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パーフェクト人間ユウジ  作者: よんまるよん
第一部 帰ってきたユウジ

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18/19

第18話 家は、建物だけではない

 引っ越しの前の晩、こぶしの家は、段ボールの城になっていた。


 廊下に積まれた箱の列。ガムテープの音。「これ誰の靴下!」という叫び声。荷造りというものは、どの家でやっても、だいたい同じ騒がしさになるらしい。


 チナツは、自分の部屋で、荷物を詰め終えたところだった。


 最後に残ったのは、小さなボストンバッグ。


 若葉園へ来た日に、胸に抱えて門をくぐった、あのバッグである。


 チナツは、バッグを膝に載せて、少しのあいだ、じっとしていた。


 これを詰めた日のことは、覚えている。前の家で、大人たちの声を背中に聞きながら、着替えを押し込んだ。どこへ行くのかは、教えられなかった。いつまでなのかも、分からなかった。あの荷造りは、住む場所を失うための準備だった。だからバッグを、取られないように、ずっと強く握っていた。


 今度の荷造りは、違う。


 どこへ行くのか、知っている。地図で見た。下見にも行った。


 誰と行くのか、知っている。こぶしの家の、いつもの六人と、田村さんたち。


 学校は、変わらない。お母さんとの面会の場所も、変わらない。工事が終わったら、ここへ戻ってくる。戻る日の目安まで、紙に書いて渡されている。分からないことがあれば、質問していいことになっていて、実際、チナツはもう四回、質問した。四回とも、ちゃんと答えが返ってきた。


 チナツは、バッグを段ボールの一番上に、そっと載せた。


 それから、マジックのふたを開けて、箱の側面に、自分の字で書いた。


 ――こぶしの家 チナツ


 行き先と、名前。


 自分の荷物に自分で行き先を書くのは、九年間で、初めてのことだった。


▽△▽


 仮住まいは、隣の学区との境にある、法人の古い研修棟だった。


 そして、新しい生活は、初日から迷子の連続だった。


 台所の位置が違う。風呂のボイラーは機嫌の取り方が違う。トイレの電気のスイッチは、なぜか廊下の反対側にある。夜、いちばん小さい子が「おうちがちがう」と泣き出し、つられてもう一人泣き、高校生は「駅まで遠すぎる」と毎朝文句を言い、田村さんは配膳のたびに食器棚の位置を間違えた。


 ユウジの頭脳は、初日の夕方までに、すべての解決策を計算し終えていた。


 動線を三本直せば、配膳の迷いは消える。荷物の配置をこう変えれば、朝の渋滞は解消する。ボイラーは設定を二か所いじれば機嫌が直る。夜泣きには、前の部屋の常夜灯と同じ色の電球を――。


 買い出しメモを書き始めたところで、横から紙を抜かれた。


 チナツだった。


「はい、没収」


「まだ何も」


「書いてる時点でアウト。……あのさ」


 チナツは、メモをひらひらさせながら、居間を見回した。


 食器棚の前で「こっちだっけ」「そっちは掃除用具」と笑っている田村さんと高校生。トイレの電気を消し忘れて怒られている子。ボイラーの説明書を、みんなで囲んで読んでいる職員たち。


「最初くらい、みんなで迷えばいい」


「迷うのは、無駄じゃない?」


「無駄だよ。でもさ」


 チナツは、メモをユウジの胸に返した。


「迷ってるうちに、覚えるの。ここが自分の家だって。あんたが全部先回りしたら、みんな、お客さんのままでしょ」


 ユウジは、返されたメモを見た。


 完璧な最適化の計画。これを実行すれば、全員の不便が、今夜中に消える。


 そして、たぶん、チナツの言うとおり、この家は誰の家にもならない。


 ユウジは、メモを折りたたんで、ポケットにしまった。


 二週間後、こぶしの家のみんなは、ボイラーの機嫌の取り方を全員がマスターし、廊下の反対側のスイッチを誰も間違えなくなり、夜泣きしていた子は、新しい常夜灯の下でも眠れるようになっていた。


 誰も最適化していないのに、生活は、ちゃんと家の形になった。


 ユウジのポケットのメモは、一度も開かれないまま、洗濯で粉々になった。


▽△▽


 数か月後。


 正式な補強工事を終えた若葉園へ、こぶしの家が帰る日が来た。


 トラックから段ボールが降ろされ、子どもたちは荷物より先に駆け出していく。


 建物は、同じで、同じではなかった。


 外壁は塗り直され、壁紙は新しくなり、居間の家具の位置は、工事の都合で少し変わっている。三段目のきしむ階段は、きしまなくなっていた。前と完全に同じ場所は、もう、どこにもない。


 それでも、玄関には、待っている人たちがいた。


 別の生活グループの子どもたちと、職員たち。休みを合わせて来てくれたアキラさんと、工務店の卒園者。園長先生は、その真ん中に立っている。


「おかえりなさい」


 先生の声に、子どもたちの声が重なった。


「おかえりー!」


「おかえり、チナツ!」


 チナツは、一瞬、返事に詰まってから、小さく「……ただいま」と言った。言ってから、耳が赤くなった。


 列の最後に、ユウジがいた。


 段ボールを抱えて、玄関の前に立つ。


 前世の自分が、ボストンバッグひとつで旅立とうとした玄関。撃たれて、先生の腕の中で目を閉じた場所。毛布にくるまれて、二度目の人生を置かれた敷石。「たーいま」が「あーうー」にしかならなかった朝。


 全部、この数メートルの中にある。


「おかえり、ユウジ!」


 年下の子が、先に言った。


「おかえりー」「おかえり、ユウジ」


 声が、次々に重なる。


 ユウジは、段ボールを抱えたまま、動けなくなった。


 パーフェクトな頭脳が、静かに、一つの結論を出していた。


 帰りたかったのは、この柱でも、この屋根でもなかった。壁紙が変わっても、家具が動いても、階段がきしまなくなっても、ここが帰る場所であることは、一ミリも揺らがない。


 俺が帰りたかったのは、建物じゃない。


 こうやって、俺の名前を呼んでくれる人たちの、いるところだ。


「……ただいま」


 ユウジは、言った。


 今度は、一発で、ちゃんと発音できた。


▽△▽


 夕方、荷ほどきが一段落した頃、ユウジは事務室に呼ばれた。


 園長先生が、湯呑みを二つ用意して、待っていた。片方には、ユウジの分の麦茶が入っている。


「お疲れさま。座って」


 ユウジは、椅子に座った。


 窓の外では、子どもたちが、戻ってきた園庭を走り回っている。


 ユウジは、ずっと聞きたかったことを、聞いた。


「先生。今度は、ちゃんと助けられた?」


「助けてもらいました」


 先生は、迷わず答えた。


「計画の土台も、書類も、それから、八十六人の名簿も。全部、力になりました」


「俺も、役に立った?」


「役に立ちました」


「じゃあ……ここにいて、いい?」


 聞いた瞬間、ユウジは、自分の質問の形に、自分で気づいた。


 役に立った、だから、いていい。


 二つの人生を貫いてきた、あの計算式。工事が終わっても、正体を明かしても、泣いても、式は、まだ心の一番深いところで、動き続けていたのである。


 先生は、湯呑みを置いた。


 そして、ゆっくりと、はっきりと、言った。


「役に立たなくても、いていいんです」


 ユウジの目から、涙があふれた。


 今度の涙は、静かではなかった。


 八歳の子どもの、声を上げた泣き方だった。しゃくり上げて、息を詰まらせて、顔をぐしゃぐしゃにして泣く、年相応の、みっともない、まともな泣き方だった。


 先生は、椅子ごとユウジの隣へ来て、背中をさすった。


 前世の十八年間、ユウジは、こんなふうに泣いたことがなかった。誰かのためになら、胸を痛めたことはある。でも、自分のために声を上げて泣くことは、一度もなかった。泣くという行為も、心配をかける迷惑の一種として、計算式が却下し続けてきたからである。


 二度目の人生で、初めて。


 ユウジは、自分のために、泣いた。


 式の答えを待たずに泣ける場所が、ここにあった。


▽△▽


 その夜、消灯前の廊下で、チナツは足を止めた。


 廊下の壁を、じっと見る。


 新しくなった壁紙は、工事の範囲だと聞いていた。でも、その先。工事範囲ではないはずの、突き当たりの壁の古い傷も、天井の隅の染みも、建て付けの悪かった物入れの戸も、なぜか全部、異常にきれいに直っている。プロの仕事より、なめらかに。


 チナツは、ゆっくりと振り返った。


 背後の廊下を、歯磨きに行くふりのユウジが、通りかかるところだった。


「ねえ。あれ、誰が直したの?」


「……鳥かな」


「まだいたの、靴を履いた鳥」


「渡り鳥だから、たまに来る」


「帰ってきた初日に働く渡り鳥が、どこにいるの」


 ユウジは、歯ブラシをくわえて、洗面所へ逃げた。


 チナツは、その背中を見送って、ため息をついた。


 ため息をつきながら、少しだけ、笑ってしまった。


 直したがりの帰ってきた家は、今夜も、どこかが静かに直っていく。


 家は、建物だけではない。


 建物だけではないが、この家の建物は、当分、日本一手入れのいい建物であり続けるに違いなかった。

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