第9話 見間違いは高速で走らない
「あんた、何者なの?」に「八歳」と答えて以来、チナツの視線は、明らかに変わった。
監視である。
食堂でも、廊下でも、宿題の時間でも、気がつくと視界の端にチナツがいる。何かを話しかけてくるわけではない。ただ、じっと見ている。証拠集めの続きであることは、ユウジにも分かっていた。
――普通にしていれば、問題ない。
ユウジは普通を続行した。宿題はわざと一問間違え、廊下は普通の速さで歩き、プリンは普通に譲った。最後のは普通ではないという自覚が、本人にはない。
そうして迎えた、日曜日である。
▽△▽
休日の園庭は、にぎやかだった。
小さい子たちは砂場で山を作り、真ん中では鬼ごっこが走り回っている。職員が二人、全体を見ながら、ときどき洗濯物を取り込みに行く。いつもの、平和な休日。
ユウジは園庭の隅で、年下の子の自転車の練習に付き合っていた。
補助輪を外したばかりの、五歳の子である。
「ユウジ、離さないでね!」
「うん」
サドルの後ろを支えて、並んで走る。ユウジの支えは完璧だった。傾けば傾いた分だけ、正確に、優しく戻す。ふらつきの予兆は、ふらつく前に消す。転倒の可能性は、発生する前に摘み取る。
その結果、どうなるか。
その子は、いつまでも一人で乗れないのである。
通りかかった職員の田村さんが、しばらく眺めてから言った。
「ユウジ、それ、ずっと支えてるでしょ」
「危ないから」
「危なくないと、自転車は覚えられないのよ。少し手を離して、見守って」
「転ぶよ?」
「転んだら、起きるから」
ユウジは、納得のいかない顔で手を離した。
子どもはふらふらと五メートルほど進み、砂利で滑って、ぽてんと転んだ。ユウジの足が反射的に出かかる。田村さんが目で止める。子どもは自分で起き上がり、膝を払って、また自転車にまたがった。
「見てて! 今の、けっこう乗れてた!」
転んだのに、笑っている。
ユウジは、支えるでもなく、助けるでもなく、ただ立って見ているという任務の、あまりの難しさに直面していた。手のひらが、行き場をなくして、開いたり閉じたりしている。
――見守るって、何をすればいいんだ。
何もしないことが、こんなに忙しいとは知らなかった。
▽△▽
事故は、その直後に起きた。
園庭の反対側。大型遊具のいちばん高いところに、六歳の子が登っていた。得意げに手を振ろうとして、雨上がりでまだ湿っていた手すりから、手が滑る。
小さな体が、宙に投げ出された。
高さは三メートル近い。下は固い地面。職員は二人とも、距離がある。
チナツは、ちょうどそちらを見ていた。悲鳴を上げようとして、息を吸った。
その、息を吸い終わるより早く。
視界の端にいたはずのユウジが、消えた。
正確には、消えたように見えた。園庭の隅の自転車のそばから、大型遊具の真下まで、十数メートル。チナツの目は、その移動を捉えられなかった。
次の瞬間、ユウジは遊具の下にいて、落ちてきた子を、両腕で抱き止めていた。
衝撃を吸収するように膝を沈め、頭と首を丁寧に守った、完璧な受け止め方。
一拍遅れて、ユウジが走ったはずの地面から、土埃がふわりと舞い上がった。
チナツの吸った息は、悲鳴にならないまま、行き場を失った。
「――たいへん! 大丈夫!?」
職員たちが駆けつける。ユウジは抱き止めた子を静かに地面へ下ろした。子どもは、何が起きたのか分かっておらず、きょとんとしてから、遅れて泣き出した。怪我は、どこにもない。
「よく受け止めたね、ユウジ! 近くにいたの?」
「うん。たまたま」
職員たちは泣いている子の確認に集中していて、それ以上は聞かなかった。十数メートル先にいたはずの子が「近く」にいた矛盾に、気づく余裕もない。
ただ一人、チナツだけが、全部を見ていた。
土埃の舞い方まで、全部。
▽△▽
その夜、消灯前。
チナツはユウジを、園庭の隅の物置へ呼び出した。
狭い物置の中、豆電球ひとつ。スコップと肥料の袋に囲まれて、尋問が始まった。
「昼間の、あれ、何?」
「何のこと?」
「遊具の下まで、走ってなかった。瞬間移動みたいだった」
「見間違いだよ」
「ふうん」
チナツは、腕を組んだ。
「じゃあ今、同じ見間違いをして。この目の前で」
「……それは難しい」
「見間違いは、リクエストできないもんね」
屋根のときと同じだ。この男子は、追い詰められると嘘の在庫が尽きる。チナツは畳みかけることにした。
「もう、鳥はいいから。正直に言って。あんた、何ができるの?」
ユウジは、少し黙った。
隠し通す計算と、チナツがすでに見た事実の照合。屋根、階段、そして今日の落下。世界最高の頭脳が出した結論は、シンプルだった。
――この人には、隠しきれない。
「……だいたい、何でも」
「だいたい何でも、じゃ分かんない。順番に言って」
ユウジは、指を折りながら説明を始めた。
「頭は、たぶん世界のどのコンピュータより速い。一回見た技術は覚える。料理も、医療も、建築も。体は、人間の記録は全部超えてると思う。怪我はすぐ治る。病気にはならない。目と耳は、遠くも小さい音も分かる」
「…………」
「あと、息は三十分くらい止められる」
「息の話は聞いてない」
チナツは、頭を抱えた。
嘘だと言いたい。でも、この目で見たものが三つある。四メートルの垂直跳び。二段先からの瞬間の支え。そして今日の、土埃が遅れて追いかけてくる移動。全部、この説明となら辻褄が合ってしまう。
辻褄が合うことが、いちばん怖い。
「……できないことは、ないの?」
聞いてから、意地悪な質問だったかと思った。
ユウジは、真剣に考えてから答えた。
「人の気持ちは、たまに間違える」
「たまにじゃないと思う」
「そう?」
「私で、もう三回は間違えてる」
バッグ。母親の計画書。それから、数えたくないので数えていない細かいのが、いくつか。
ユウジは「三回……」と真面目に記憶を検索し始めた。検索しているところが、もう間違いなのだが、指摘してもきっと伝わらない。
▽△▽
チナツは、質問の向きを変えた。
能力の中身より、気になっていることがある。
「そういうの、全部隠してるんだよね。先生にも、学校にも」
「うん」
「なんで私には話したの」
「見られたから」
「見られてなかったら、ずっと黙ってた?」
「うん」
「……もし、隠してるのがばれて、あんたが変な研究所とかに捕まったら、どうするの」
半分は、意地悪で聞いた。半分は、本気で心配になったからだ。四メートル跳ぶ八歳児の映像なんて、世に出たら、ただでは済まない。
ユウジの答えは、考える間もなく出てきた。
「俺は大丈夫」
「またそれ」
チナツは、豆電球の下で、ユウジの顔をまじまじと見た。
この顔は、強がりの顔ではない。ごまかしの顔でもない。自分が捕まる未来を、心配の対象として、そもそも計算に入れていない顔だ。
他人が転ぶ可能性は、発生する前に摘み取るくせに。
自分が落ちる可能性だけ、この男子の完璧な頭脳は、いつも計算し忘れている。
「あんたさ」
チナツは、ため息をついた。
「頭、いいんだよね? 世界一なんだよね?」
「たぶん」
「なのに、なんで自分のことだけ、そんなに適当なの」
「適当じゃないよ。俺のことは、俺が我慢すれば済むから、計算が早く終わるだけ」
「それを適当って言うの!」
声が大きくなって、チナツは慌てて口を押さえた。物置の外の気配をうかがう。誰も来ない。
ユウジは、怒られた理由が分からない顔で、律儀に続きを説明している。
「大丈夫だよ。前に一回、失敗したときも、俺が死んだだけで、他は誰も怪我しなかったし。先生を困らせたのだけが、失敗だったけど」
「…………」
「だから今度は、先生に心配かけないように――」
「待って」
チナツは、手のひらをユウジに向けた。
「今、なんて言った?」
「先生に心配かけないように」
「その前」
「他は誰も怪我しなかった」
「そのもうちょっと前」
「……俺が死んだだけで?」
物置の豆電球が、じじ、と小さく鳴った。
チナツは、ゆっくりと息を吸って、吐いた。
「能力の説明はもういいから。先に、死んだ話を説明して」




