億通りもの未来を計算できる思考力。
人間を超えた身体能力。病気にも怪我にも負けない肉体。
一度見た技術を、完全に習得してしまう才能。
神は、ユウジのすべてを完璧にした。
ただひとつ。
困っている人を見ると自分の損得を丸ごと忘れる、あの致命的な性質――ユウジがアホであることだけは、神様は最後まで、欠点だと認識しなかった。
なにしろ神様は、その部分にいちばん泣かされたのである。
こうして、パーフェクトな頭脳と、優しいアホの心を持つ赤ん坊がひとり、この世に送り出されることになった。
行き先は、児童養護施設・若葉園の玄関前。
ユウジの、帰る家である。




