第18話 家は、建物だけではない
引っ越しの前の晩、こぶしの家は、段ボールの城になっていた。
廊下に積まれた箱の列。ガムテープの音。「これ誰の靴下!」という叫び声。荷造りというものは、どの家でやっても、だいたい同じ騒がしさになるらしい。
チナツは、自分の部屋で、荷物を詰め終えたところだった。
最後に残ったのは、小さなボストンバッグ。
若葉園へ来た日に、胸に抱えて門をくぐった、あのバッグである。
チナツは、バッグを膝に載せて、少しのあいだ、じっとしていた。
これを詰めた日のことは、覚えている。前の家で、大人たちの声を背中に聞きながら、着替えを押し込んだ。どこへ行くのかは、教えられなかった。いつまでなのかも、分からなかった。あの荷造りは、住む場所を失うための準備だった。だからバッグを、取られないように、ずっと強く握っていた。
今度の荷造りは、違う。
どこへ行くのか、知っている。地図で見た。下見にも行った。
誰と行くのか、知っている。こぶしの家の、いつもの六人と、田村さんたち。
学校は、変わらない。お母さんとの面会の場所も、変わらない。工事が終わったら、ここへ戻ってくる。戻る日の目安まで、紙に書いて渡されている。分からないことがあれば、質問していいことになっていて、実際、チナツはもう四回、質問した。四回とも、ちゃんと答えが返ってきた。
チナツは、バッグを段ボールの一番上に、そっと載せた。
それから、マジックのふたを開けて、箱の側面に、自分の字で書いた。
――こぶしの家 チナツ
行き先と、名前。
自分の荷物に自分で行き先を書くのは、九年間で、初めてのことだった。
▽△▽
仮住まいは、隣の学区との境にある、法人の古い研修棟だった。
そして、新しい生活は、初日から迷子の連続だった。
台所の位置が違う。風呂のボイラーは機嫌の取り方が違う。トイレの電気のスイッチは、なぜか廊下の反対側にある。夜、いちばん小さい子が「おうちがちがう」と泣き出し、つられてもう一人泣き、高校生は「駅まで遠すぎる」と毎朝文句を言い、田村さんは配膳のたびに食器棚の位置を間違えた。
ユウジの頭脳は、初日の夕方までに、すべての解決策を計算し終えていた。
動線を三本直せば、配膳の迷いは消える。荷物の配置をこう変えれば、朝の渋滞は解消する。ボイラーは設定を二か所いじれば機嫌が直る。夜泣きには、前の部屋の常夜灯と同じ色の電球を――。
買い出しメモを書き始めたところで、横から紙を抜かれた。
チナツだった。
「はい、没収」
「まだ何も」
「書いてる時点でアウト。……あのさ」
チナツは、メモをひらひらさせながら、居間を見回した。
食器棚の前で「こっちだっけ」「そっちは掃除用具」と笑っている田村さんと高校生。トイレの電気を消し忘れて怒られている子。ボイラーの説明書を、みんなで囲んで読んでいる職員たち。
「最初くらい、みんなで迷えばいい」
「迷うのは、無駄じゃない?」
「無駄だよ。でもさ」
チナツは、メモをユウジの胸に返した。
「迷ってるうちに、覚えるの。ここが自分の家だって。あんたが全部先回りしたら、みんな、お客さんのままでしょ」
ユウジは、返されたメモを見た。
完璧な最適化の計画。これを実行すれば、全員の不便が、今夜中に消える。
そして、たぶん、チナツの言うとおり、この家は誰の家にもならない。
ユウジは、メモを折りたたんで、ポケットにしまった。
二週間後、こぶしの家のみんなは、ボイラーの機嫌の取り方を全員がマスターし、廊下の反対側のスイッチを誰も間違えなくなり、夜泣きしていた子は、新しい常夜灯の下でも眠れるようになっていた。
誰も最適化していないのに、生活は、ちゃんと家の形になった。
ユウジのポケットのメモは、一度も開かれないまま、洗濯で粉々になった。
▽△▽
数か月後。
正式な補強工事を終えた若葉園へ、こぶしの家が帰る日が来た。
トラックから段ボールが降ろされ、子どもたちは荷物より先に駆け出していく。
建物は、同じで、同じではなかった。
外壁は塗り直され、壁紙は新しくなり、居間の家具の位置は、工事の都合で少し変わっている。三段目のきしむ階段は、きしまなくなっていた。前と完全に同じ場所は、もう、どこにもない。
それでも、玄関には、待っている人たちがいた。
別の生活グループの子どもたちと、職員たち。休みを合わせて来てくれたアキラさんと、工務店の卒園者。園長先生は、その真ん中に立っている。
「おかえりなさい」
先生の声に、子どもたちの声が重なった。
「おかえりー!」
「おかえり、チナツ!」
チナツは、一瞬、返事に詰まってから、小さく「……ただいま」と言った。言ってから、耳が赤くなった。
列の最後に、ユウジがいた。
段ボールを抱えて、玄関の前に立つ。
前世の自分が、ボストンバッグひとつで旅立とうとした玄関。撃たれて、先生の腕の中で目を閉じた場所。毛布にくるまれて、二度目の人生を置かれた敷石。「たーいま」が「あーうー」にしかならなかった朝。
全部、この数メートルの中にある。
「おかえり、ユウジ!」
年下の子が、先に言った。
「おかえりー」「おかえり、ユウジ」
声が、次々に重なる。
ユウジは、段ボールを抱えたまま、動けなくなった。
パーフェクトな頭脳が、静かに、一つの結論を出していた。
帰りたかったのは、この柱でも、この屋根でもなかった。壁紙が変わっても、家具が動いても、階段がきしまなくなっても、ここが帰る場所であることは、一ミリも揺らがない。
俺が帰りたかったのは、建物じゃない。
こうやって、俺の名前を呼んでくれる人たちの、いるところだ。
「……ただいま」
ユウジは、言った。
今度は、一発で、ちゃんと発音できた。
▽△▽
夕方、荷ほどきが一段落した頃、ユウジは事務室に呼ばれた。
園長先生が、湯呑みを二つ用意して、待っていた。片方には、ユウジの分の麦茶が入っている。
「お疲れさま。座って」
ユウジは、椅子に座った。
窓の外では、子どもたちが、戻ってきた園庭を走り回っている。
ユウジは、ずっと聞きたかったことを、聞いた。
「先生。今度は、ちゃんと助けられた?」
「助けてもらいました」
先生は、迷わず答えた。
「計画の土台も、書類も、それから、八十六人の名簿も。全部、力になりました」
「俺も、役に立った?」
「役に立ちました」
「じゃあ……ここにいて、いい?」
聞いた瞬間、ユウジは、自分の質問の形に、自分で気づいた。
役に立った、だから、いていい。
二つの人生を貫いてきた、あの計算式。工事が終わっても、正体を明かしても、泣いても、式は、まだ心の一番深いところで、動き続けていたのである。
先生は、湯呑みを置いた。
そして、ゆっくりと、はっきりと、言った。
「役に立たなくても、いていいんです」
ユウジの目から、涙があふれた。
今度の涙は、静かではなかった。
八歳の子どもの、声を上げた泣き方だった。しゃくり上げて、息を詰まらせて、顔をぐしゃぐしゃにして泣く、年相応の、みっともない、まともな泣き方だった。
先生は、椅子ごとユウジの隣へ来て、背中をさすった。
前世の十八年間、ユウジは、こんなふうに泣いたことがなかった。誰かのためになら、胸を痛めたことはある。でも、自分のために声を上げて泣くことは、一度もなかった。泣くという行為も、心配をかける迷惑の一種として、計算式が却下し続けてきたからである。
二度目の人生で、初めて。
ユウジは、自分のために、泣いた。
式の答えを待たずに泣ける場所が、ここにあった。
▽△▽
その夜、消灯前の廊下で、チナツは足を止めた。
廊下の壁を、じっと見る。
新しくなった壁紙は、工事の範囲だと聞いていた。でも、その先。工事範囲ではないはずの、突き当たりの壁の古い傷も、天井の隅の染みも、建て付けの悪かった物入れの戸も、なぜか全部、異常にきれいに直っている。プロの仕事より、なめらかに。
チナツは、ゆっくりと振り返った。
背後の廊下を、歯磨きに行くふりのユウジが、通りかかるところだった。
「ねえ。あれ、誰が直したの?」
「……鳥かな」
「まだいたの、靴を履いた鳥」
「渡り鳥だから、たまに来る」
「帰ってきた初日に働く渡り鳥が、どこにいるの」
ユウジは、歯ブラシをくわえて、洗面所へ逃げた。
チナツは、その背中を見送って、ため息をついた。
ため息をつきながら、少しだけ、笑ってしまった。
直したがりの帰ってきた家は、今夜も、どこかが静かに直っていく。
家は、建物だけではない。
建物だけではないが、この家の建物は、当分、日本一手入れのいい建物であり続けるに違いなかった。




